2007-01-01から1年間の記事一覧

「御霊信仰」の原像 ―怨霊と祟り―・5

「悪霊論」の著者である小松和彦氏は、「御霊信仰」はもともと民俗社会の人々の信仰としてあったのであり、歴史上はじめて文献に登場してくる平安時代初期の権力者による京都での「御霊会(ごりょうえ)」は、民族社会の人びとの要請によって催されたのだ、…

「御霊信仰」の原像 ―怨霊と祟り―・4

弥生時代になってから戦争が起きてきた、と言われています。 農耕定住の暮らしが始まって群れの規模が大きくなり、集団ヒステリーとしての戦争を引き起こした。 集団ヒステリーとは、第二次大戦下のドイツや日本のように、祝福し祝福される対象を失った集団…

「御霊信仰」の原像 ―怨霊と祟り―・3

おそらく誰の中にも他者にたいする攻撃衝動というのはあるのだろうが、それは、「本能」と言えるほど根源的な衝動ではない。 こんなにもたくさんの人間が群れ集まって暮らしていれば、そういうことの鬱陶しさややこしさはいろいろあるわけで、そこから生まれ…

「御霊信仰」の歴史 ―怨霊と祟り―・2

ヒットラーは、「人は、目に見える敵が必要である」と言った。 「敵」という概念は、いつごろから生まれたのか。そんなもの、生き物としての歴史が始まったときからあったのでしょう。 弱い者には、天敵がいる。しかし、地球上でもっとも強い生き物になった…

「御霊信仰」の水源 ―怨霊と祟り―・1

「悪霊論」の著者である小松和彦氏は、「怨霊」を鎮めようとする「御霊信仰」は、中世の支配層のいる都市(京都)から生まれてきたのではなく、それ以前に「民俗社会」にあったものだと言っています。つまり、そういう「迷信」は、まず「異人に対する恐怖心…

「いじめ」と強迫観念

支配と被支配の関係が厳然と存在していた前近代の民俗社会の人々(村人)にとって、支配者は、「異人」だった。人々が支配を受け入れるということは、根源においてその異人を「まれびと」として迎え入れている、ということを意味する。 それにたいして支配者…

「穢れ」の自覚

「古事記」によれば、死んだイザナミノミコトのあとを追いかけていったイザナギノミコトは黄泉の国の入り口である黄泉比良坂(よもつひらさか)で死人の群れと出会い、あわてて逃げ帰ったものの、みずからの身が穢れてしまったことを深く自覚し、「みそぎ」…

「いじめ」と公共心

僕は、「まれびと信仰」を過去の習俗だとは思っていない。今なおわれわれの中に息づいている、普遍的な他者にたいする意識の、あるかたちだと思っている。 民俗社会の心性の根底に「異人にたいする恐怖心と排除の思想」がはたらいているとする小松氏の分析の…

いじめられることの「穢れ」

「穢れ」は、共同体内部で発生し、共同体に充満している。共同体において支配されてあるがわの民俗社会の人びとは、そういうしがらみから解放されたがっている。できれば「出てゆきたい」という衝動を、潜在意識として抱えている。 支配されてあることは、「…

「異人論」 穢れ

いじめ」の問題についてもう少し考えていきたいと思っています。しかし僕にとってそれは、解決法を見つけることではなく、「異人論」をきっちり把握することだと思っています。解決法なんて、僕にわかるはずがない。誰かひとりでもいい、このレポートを「い…

河童の原像

「異人論」の著者である小松和彦氏は、「民俗学は、ナイーブな民俗社会賛美だけにとどまるのではなく、“忌まわしい部分”もちゃんと把握しておかなければならない」という。それは正論です。しかしその根拠が、民俗社会の人びとがその心性の根底に抱えている…

「「いじめ」と「異人殺し」 ―民俗社会から現代社会へ―

教育現場の「いじめ」というところから思い切り拡張して「いじめの衝動」を考えれば、それはまず、空腹であるとか息苦しいとか暑いとか寒いとか痛いとか疲れたとか、そのように意識(観念)が身体からいじめられているという、この生の根源的なありようから…

「いじめ返す」ということ

人間が生き物であるかぎり、誰もが「いじめ」を受けて存在している。 空腹であるとか暑いとか寒いとか痛いとか疲れたとか、身体の苦痛を察知することは、意識(観念)が身体から「いじめ」を受けている状態です。だから意識(観念)は、身体を支配していじめ…

「いじめ」という祝祭

まったく、華やいでいやがる・・・・・・。 これは、司馬遼太郎の「峠」という小説の冒頭で主人公がつぶやくせりふです。 北国の秋の終わりころ、人びとは、冬支度のために木に藁を巻いたり漬物にする野菜を買い込んだりと、いっとき活気づいている。 まるで、祝祭…

「いじめ」の原像

「いじめ」の問題を発言することは、教育の現場にいるわけでもないやつがなにいってやがる、といわれそうな後ろめたさがあります。 だから、こうすればいい、とかというようなことはできればいいたくないし、いえる能力もないと思っています。 しかし、われ…

「いじめ」について、もう少し具体的に考えてみる

「異人論」を考えることは、「いじめ」について考えることなのでしょうか。ある人からそういう指摘を受け、ちょっとうろたえています。それは、とてもじゃないが僕の手に負える問題ではないのだが、いわれてみればたしかにそういう他者論を含んでいるような…

共同体の構造とまれびと信仰

僕は、民俗社会の人びとが美しい心の持ち主だなんて、ひとことも言ってないですよ。 体験的に言えば、そりゃあ、ときにいじましく卑怯でいやらしい人種かもしれない。しかし、だからといって、小松和彦氏の言うような「異人にたいする恐怖心と排除の思想」を…

「異人殺し」と現代の「いじめ」の関係

「異人殺し」を現代の世相に引き寄せて考えれば、「いじめ」の問題になってくるのだろうと思えます。 「いじめ」は、人間社会で不可避的に起きてくるものだ、というような論調はよく聞きます。小松和彦氏が「民俗社会の人々における異人にたいする恐怖心と排…

閑話休題・ポイ捨て雑感

戦後の「モク拾い」という商売は、いったいいつごろまであったのだろうか。道端に落ちている吸殻を拾い集め、それをぜんぶほぐして、また一本ずつの新しい煙草に再生して売る、という商売です。 戦後の一時期は、それほどに煙草が貴重品だった。 僕が5・6…

まれびとの原像・2

「人間は、神になろうとしなければ、人間にすらなれない」と言った西洋の哲学者がいます。 人間であることは、神になろうとすることらしい。 神(ゴッド)と人間をはっきり分けているキリスト教の国ですらそういう認識が生まれてくるのだから、神と人間の境…

「まれびと」の原像

「まれびと」という概念は、折口信夫によって提出されたのがはじめらしいが、その詳しい定義はよく知らない。ただ、僕には僕の「まれびと」のイメージがある。あるとき、その言葉で、たくさんのことが一挙に腑に落ちたような気がした。 「まれびと」は、はじ…

閑話休題・横綱の病気

近ごろ、横綱朝青龍の心身問題が話題になっている。 ねじめ正一という人は、「朝青龍がいつもモンゴルに帰りたがるのは、それほどに彼が孤立し、繊細で素直な傷つきやすい心をもっているからだ」というようなことを語っていました。 僕には、よくわからない論…

異人論という他者論

小松和彦氏のいう「異人にたいする恐怖心や排除の思想」は、民俗社会の心性というよりじつは「戦争の時代」を生んだ近代の市民意識そのものにほかならない。現代人は、まさにその観念によって戦争を繰り返しているのであり、アメリカのイラク侵攻はその典型…

「まれびと信仰」は、日本的なセックスアピールの問題でもある・2

近世になると、遊行者や巡礼の風俗も乱れて来る。ただの物見遊山のくせに遊行者や巡礼のふりをして民家に泊めてもらおうとする者や、宗教者じしんも信仰そっちのけで商売気をあらわにする者も出てきた。しかし、そうした不心得者が出てくるということは、民…

「まれびと信仰」は、日本的なセックスアピールの問題でもある。

近世の村人の中には、積極的に町との交易をはじめて貨幣を蓄積してゆく者も生まれてきた。そういう家が村人の妬みの対象になり、「異人殺し」の家という「しるしづけ」をされることになる。 本当にそんな事件があったかどうかなどわからない。ほとんどは、村…

閑話休題・エコロジーについて考える

エコロジーという思想は、いったいどこから生まれてきているのか。 僕じしんは、タバコのポイ捨てくらいいいじゃないかと思っているのだから、そんな思想を声高に叫ぶ人々と連帯したいわけでもないのだが、否定するつもりもありません。 やっぱり、平和とか…

異人殺しとまれびと信仰

小松氏によれば、村人の異人にたいする態度が、「排除」と「歓待」の両義性を持つのは、「その異人が人々に富をもたらしてくれるのか、災厄をもたらしに来たのか、見当がつかないからである」と言っています。 この人は、歴史や伝統というものをなんと考えて…

近世の村における「異人殺し」

近世になると、遊行者や巡礼の風俗も乱れて来る。ただの物見遊山のくせに遊行者や巡礼のふりをして民家に泊めてもらおうとする者や、宗教者じしんも信仰そっちのけで商売気をあらわにする者も出てきた。しかし、そうした不心得者が出てくるということは、民…

村人と漂泊する異人の関係

小松和彦氏の「異人殺しのフォークロア」という論文の締めくくりの一節です。 ・・・ それはひと言でいえば、民族社会内部のつじつま合わせのために語り出されるものであって、「異人」にたいする潜在的な民俗社会の人々の恐怖心と“排除”の思想によって支えられ…

「異人」のいる風景

戦後の日本は、ひどい時代だった。人々の意識は荒廃し、物はなく、戦争の傷跡は人の心にも体にも街の景色にも、いたるところに残っていた。 団塊世代はそんな状況の中で生まれ、そして育っていったのです。ろくな人間になるはずがない。 しかし、不思議なも…