「いじめ」について、もう少し具体的に考えてみる

「異人論」を考えることは、「いじめ」について考えることなのでしょうか。ある人からそういう指摘を受け、ちょっとうろたえています。それは、とてもじゃないが僕の手に負える問題ではないのだが、いわれてみればたしかにそういう他者論を含んでいるような気もします。
「異人論」の小松和彦氏がいうように、民俗社会の人々は、共同体の秩序を維持するために「異人にたいする恐怖心と排除の思想」をかき立てて生きていたのだろうか。そういう「いじめ」の衝動によって生きていたのだろうか。小松氏の論をそのまま援用すれば、現代社会で「いじめ」が起きるのは、そうした前近代の意識の残滓を引きずっているからであって、近代の市民意識とは無縁だ、ということになる。
しかし、そうじゃないでしょう。
前近代の民俗社会は、支配という「いじめ」に従順だった。それが、民俗社会の伝統です。太平洋戦争の1億総玉砕という合言葉にしても、それほどに民衆が支配という「いじめ」に従順な心性を持っていたからでしょう。それは、天皇制がどうのという以前に、異人という旅人を「まれびと神」として受け入れ歓待する習俗が、縄文時代以来の伝統として民俗社会に定着していたからであり、そういう「まれびと信仰」から天皇制が生まれてきた。
たぶん、天皇制がなくなっても、「まれびと信仰」はそうかんたんにはなくならない。
民俗社会の心性は、異人を「排除」しようとする「いじめ」の衝動ではなく、逆に「いじめ」を受け入れてゆく従順さとしてつくられてきた。
現代の「いじめ」のややこしさにしても、われわれがそういう国民性を持っていることの上に成り立っている問題なのだろうと思えます。
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一方いじめるがわが後ろめたさを持っていないという現代的な傾向は、汚いものは排除しなければならない、煙草のポイ捨てを許してはいけないと、そうやって共同体の公共心(市民意識)とやらが、いじめてもかまわないというお墨付きを与えているからではないでしょうか。現代のいじめる者たちは、いじめてもかまわないと思ってやっている。これほど「いじめ」の問題が大きく取りざたされているのに、まだいじめてもいいのだという気持になってしまう。
「いじめ」はよくない、といっても、いじめている当人には、あまり説得力はない。いじめることには、社会のお墨付きがある。
そういう社会の「構造」がある。
それは、「民俗社会の心性」の問題ではない。「権力」の問題でしょう。「いじめ」とは、権力を持とうとする衝動だろうと思えます。権力(支配)とは、他者を非支配者のがわに「排除」しようとすることであると同時に、そういうかたちで「関係」しようとすること。他者を「差異化」してゆくことによって、みずからのアイデンティティを確認しようとすること。他者が「差異」としてたちあらわれたことに気づく受動性ではなく、その体験を喪失して、「差異化」してゆこうとする能動性。他者を支配しようとする能動性。
言葉とは「差異化」の運動である、とよく言われます。まあそういうむずかしいことはよくわからないのだけれど、言葉によって指示された対象にたいする「反応」を共有する行為でもあります。実質的に共有しているかどうかわからないとしても、結果として共有している。言葉によって他者と同じ場に立たされること、それが、言葉という体験なのだろうと思えます。それにたいして「いじめ」は、他者を異なる場に向かって排除することだ。たぶん、「いじめ」をしていると、言葉が貧しくなる。権力者の言葉が貧しいのが、その証拠です。
「いじめ」とは他者と何かを共有する体験の喪失だとすれば、戦後社会の少子化とか核家族化という流れとも関係あるのでしょうか。所有欲とはひとつの権力欲であり、ともに他者を排除することの上に成り立っている。
もしも「いじめ」が人類永遠の課題であるのなら、それはやっぱり、権力の発生を水源にしているのだと思えます。それは、「権力」の問題なのだ。
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現代社会においては、市民もまた支配者のひとりであるような情況になっている。だから、市民に、支配されてあることの「嘆き」は希薄です。権力者は、われわれが選んでやっている。場合によっては、市民のほうが権力意識が強かったりする。
支配されてあることの「嘆き」が解消された市民社会では、権力(支配)衝動が一気に子供たちのところまで下りてゆく。
支配されてあることを自覚できない子供たち、そういう「嘆き」のない状態は、親にかまわれすぎても、ほったらかしにされても起きてくる。暖かい家庭であれば子供は「いじめ」に走らないとか、そういう問題ではないでしょう。むしろ「嘆き」がなく、親の支配にたいする反応すらも支配されてしまっている子供のほうがもっとやばいのではないか、とも思えます。支配されてあることの「嘆き」を感じないまま育った子供は、知らず知らず自分も支配者になってゆく。
いじめられているがわ以外の子供に支配されてあることにたいする「嘆き」がめばえるのは、高校生になったくらいからでしょう。そうして「他者」を発見する。
で、大人になって市民社会に参加してゆくにしたがってまた、「嘆き」が薄れ、他者を「差異化」し「排除」してゆこうとする衝動が一般化してゆく。
大人の「いじめ」は、昔は権力の府である官公庁において際立っていたが、いまや一般社会にも広がっているらしい。
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学校の「いじめ」に警察の介入を仰ぐべきか否かということがよく議論される。僕は、仰いでかまわないと思う。権力にたいする「嘆き」がないから「いじめ」をするのだとすれば、権力というものは怖いものだという感慨は、体験したほうがいいような気がする。
現代では、親にしろ共同体にしろ、あからさまに「権力」の顔を見せない。だから、知らず知らず誰もが権力の行使の方法を身につけていってしまう。
権力にたいする「嘆き」が希薄だから、じつにかんたんに自分が権力者になってしまう。
現代では、消費者やPTAも、ときにわがままで理不尽な権力者になったりする。たとえば、仕事を休んで学校のやり方にクレームをつけに来た親が、仕事を休んで来たのだからその保証をしろと要求したりすることもあるらしい。世の中のそうした「権力」の氾濫が、「いじめ」の氾濫にもなっているような気がしないでもない。
「いじめ」はひとつの犯罪なのだから、警察に訴えてもいいと思う。そして警察も、本気で対処して欲しい。ただ、いじめられている当人はそう簡単にそういう行動が取れないのだから、まわりがしてやらないといけない。
また、いじめるがわに問題があるといっても、それは社会の「構造」の問題なのだから、どうにもならない面もある。
いじめるがわには、現代の市民意識が反映しており、いじめられるがわは、民俗社会の「まれびと信仰」の伝統に浸されている。われわれは、いじめられることを受け入れてしまう国民性を持っており、そのことが問題をややこしくしている。誰もが、いじめるがわにもいじめられるがわにもなってしまう契機を抱えている。「いじめ」が生まれてくるような社会だし、それを受け入れてしまう国民性がある。甘ったるい言い方になってしまうが、どちらもそういう情況の被害者だ、という側面がある。
おそらく今のところ、「いじめ」をなくすことはできない。それを摘発することができるだけだ。なくすことができると思っているから、学校側は何もしないのだ。校長先生がご立派な訓示をたれても、大して効き目があるとも思えない。そうやって「教育」してゆけばそのうちなくなるだろうと思っているから、何もしない。
現代の教育が、現代の市民意識や「まれびと信仰」の伝統を屠り去るために機能しているわけではないでしょう。現代の教育現場が「いじめ」をなくそうとすることは、教育の自己否定になってしまう。
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負けたらいかん、といじめられるがわの心性を否定してしまうことは、僕はようしない。いじめられることを受け入れてしまう心を肯定しつつ、救い出してやることができなければならないのではないか、と思う。それは、他者を祝福する心性なのだ。そういう心がこの国における支配者の暴走を許す歴史をつくってきたと同時に、ときにこの国の対外的な危機を救ったり、伝統文化の基礎ともなってきたのだから、僕はそれを肯定する。
初期大和朝廷帰化人ラッシュや、幕末開国の混乱は、他者(異文化)を祝福し受け入れる心性によって乗り切ってきた。そして、欧米の「いじめ」に反旗を翻すかたちで太平洋戦争に突入してしまい、敗戦後は、アメリカの占領を全面的に受け入れることによって奇跡的な戦後復興を果たした。
「いじめ」を受け入れる心性より、克服しようとする心性のほうが正しいとは、かならずしもいえない。克服しようとすることによって失ってしまう何かがある。極端にいえば、克服しようという意欲を持たせてやったと大人は手柄話のように語るが、当人はそれによって平凡な子供になってしまった、という場合もある。その責任は、いったい誰が取るのか。彼(彼女)が幸せになることと、彼(彼女)が彼(彼女)らしくあることと、どちらが大切なことであるのか。
「いじめ」を受け入れる心性は、肯定してやらねばならない。それをやめさせることは、まわりがいち早く察知してまわりの責任で処理するしかない。当人の力で克服することを要求するべきではない、と思う。そんなことを考えていると、学校側はいつまでたっても隠蔽しにかかってくる。
薄っぺらな頭で考えてはみたもの、正直なところは、よくわかりません。ただ、僕が今こだわっている「異人論」とそういう問題が通底しているのだとすれば、素通りすることもできない。