嘆きの哲学と哲学の嘆き

安倍総理がやめて、今度は菅総理になるらしい。

この先の世の中はいったいどのようになってゆくのでしょうね。

いずれにせよ僕にとっての不愉快な政治状況はまだまだ続くらしい。いや、もっとひどくなるのでしょうか。

あの人は、他人を信じていない。他人を信じないことは、この世の中で出世するためのもっとも有効な武器のひとつです。

まあ今どきは、右翼全体が他人を信じていない世の中らしいです。

僕は、左翼ではないが、反自民・反右翼です。それはつまり、明治以降の政治史が好きになれない、ということです。

べつに確たる政治思想など持ち合わせておりませんが、大日本帝国とか国家神道というようなものはグロテスクだと思います。

とくに明治以降の国家神道制度の醜悪さには我慢がなりません。

で、日本列島の伝統としてのほんらいの神道とはどういうものかということは、ここ数年ずっと考え続けています。

起源としての神道は、古代の仏教伝来のときに、仏教に対するカウンターカルチャーとして民衆社会から生まれてきました。

そのようにして民衆社会から生まれてきたプリミティブな神道が、千数百年かけてじわじわと国家権力に乗っ取られてゆき、ついにはモダンなカルト宗教というかたちで民衆支配の道具へと変質してしまったのが明治政府による国家神道であり教育勅語した。

国家主義というのは、国家権力のプロパガンダによって生まれてきた思想であり、明治政府は国家神道によって民衆の心の中に国家主義を植え付けてゆきました。洗脳していった、というか。

少なくとも江戸時代までの民衆の頭には、「国家」という概念はありませんでした。だから、国歌も国旗もなかったのでしょう。

もともとのやまとことばの「国(くに)」という言葉に「国家」という概念は含まれていなかったのです。まあ、「故郷」とか「世の中」というようなニュアンスでした。

明治以降の民衆がなぜああもかんたんに国家主義に洗脳されてしまったのかといえば、その洗脳の道具がもともと民衆のものだった「神道」だったからでしょう。

だからわれわれは、ほんらいの神道国家神道とは似て非なるものだということをちゃんと確かめる必要があるのではないでしょうか。

起源としての神道は民衆社会のたんなる祭りの習俗だったのであり、明治以降の国家神道はまぎれもなくカルト宗教です。だから僕は、「民族」とか「伝統」というものにこだわりながらも、右翼が嫌いなのです。

われわれ民衆は、「民族」とか「伝統」という概念を、右翼という名の国家主義者たちの手から取り戻す必要があるのではないでしょうか。

明治以来のたかだか150年の国家主義や家族主義が、どうして「伝統」と決めつけられねばならないのでしょうか。

国家や家族は人と人の関係の結果としてあるだけのものであって、国歌や家族の存続のために人と人の関係が決定されているというようなものではないでしょう。人間性の自然として、そんなふうになるはずがないでしょう。

日本人にとって国家とは何かとか家族とは何かというような伝統はないのです。

日本人の人と人の関係の作法はどのようにはぐくまれてきたか、という伝統があるだけです。

日本列島の伝統に、国家論とか家族論というようなものはないのです。

国家も家族も、人と人の関係のなりゆきの結果としてつくられていけばいい、というのが日本列島の伝統なのです。

だから日本列島の歴史においては、家系図なんか適当に捏造しても許されてきたし、江戸時代までの民衆の頭の中には国家という概念などいっさいなかったのです。

大和朝廷の発生以来、国家を意識してきたのはいつだって権力社会だけだったし、一部の神道がそういう国家権力と結託しながら国家神道がつくられてきたのです。

日本列島の伝統においては人と人の関係がいちばん大切なのだし、今でもだれだってそのことをいちばん気にしながら生きているはずなのに、どうして国家論や家族論が優先されてしまうのですか。だから、今どきの右翼はいけ好かないのです。

僕は伊勢の生まれだから伊勢神宮は大好きだし素敵な神社だと思っていますが、日本史において最初に国家権力と結託していったのは伊勢神宮の神官たちによって生み出された「伊勢神道」です。

現在のあの愚劣な国家神道は、古代の伊勢神道からはじまっています。

したがって現在の伊勢神宮に残されている儀式に起源としての神道のかたちがあるというわけではないのです。あんなものは、国家権力と結託しながらもったいをつけてそれらしいかたちに仕上げられてきただけの、むしろ時代とともにもっともても変質してしまった、いわばただのカルト儀式なのです。

起源としての神道は、田舎の鎮守の杜におけるぴーひゃらどんどんの祭りの賑わいの中にこそ残っているのです。

僕だって伊勢神宮の森や川や橋や建物は大好きだけど、伊勢神道なんてろくなもんじゃないですよ。

僕が子供のころに通った小学校のそばに皇学館大学という伊勢神道の本拠地があって、あの陰鬱な雰囲気の石造りの建物はまさにカルト宗教の秘密結社のようで、ほんとうに気味悪かったです。

あの建物のそばを通るたびに僕は、あの中でわけのわからないおどろおどろしい儀式がなされているのだろうな、と想像していました。

もしかしたら皇学館にはお化けが住んでいる、というような噂があったのかもしれないし、自分で勝手にそう決めつけていただけかもしれないし、今となってはもうよく思い出せません。

まあ僕にとっての国家神道というのはそういうイメージで、後年、神道をそういうカルト宗教にしてしまったのは江戸末期の平田篤胤という国学者だったということを知りました。

今の日本会議神社本庁の建物も、なんだか気味悪いですよね。

僕は今でも、「皇学館」という言葉そのものに不気味さと恐怖を感じます。

幼少期に伊勢神宮のそばで暮らしたものからすると、大好きな伊勢神宮国家神道というカルト宗教の巣窟にしてもらいたくないという気持ちがあるし、してしまえる人たちも気味悪いです。

正月や終戦記念日などに伊勢神宮靖国神社の参道を妙な旗を立てて行進している人たちを見ると、ゾンビの群れのように思えてしまいます。

僕は神道を日本的なメンタリティの原点だと思っているけど、国家神道はとても気持ち悪いです。

ほんらいの神道には国家という概念などないし、人を支配する教え(教義)もありません。ただもうこの世界の輝きを祝福しているだけです。それが、神道の原型であり本質なのです。

みんなで世界や他者の輝きを祝福しながら集団として盛り上がってゆくのが、神道という祭りの賑わいの作法です。

神道とは、祝福の作法なのです。

今どきの右翼は、祝福するということを知らなすぎます。外国を敵視したり女を差別したりとか、そんなことばかりじゃないですか。

起源としての神道は、世界や他者を他愛なくときめき祝福してゆく祭りの賑わいの作法だったのです。

まあ今どきは右翼も左翼も、「日本人に生まれてよかった」とか「自己肯定感が大切だ」とか、おかしな屁理屈ばかりこねてきます。

われわれが人間として祝福しているのは、自分ではなく、世界や他者のはずです。人は、そこから生きはじめるのではないでしょうか。

だれもが他者を祝福している世の中なら、自分を祝福する必要なんかないでしょう。

自分のことを忘れて他者を祝福しているのなら、自分を祝福している必要なんかないでしょう。言い換えれば、人間は根源において自分を祝福したり肯定したりする根拠を持っていないから、自分を忘れて世界や他者にときめいてゆくことができるのでしょう。

たぶんだれの心の底にも、何かのはずみで「自分なんか生きている値打ちもない人間のクズだ」思ってしまう傾向が潜んでいるのでしょう。だからかんたんに「死んでしまいたい」とか「もう死んでいい」と思ってしまったり、うつ病になったりするのでしょう。

自分を肯定し、自分に執着し、いつも自分のことばかり意識しているのが普遍的な人間性だというわけではないでしょう。

何が「日本人に生まれてよかった」か。

自分は日本人だという意識など希薄であるのが日本列島の伝統なのです。それが、古代のおおらかさというものです。

日本人であるという前に人は、生きてあるというそのことにいたたまれなさやくるおしさや悩ましさを抱えている存在であり、その「嘆き」から人としての「おおらかさ」が生まれてくるのでしょう。

生きものは根源において生きられない存在であり、だからこそ他者に「生きていてくれ」と願ってしまう。みんながそう願っていたら、だれも「自分には生きる権利がある」などと思う必要はないでしょう。

生きるいとなみは、根源において「もう死んでもいい」という勢いでなされているのです。その勢いがなければ生きるいとなみは成り立たないのです。

「もう死んでもいい」という勢いで命のエネルギーを消費してゆくのが生きるいとなみです。その勢いがなければ、もったいなくて消費できないでしょう。

生きものは、その勢いで子を産み育てる。これは、生物学の問題であって、倫理や道徳の話ではありません。人類の歴史は、その勢いで進化発展してきたのです。

 

まあそんなことを語りたくて、ユーチューブをはじめようと思いました。

でも、こんなしょぼくれたジジイが家族に内緒で世間の前に顔をさらしてしゃべるということは、そうそうスムーズに勢いがつくというものではないようです。

撮影のために新しいスマホを買うのに1週間かかり、マイクとか三脚とかホワイトボードとかをそろえるのにさらに二週間かかり、これからユーチューブの手続きの仕方を知り合いに教えてもらいに行ってきます。

それから撮影をはじめ、ユーチューブの番組としてアップするのは、はたして9月中にできるかどうか。

僕と同年代でも簡単に始めることができる人はいくらでもいるのだろうが、何しろこちらは徹底したパソコンオンチだから、なかなか前に進めないでいます。

あきらめて手を引いてしまえば一番楽なのはわかっているけど、やっぱりそうはいきません。

この世界はわからないことだらけだし、世の中に流布している人類史や日本文化論の通説に対しては、「そうじゃないだろう」といいたくなることがたくさんあります。

「そんなの変だ」とか「そんなことあるものか」と思えることがたくさんあって、それでも黙って生きているというのは、まあやっぱりちょっといたたまれないものがあります。

今どきは本の受け売りをして知ったかぶりをすることが全盛の時代で、本や教科書に書いてあることを解説する番組がユーチューブの主流らしいのだけれど、それはこの社会が停滞していることの証しでしょう。

既存の情報や考え方だけでいいのなら、世の中は前に進まないでしょう。

人類史における既存の学説はつねに変更され続けているのであり、そうやってたえず変転してゆく動きを持っているのが人間の世界の普遍的なかたちではないでしょうか。

既存の常識を疑うということ。「わかる」のではなく「なんだろう?」と思うこと。それが人間的な知性の基礎であるはずです。

気取った言い方をすれば、「わからない」という知の荒野に立って身もだえしたり途方にくれたりするところから「考える」ということがはじまるのであって、「わかる」ということは考えることの終わりでしかありません。

言い換えれば、「わかる」ということは、そこでさらにたくさんの「わからない」ことと出会う、ということです。そうやって「わからない」ということに身もだえしているからこそ既存の通説を「疑う」という思考態度が生まれてくるというわけです。

「批評」とは「疑う」ことであり、それこそが人間のもっともプリミティブな思考態度だと僕は考えています。

つまり、「知る=わかる」ことではなく、「なんだろう?」と思うこと。それがほんらいの「学ぶ」ということです。

「学ぶ」の「まな」の語源は「興味深いもの」や「親愛なもの」のことで、それに「不思議」「震える」の「ふ」がついて「なんだろう?と思う」こと、「探求する」こと、というようなニュアンスになります。

「なんだろう?」と思うことは、「疑う」ことでもあるはずです。

「学ぶ」とは、「疑う」ことや「不思議に思う」ことであって、「わかる」ことではないのです

近ごろは「教育系ユーチューブ」というようなジャンルがあって本や教科書の解説動画が流行っているらしいが、だからといって人々の知的好奇心が活発にはたらいている時代だともいえないような気がします。考えることを省いて手っ取り早い解答を欲しがっているだけかもしれません。

また、人生や金儲けのハウツー本とか自己啓発本が本屋の棚を賑わわせていることだって、お手軽な解答を欲しがっているだけのことであり、それもまた時代の停滞や閉塞感をあらわしているのでしょうか。

哲学をするのに哲学の本を読む必要なんかありません。考えればいいだけです。人間や歴史について「なんだろう?」と思えばいいだけです。だれでも知っていることに、もう一度「なんだろう?」と問い直せばいいだけです。その結果として自分の考えたことがプラトンマルクスニーチェと同じだったとしても、それは本を読んで得た知識とは根本的に違います。「考える」という過程があるかないかの違いです。そその「過程」のとをを、古代のアジア人は「道」といっていました。

考えることの醍醐味というのはやっぱりあるわけで、それは「わからない」という荒野に分け入っていくことであり、恋することと同じです。キスすることと同じです。

哲学とは、「わからない」ということに恋することであり、じつは何がわかるわけのものでもないのです。

宗教にはその先に「悟り」の境地や天国や極楽浄土が待っているけど、哲学がたどり着く地平は、さらに深くて多くの「わからない」ということです。

死ぬまで「わからない」という荒野の分け入ってゆくこと、それが哲学や批評の醍醐味であり、それが人間の地のはたらきの本質なのだろうと思います。つまり人類の歴史はそうやってはじまり、永遠にそうやって流れてゆくのだろうと思います。

恋する人も失恋した人も、死者を想う人も、みんな哲学者ですよ。そのへんの知ったかぶりの哲学オタクよりも、ずっと哲学的な存在ですよ。

つまり、哲学をすることと哲学者であることとはまた別のことなのですよね。

哲学者とは哲学をお勉強する人のことであって、彼らがみんな哲学をしているとはかぎりません。

それに対して何でもかんでも「なに、何?」と聞かずにいられない幼児は、まさしく哲学をして生きているともいえます。彼らはそれを言葉にすることができないけど、じつはわれわれよりもずっと深い世界の真実に気付いているのかもしれません。

まあ僕がユーチューブでしゃべりたいのは、古人類学における起源論のことや、縄文・弥生時代の歴史を通しての日本文化論のことなどですが、それはまた自分が生きている今ここを問うことであり、永遠の未来に続く人類普遍の問題を問うことでもある、と考えています。

民衆は政治の話をするべきか?

人とかかわりたい気持ちはないわけではないが、世の中の政治経済の話をするのはめんどくさい、という気持ちがあります。

そしてこれは、平均的な日本人の心模様ではないかと思えます。

でも、こうやってブログを書いたりユーチューブを見たりしながらネット世界に身を置いていると、なんだか政治経済の話をしないのが後ろめたくなってきます。

このブログをはじめたころは、自分の興味が赴くままにネアンデルタール人のことや日本文化論のことなどを書いているだけで気が済んだのだけれど、それをするのが後ろめたくなってきたのはなぜなのでしょう。

安倍政権がはじまって、民衆が追い詰められてゆくという事態がどんどん進んできたからでしょうか。

いくらなんでもそれはないだろうというひどい政治が平気でなされているのは、政治に無関心であるわれわれの責任だろうか、という思いが僕の中で徐々に膨らんできたようです。

また、日本会議という国家神道を信奉するグループが政治の世界に強い影響力を持つようになってきたというのも、とても気になることでした。

あんなただの邪道でしかない神道がほんとうの神道だといわれるのは、僕にとって我慢のならないことでした。

だから、数年前から神道天皇の起源のことを書きはじめました。

そしてこのことを書きながらどんどん政治に無関心であることが後ろめたくなってゆきました。

政治のことなんか無関心で生きていたいですよ。

でも、無関心でいたいのならブログなんか書くな、という声がどこかから聞こえてきます。

ブログなんかただのプライベートなページのはずだけど、やっぱり書くからには自分の中に読んでくれる人をイメージしています。

ただの自己満足だけで書くことなんかできません。

たとえごく少数の読者であろうと書くからには楽しんでもらいたいという気持ちはあるし、自分のような生きていてもしょうがない半端な人間にとっては、世間様からこのブログのページをお借りしているという意識がどうしようもなく疼いています。

権利だなんて思っていません。書くことを許していただきたいと思って書いています。

まともな社会人の人にはわからないだろうけど、われわれのような世間のごくつぶしは、正直いっていつもこわごわ書いているのです。

記事をアップするときは、いつも「えいやっ!」と、それこそ清水の舞台から飛び降りるような決心をしているわけです。

ただの自己満足だけの記事だと、その決心がなかなかつかないのです。

そうやって、書きたいことがあるのに書けなくなってゆきました。

世の中にはまじめに政治のことを心配している人がたくさんいるのに、自分だけ知らんぷりしていていいのだろうか、という気になってしまいます。

それくらいひどい政治が横行している世の中ではないでしょうか。

今やもう、知らんぷりしていられるレベルではないですよね。

そしてひどい政治だと思っても、それに対する的確な批判ができない自分を、ちょっと恥ずかしいと思います。

そして的確だとも思えないような批判がたくさん発信されていることにも、なんだかなあ、という幻滅も覚えたりします。

そんな世の中で、山本太郎という政治家には頑張ってほしいと思うのだけれど、れいわ新選組の妙な内輪もめが起きて、その処理の仕方もなんだか粗雑で、すっかり人気を落としてしまったみたいです。

「命の選別発言」をした候補予定者を除籍処分にしたのは正しいと思います。

でも、その手続きの踏み方のドタバタ感は、ちょっと見ていられない景色であったのは確かです。

その発言をした候補予定者に命の問題をレクチャーするとかと言って、だれがレクチャーするのかと思ったら、障害者10数人を連れてきたなんて、とんだ茶番です。彼らは選別される当事者であっても、人類社会にとっての命の問題とは何かということを研究するプロではないですからね。

それをするなら、そういうことを研究しているプロとしての生物学者とか医者とか哲学者とか文学者とか評論家とか社会学者とか、そういう人たちを呼んでくるべきでしょう。

そして基本的には、人類はまだそういう問題を解決していないのですよね。

ダーウィンの進化論の「適者生存」という概念はかんたんに優生思想と結びついてしまうのだけれど、この概念というか法則が科学的に正しいか間違っているかということはまだ決着がついていません。

正しいのなら、優生思想をきっちりと否定仕切ることはできなくなってしまいます。

「適者生存」とは何か、「優生思想」とは何か、まずはそういう概念をきちんと説明できる研究者を呼んでくるべきでしょう。

障害者を並べてレクチャーするなんて、これが山本太郎の発想かまわりの者たちの提案なのかは知りませんが、考えることがあまりにも安直で情緒的過ぎます。

僕は政治とかかわっている人たちに対するある種の引け目というかコンプレックスのようなものはあるのだけれど、それでも「お前らの考えることはその程度か」という幻滅は覚えてしまいます。

もちろん僕は、あの「命の選別発言」をした候補予定者の思想や哲学なんて陳腐極まりないものだと思っているし、人間的にもあまり好きではありません。それでもやっぱり、もっとスマートな対処の仕方があっただろうという感想はぬぐい切れません。

ともあれ僕は、ダーウィンの適者がたくさんの子孫を残すという「適者生存」の法則が科学的に正しいとは思いません。

そう考える根拠は何かと聞かれたらなかなか一言では答えられないのだけれど、とにかく、倫理道徳的にではなく、科学的に間違っているのだと考えています。

これは人類史の大問題だし、僕だって何人かの理系の人と議論をしたこともあるのだけれど、とにかく「適者生存」なんて、科学的につじつまが合わない話ですよ。

たとえばみごとな羽模様を持った一羽の孔雀がいつもいい気になって見せびらかしていたら、真っ先にキツネやイタチやオオカミなどの天敵に見つかって食われてしまうでしょう。そうして結果的に、羽模様が見事な孔雀ほど子孫を残せない、ということになるはずです。

進化論の法則は「適者生存」ではないのです。

またこのことは、クジャクの羽模様が見事になっていったのはもちろんメスと交雑して子孫を残すためだったわけだけど、同時にそれは「もう死んでもいい」という勢いでそうなっていったことだったのであって生き延びようとする目的だったのではない、ということを意味しています。

われわれはこういうパラドキシカルな命のはたらきをどう考えればいいのでしょうか。

進化論は生き延びるための戦力ではなく「もう死んでもいい」という勢いで起きてきたことであり、結果的にそれが生き延びることになっていった、ということでしょう。

ダーウィンが考えた「適者生存」の法則なんかあまりにも安直すぎて信じられないし、この考えもまたひとつの近代合理主義思想かな、と思ったりします。

とにかく「適者生存」などといっていたら優生思想が生まれてくることはもう避けられないのであり、人格者ぶってそれはだめだといっても決定的な説得力にはならないのです。

障害者を並べてレクチャーしたって、動かせない正義にも真実にもなりえないのです。

そんなの、正直言って茶番劇です。

ほんとに山本太郎には頑張ってもらいたいのだけれど、れいわ新選組そのものの活動は、「なんだかなあ」と幻滅することがたくさんあります。

噂によれば極左勢力がバックにいるとかという話だけれど、右でも左でも政治思想を振り回されても、われわれ民衆はついてゆけないのですよね。

われわれ民衆が応援するのは、政治思想や政策ではなく、その政治家としてのたたずまいというか心の姿というか、そんなようなものでしょう。

だから僕は、石垣のり子にしても大石あきこにしても、そのきっぱりと「私をいやだ」といって見せる態度は、それはそれで政治家としての美しいたたずまいだと思えるわけです。

また、ただの民衆のくせにまるで国を背負っているかのような顔をして中国や韓国との外交政策がどうのといいたがるのは、強硬派の右翼も謝るべきだという左翼も、「何をしゃらくさいことを言ってるんだろう」と思ってしまいます。

国を背負っているつもりであるのなら、どうすれば仲良くできるかということを教えてくれ、といいたいです。

僕は「民族」という言葉が嫌いではないから左翼ではないのだろうが、国家神道がほんとうの神道だと思っているバカな右翼も大嫌いです。

国家という概念とは無縁の古代の民衆から生まれてきた起源としての神道がどんなものであったのかということが大いに気になります。そしてそのことを基礎にした日本文化論をユーチューブで発信したいとこのごろずっと考えています。

まあ最初は8月になったら始めるつもりだったのだけれど、まわりから「みすぼらしいジジイがそんなことをしても誰も見てくれないからやめとけ」とか「一家の恥さらしだからやめてくれ」といわれ、自分でも「やっぱりそうだよなあ」という気持ちがぬぐえないし、なかなか決心がつきかねてぐずぐずしながらここまで時間が過ぎてしまいました。

いちおう100本分の原稿は書き上げました。

次にするべきことは、それを読み上げる動画を取ることで、ホワイトボードも使うつもりです。

覚悟の問題だから、どんなに恥ずかしくても、それなりのリスクがあったとしても、顔出しはしようと決めています。

まずは明日、ガラケーからスマホに買い替えてきます。

そして一挙に100本の動画をつくり貯め、それを毎日一本ずつ発信して何の反応もなければ、そこでやめようと思います。

つくり貯めないでそのつど一本ずつ配信してけっきょく5本か10本で挫折してしまうということになったら、あまりにも情けないから、とりあえず100本つくっておいてから発信します。

まあ何の見栄えもしないジジイがきわめてニッチなジャンルのことをぼそぼそしゃべっているだけですからね。勝算なんか、まったくありませんよ。

また、本や教科書に載っていることを解説つもりはないのだから、役に立つ情報とはいえません。

本気で日本人とは何かとか日本文化とは何かと考えている人の刺激になるようなことが話せたら、と思っています。

ただし現在のこの国のユーチューブを見る人のほとんどは本や教科書の内容の解説動画を望んでいるそうだから、まあ僕なんかお呼びでないことでしょう。

でも外国で暮らしている日本人の人は、国内の人々よりはもっと客観的にもっと切実に日本人や日本文化のことを考えているのだろうし、そういう人たちの何人かにも届けることができたらいいな、と思ったりしています。

とりあえず、明日から具体的な一歩を踏み出します。

この生の後始末

れいわ新選組が、ネット界隈で変な騒動を巻き起こしました。

発端は大西つねきという人の「命の選別」発言で、「政治の仕事は命の選別をする責務を負っていて、老いた人から順番に死んでいってもらわねばならない」というような趣旨でした。

 

まあ素直に謝っておけばよかったのだろうが、「俺は間違ったことをいっていない」と尻をまくってしまいました。

 

それが正しいかどうかというのはどうでもいいことで、人がそれを聞いてどう思うのか、という問題があるだけなのですよね。

「許すべきだ」とか「許してはならない」とか「間違っていない」とか「間違っている」とか、そういうさまざま意見が飛び交っていたわけだけど、まあ人がなんと思うと人それぞれですからね。

なんでもいいのだけれど、そうやって「判断する」というその態度が、なんだか胡散臭いなあ、と思ってしまいます。

 

まあ政治家は「判断する」のが仕事だろうが、僕は政治家ではないから判断なんかしたくないし、できません。

何なのでしょうね。

正義も寛容もよくわかりません。

 

怒りたくなる気持ちもわかるけど、怒ってもしょうがないということもあるのでしょう。

そして「許してやれよ」といわれても、「いちいち人の気持ちまで指図するな」という意見だって成り立ちます。

「判断する」とは、自分は正義だと思っているということであり、自分は寛容だと思っている、ということでしょう。

どっちもどっちだし、どっちもどっちでいいのでしょう。仕方ないことなのでしょう。

 

世の中というのは、いったい何なのでしょうね。

 

だから僕は、政治のことはあんまり考えたくないのです。

考えたくないのに、考えないといけないという強迫観念に襲われて、いやになってしまいます。

 

4人乗りのボートに5人が乗っている。ひとりが降りないと全員が死んでしまう。

だったらいちばん歳をとっている人に下りてもらうのか?

もしその人が「死ぬのは怖い!」「死ぬのは嫌だ!」と泣きわめいたら、あなたならどうしますか?

死ぬのがいちばん怖くない人に下りてもらうのがいちばんいいのかもしれません。

どうせだれの命もしょうもない命です。

そして、自分の命よりも他者の命の方が大事だというのが、人間性の根源にある命題であるのかもしれません。

また、「だったらみんなで死んでしまおう」という提案があっても、それは間違いだともいえないでしょう。

 

僕には、正義も寛容もよくわかりません。それが政治家に必要なものであっても、僕に必要なものだとは思えません。

政治のことを考えるのは、ほんとに鬱陶しい。

 

なのに今、このブログで政治以外の日本文化論や人類学のことを書くのが、どんどんきつくなってきています。

コロナウイルスのせいでしょうか。

そうかもしれません。

 

だからYouTubeをやって恥をさらせば自分に納得をつけられるのではないか、と思ったりしています。

日本文化論や人類学の講座チャンネルです。そこに塹壕を掘って大学の先生に反論してゆきたいことがあるし、おバカなギャルに聞いてもらいたいこともあります。

さっきのボートの話なんか、おバカなギャルに決めてもらうのがいちばんいいのかもしれません。

彼女はこういうでしょう。

「だったら私が死んで上げる」と。オトタチバナヒメのように。

 

遅くとも8月半ばまでには発信をはじめたい、と思って今準備をしています。

学びたいこと

都知事選が終わりました。

もちろん無残な結果でした。

あんなにもいかがわしい人間がのうのうとのさばっているこの社会のしくみというのはほんとになんなのでしょう。

小池百合子がいかがわしいのは小池百合子の勝手だけど、それにうんざりしない現代人の心というのは、いったいどうなっているのでしょうね。

小池百合子がいかにいかがわしい人間かということはみんなわかっているくせに、それでも、小池百合子に入れておけば自分の人生は安泰だという、その自分の損得勘定を最優先させるこずるさというかエゴイズムというか、ほんとに世も末だと思います。

小池百合子に騙されたんじゃない、わかってて投票したのでしょう。

 

山本太郎だって、がっかりです。

たったあれだけの票しか取れなかったということは、彼や彼のまわりのスタッフたちの戦略が、何か決定的に間違っているのでしょうね。

たぶん、人間の集団性の本質というものがわかっていないのでしょう。

こうなったらもう、「れいわ新選組」という党名をみんなに差し出し、自分は裸一貫で出直せ、といいたい気分です。

まあ言いたいことは他にもたくさんあるけど、こんなところで言ってもしょうがないからやめておきます。

 

・・・・・・・・・・

 

僕は右翼も左翼もあまり好きではないし、そもそも政治などというものに興味は持ちたくありません。でも、文明社会で生きているかぎり、だれだってまったく無関心でいるということもできない。

言い換えれば、人間は政治に無関心でいられるのが、一番の幸せなのでしょうね。

 

政治のことであろうとあるまいと、学ぶことのよろこびが人を生きさせる、ということはあるように思えます。

生涯学習などといって、今どきの多くの老人が学びたがっています。

出世の望みも強くなる望みも美しくなる望みも快楽をむさぼる望みも持てない身になれば、あとはもう学ぶことのよろこびを求めるしかないし、学ぼうとする望みは生まれたばかりの赤ん坊のときから続いている人の一生の通奏低音だともいえます。

 

政治家のように死ぬまで成り上がろうとする上昇志向で生きてゆくのは、まああまり健康的な人生だとはいえないでしょう。

そのあげくに途中でぽきんと折れてぼけ老人になってしまったりする、ボケないためには上昇志向を生き続けるしかない、ということでしょうか。

 

生涯学習なんてあまり好きな言葉ではないけど、やっぱり学ぶことのよろこびが人を生かしているということはあるように思えます。

生きようとする欲望が人を生かしているのではない。生きようとする欲望は、そのまま成り上りたいという欲望になる。

それに対して学ぶことは、「もういつ死んでもいい」という勢いですることです。超一流の研究者とは、そういう勢いをだれよりも豊かに持っている人のことです。

山本太郎だって、そういう勢いで政治活動をしています。

 

生まれたばかりの赤ん坊はみな、「もういつ死んでもいい」という勢いで生きています。

人間の赤ん坊は、ほかの動物の赤ん坊に比べると超未熟な状態で生まれてきます。それは、明日も生きてある保証がない、ということです。

だから「もういつ死んでもいい」という勢いを待たなければ生きていられないし、その勢いで彼らは新しく出会った世界のことについて学ぼうとしています。

つまり人類は、歴史の無意識として、「もう死んでもいい」という勢いで学ぼうとしてゆく習性を持っている、ということです。

 

「学ぶ」とはどういうことでしょうか。

本に書いてあることをそのまま記憶すれば、あなたはそれで満足ですか。

「学ぶ」とは、「なんだろう?」と問う態度のことです。そして、ひとつのことを知れば、そこからさらにいくつかの疑問が生まれてきます。

そこには、「記憶することの満足」とか「達成感」のようなものはありません。

「学ぶ」とはひとつの「道」であり、「学び続けること」です。満足とか達成感をため込んでゆくことではなく、「なんだろう?」という欲求不満を紡ぎ続けることです。

 

こんなにもいかがわしい政治経済のシステムがまかり通ったり、あんなにもいかがわしい人間たちがのさばったりする世の中であっていいはずがない。どうしてこんなにもどんよりとした世の中になってしまったのでしょうか。

人間なんか、他愛なくときめいていればいいだけなのに。

 

・・・・・・・・・・・

 

というわけで僕はまだ、ユーチューブをやってみたいと思っています。

先日家族に話したら、恥ずかしいからやめてくれ、と大反対されました。

こんなしょぼくれたジジイがぼそぼそ話している動画なんて誰も見ないだろうが、もし見られたたら恥さらしもいいとこだ、というわけです。

 

そりゃあそうです。それでも、人に聞いてほしいことがいっぱいあるわけです。

日本文化論からはじまって、最終的には直立二足歩行の起源からネアンデルタール人までの古人類学のことは世界に向けて発信したいのです。

今どきは英語に翻訳したテロップを入れることもかんたんにできるそうですね。

この国で古人類学のことなどあまり一般的ではないが、考古学や文化人類学の歴史が古い欧米ではもっとたくさんの人が興味を持っていると聞きます。

 

いずれにせよ本に書いてあることなら僕があらためて言うこともないけど、書いてないことで僕の腹にたまにたまっていることがたくさんあるのです。

僕の言うことをヒントにして本格的な研究に取り組んでくれる若い人が、この世界のどこかにいるかもしれないじゃないですか。

 

こちらはしょぼくれたジジイだからこそ、残された時間はあとほんのわずかです。

聞いてもらいたいことがいっぱいあるのです。

 

さて、どうなることやら。

今、話す原稿を書き貯めています。

とりあえず3か月は毎日発信できるくらいの量を書き溜めて最初に準備しておかないとそのあとも続かないだろう、などと考えたりしています。

ようやく更新

更新が久しぶりになってしまいました。

この数か月、コロナのことしか書いてはいけないような強迫観念がずっと続いていて、だんだん書くのが面倒になってきてしまいました。

僕なんかもう、いつ死んでしまっても文句を言えない身だし、とくにコロナのことを書きたいというわけでもないのに、なんだか知らないが書かなければならないように責められている気分でした。

 

コロナ騒ぎは終わったのか。まだ終わっていないのか。

終わった後の世の中は、変わるのか。変わらないのか。

いったいどうなるのでしょうね。

 

アフターコロナの時代はどのようにして活性化してゆくのでしょうか。

「祭りの賑わい」は、そうかんたんには戻らないでしょう。

そして、「自粛警察」騒ぎをはじめとして、人と人の関係がどんなに荒んでいってしまっているかということを、あらためて思い知らされました。

われわれは、おそらく縄文以来の伝統である、日本人特有の他愛なくときめき合い助け合うという関係を取り戻すことができるでしょうか。

 

今どきは、ネットでも書籍でも、「ハウツーもの」とか「自己啓発もの」とかの、いわゆる「役立つ情報」ばかりが求められる時代になっています。

それはそのまま人と人の関係が荒んでいることを意味しています。

コストパフォーマンス、というのでしょうか。上手に生きてゆくためにはどうすればいいかとか、何が正義かとか、そんなところで競争したり争ったりすることばかりで世の中が動いてきたのでしょう。

それをどう克服してゆくかということが試されている時代なのでしょうか。

 

ネトウヨどうしとか、オタクどうしとか、市民運動家どうしとか、それ以外のところでも、今までは妙にカルトっぽくて予定調和的な集団がたくさんつくられていたのだろうが、それらが解体され、これからはもっとニュートラルな関係のコミュニティが模索されてゆくのでしょうね。

ただもう他愛なくときめき合っているだけの関係で集まっている場があればいいのに、と思ったりします。

 

じつをいうと、今ちょっとユーチューブをはじめてみようかと思ったりしています。

こんなしょぼくれたジジイが人前に顔を晒してたどたどしくしゃべってみても、ただの恥さらし以外の何ものでもないのだけれど、日本文化論や古人類学のことに関して、人に聞いてもらいたいことがたくさんあります。無限にある、といってもいいかもしれません。

 

家族からは、恥ずかしいからお願いだからやめてくれ、といわれるのでしょうね。

 

今すぐ決心のつくことではないが、なんとなくそんなことを考えたりしています。

「あいまい」の文化

この国の政府のコロナ対策は、いぜんとして迷走を続けている。民衆の態度だって、僕自身も含めて「なんだかなあ」という感じで、いまいちはっきりしない。日本人のダメなところが一挙に噴き出している、ということだろうか。

自粛のための補償など何もせずに自粛を「要請」してくる。従わない者には「同調圧力」を演出・醸成して脅しにかかる。うんざりするほど醜悪な景色だが、「空気」というあいまいなものだけで世の中が動いてしまう文化風土があり、政府も民衆も無意識のうちにそういう思考態度になってしまう。だれがどうだという以前に、権力社会も民衆社会も、みんな「空気」に動かされている。あんな愚劣な男に7年も8年も総理大臣にさせてきたこの国の「空気」がある。

決定してしまうよりも「あいまい」なままにしておきたい歴史風土がある。

「決定する」のは文明社会の文化で、原始社会には、そのための善悪とか正しいとかまちがっているというような基準はなかった。それはまあ宗教もなかったということで、人類は文明社会(国家)が生まれてくることによって、法制度とか宗教の教義とかを物差しにして善悪とか正しいかとか間違っているかというようなことを考えるようになった。

日本列島の精神風土の伝統においては、そういう基準がきわめて「あいまい」である。それは日本列島の文化の伝統が原始的であることと「神」という絶対的な基準を持っていないことを意味する。

原始時代に宗教などなかった。日本列島の縄文時代にも宗教はなかった。それは、縄文社会に都市集落などなかったし、文明国家の法制度も文字も戦争もなかった、ということが証明している。その1万年の歴史が伝統文化の基礎になっているから、いまだに宗教心の薄い民族のままなのであり、なのに今どきの歴史家たちはどうして縄文社会が原始宗教に支配されていたなどと語りたがるのだろう。この国の歴史家であろうと世界の歴史家であろうと、原始時代を原始宗教で語りたがるのは、ほんとに愚劣だ。

日本人は、歴史とともに宗教意識が薄くなってきたのではない。明治以降の国家神道に支配されていたときこそ、日本人が史上もっとも宗教的で迷信深い時代だったのだ。そうして太平洋戦争が終われば、憑き物が落ちたように元に戻ってしまった。日本人にとって宗教なんてたんなるおもちゃであり、おもちゃとしてどんな宗教でもかんたんに受け入れてしまうし、受け入れながらおもちゃとして骨抜きにしてしまう。

日本人は、縄文以来の伝統として、心の底には宗教意識を持っていない。日本列島に入ってきた宗教は、すべておもちゃとして「あいまい」なものになってしまう。

それに対して欧米人は「神」に対する意識を心の底に持っているから、「あいまい」なままにしておくことを許さないし、それを持たない日本人は「あいまい」なままにしておこうとする。

東京裁判A級戦犯になった戦時中の国の指導者たちは、口をそろえて「自分は積極的に戦争をしたかったわけではないが、そのときの会議や国民の声のなりゆきで賛成するしかなかった」というようなことをいっている。それはたぶん、彼らの率直な述懐で、それが日本人なのだ。

「あいまいさ」が伝統文化の民族に文明社会の善悪や正邪の物差しを持たせると、ろくなことにならない。そうやって「こんなときに営業をするパチンコ屋は許せない」とヒステリックに騒ぎ出す。

 

「あいまいさ」は、日本文化の伝統である。だからよくないということもあれば、だからこそ豊かなニュアンスが生まれてくる、ということもある。

この、日本文化の「あいまいさ」について考えてみたい。そしてそれは、日本文化の原始性について考えることでもある。

文明社会は「あいまいさ」を排除して、善悪や正邪や意味や価値を決定してゆく。そのための制度として、「法」が生まれ「宗教」が生まれ「文字」が生まれてきた。

すべてのものごとにはいい面もあれば悪い面もあるし表もあれば裏もある。文明社会は、「あいまいさ」を排除して意味や価値を決定してゆくことによって、そういうさまざまニュアンスを見失うことになっていった。

しかしわれわれは、親しい相手とは社会の決まりを超えた関係を持つことができるし、文字に支配されたり文字に頼ったりすることから離れて音声の言葉だけで会話をする習慣も持っている。そのときは、どんなありふれた言葉でも、その場の「空気」、すなわちその言葉や音声の「ニュアンス」だけで大きく相手の心を動かしたりする。つまりそれは、たとえ現代人であれ、だれもが原始的な部分を残している、ということだ。

とくに日本文化は、原始的な部分を色濃く残している。

西洋の知識人のほとんどは「日本文化は原始的である」という認識を持っているのだが、おそらくそれは当たっている。そこから「われわれが失ったものがこの国には残っている」と好意的に見てくれる人もいれば、侮蔑的な視線を投げかけてくる人もいる。

ロラン・バルトは、日本文化の印象を語った『表徴の帝国』という著書で、「日本人の視線は、他者を傷つけることも責めることもないとてもあいまいで空虚なもので、それによって集団の調和が保たれているのだろう」というようなことをいっている。そしてこれを読んだある日本人がヨーロッパに行って、知り合ったばかりの女性に「試しに私の顔を20秒間じっと見つめてみてくれないか」と頼んでみたところ、その視線のあまりの濃密さにどぎまぎして見つめ返すことができなくなってしまったのだとか。

僕は若いころ、女房から「どうして私のことをいつもそんな、物を見るような目で見るのか」となじられたことがある。そんなことをいわれてもこちらは日本人で、愛する視線も憎んだり怒ったりする視線も持ち合わせていない。

氷河期が明けて大陸から切り離されてしまった日本列島では、縄文時代の1万年を原始時代の「あいまいさ」の文化をそのまま洗練させてゆく歴史を歩んできたし、現在においてもなおその原始性を色濃く残している。

人類は、文明社会の法や宗教や文字を持ったことによって、何を獲得し、何を失ったか?

 

 

日本文化のあいまいさはいたるところに見つけることができるが、とりあえずここでは「言葉」の問題について考えてみよう。

「かみ」というやまとことばについて考えてみよう。この言葉ほどあいまいな日本語もないだろうと思えるし、だからこそ日本語=やまとことばの本質を考える上でのもっとも重要な言葉だともいえる。

もちろん世界中の人間が抱いている「神」のイメージそのものが千差万別で、限りなくあいまいだ。それは、たんなるフィクションにすぎない。真実であると信じられているフィクションにすぎない。それはともかくとして、キリスト教ユダヤ教イスラム教で語られる「神(ゴッド・エホバ・アラー)」という言葉は「神」以外の何ものも意味しないが、やまとことばの「かみ」は、「神」以外のさまざまな意味にも使われている。尻を拭くトイレットペーパーだって「紙=かみ」なのだ。われわれは「かみ」という言葉に対する畏れや執着などあまりない。平気で「<かみ>で尻を拭く」ということができる。

やまとことばの「かみ」は、もともとたんなる「言葉」にすぎない。べつに「神」をイメージして生まれてきた言葉ではない。そしてこのことは、仏教とともに「神」という概念が伝わってきた以前の日本列島には「神」も「宗教」も存在しなかったことの重要な状況証拠になっている。

縄文・弥生時代に「神」も「宗教」も存在しなかった。それでもおそらく「かみ」という言葉はあった。それだけのこと。

飛鳥時代のころに仏の弟子であるらしい「神(しん)」を知った民衆は、自分たちも仏教に対抗する「宗教(のようなもの))=「神道」をつくろうとして、とりあえず「神」を祀り上げることにした。

「神」とは、もともと「仏」に対抗していた存在だから、それがいいだろうということになった。そして、「仏(ぶつ)」を「ほとけ」と言い換えたように、「神(しん)」も「かみ」と言い換えることにした。

なぜそう言い換えたかといえば、「仏」も「神」も「天空=上(かみ)」の存在だからだろうか。原初の人類は二本の足で立ち上がったときに、頭上の青い空を見上げた。それ以来「天空=上(かみ)」に「遠いあこがれ」を抱く存在になった。つまりやまとことばの「上(かみ)」は、とても普遍的で原始的な感性が込められた言葉であり、その語源においては「遠いあこがれ」というようなニュアンスの感慨をあらわす言葉だった。

原初の言葉はすべて、「おや?」とか「へえ」とか「よう」とか「おい」とか「なあ」とか「あーあ」とか「ふーん」とか、感慨のニュアンスをあらわす音声だった。そこから進化発展して「かみ=遠いあこがれ」という言葉になった。したがってそれはもともと「感慨のニュアンス」をあらわすものだったから、何も「天空=上(かみ)」でなくとも、「遠いあこがれ」の対象であるのなら何でもよかった。

「懐かしい昔」のことも「上(かみ)」=「かみよ(上代・神代)」といったし、昔の人すなわち死んだ人のことも「かみ」といった。

古事記」とは「神の物語」であると同時に「昔の人=死んだ人=先祖」の物語でもある。そこでは、天皇や貴族の先祖を確定し記述している。とすれば、「かみ」とは「人」のことだ、ということになる。

まあ「かみ」はたんなる言葉なのだから、何でもいいのだ。「鰯の頭」だって「かみ・ほとけ」になる。

「おかみ」といえば、権力者のことだし、家の女房や旅館・料亭の女主人のこともいう。日本文化の伝統においては「女」は「かみ」である、ともいえる。男が家の中心であったとしても、女は隠れたところからその男を支配している。

自分の女房のことを「うちの山の神」などといったりもする。これは、連戦連勝のヤマトタケルが最後に侮っていた滋賀の伊吹山の神である白い猪に敗れて死んでしまった、という古事記の話からきていて、それくらい女房は強くて怖いし、粗末に扱ってはならない、という教訓も込められているのだろう。

「噛(か)む」ことは食べ物の「味=本質」に気づく体験である。だから「森羅万象の本質」のことも「かみ」という。そして「かむ」は「組み合わさる」ことでもある。上の歯と下の歯を組み合わせて「かむ」という行為が成り立っている。すなわち「かみ」は、山や森や石と「組み合わさる」ようにしてそこに宿っている。

そんなさまざまなニュアンスを思い浮かべながら、いつとはなしにそれを「かみ」というようになっていった。もう「かみ」というしかほかに名付けようがない、と思うようになっていった。そうしてもともとあいまいで多様なニュアンスの概念だから、そのなりゆきによって「神(しん・じん)」という読み方を使うのも、たいして抵抗がなかった。

 

ともあれ「神道(しんとう・じんどう)」という漢字読みの名称が生まれてきたのは平安時代のころからだし、それ以前には名称などなく、宗教として名乗ってもいなかった。ただそのような、それこそあいまいで混沌として原始的な「祭りの賑わい」のイベントがよく行われていた、というだけのことだ。

神道の「かみ」は、仏教伝来以後に編纂された「古事記」によって生み出されていったのであり、「それ以前に存在していた」といわれる「かみ」も、「それ以前に存在していた」という前提のもとに古事記によって生み出されていっただけのことだ。まあ仏教伝来から古事記の編纂を思い立つまでに150年くらいたっているのだから、そのあいだにさまざまな「かみ」が日本列島の各地で生み出されていった、ということはある。ともあれそれ以前には、「かみ」という言葉はあっても、「神」という宗教概念は存在しなかった。

日本列島はもともと神=宗教が存在しない土地柄で、外来のすべての宗教は「宗教ではない宗教」にして受け入れていった。現在のこの国の宗教なんて、おおむねたんなる習慣行事であって、ほとんどの人がキリスト教徒やユダヤ教徒イスラム教徒やヒンズー教徒ほどの本格的な信仰心を持っていない。

ただ人は、天空の向こうに対する「遠いあこがれ」とともに「超越的」な心の動きをする生きものであり、そのことが宗教に向かうこともあれば、そうでないこともある。たとえば、「死」というものを宗教的に考える人もいれば、哲学的に考える人もいれば、科学的に考える人もいる。また、何かに「ひらめく」とか、どんなにつまらない女(男)でも好きで好きでたまらなくなるとか、そういうことだって「超越的」な心の動きのひとつであり、猿にはない。

この国には、「かみ」はいても「神」はいない。ひらがなの「かみ」には、たとえ「超越的」な思考やイマジネーションが宿っているとしても、宗教=信仰などという文明社会の制度観念ははたらいていない。もっと別の、原始的で無原則的な「あいまいさ」の上に成り立っている言葉なのだ。

そして現在のヨーロッパの知識人の多くは、どうやって宗教を克服するかと模索し続けており、その先に「ポストモダン」があるという。彼らは、日本人の宗教心の薄さを不思議ともうらやましいとも感じており、この日本的な原始性は、宗教心がけっして普遍的な人間性ではないことの証しになっている。

今どきは政治も経済も、集団幻想という一種の「迷信」の上に成り立っている。

われわれ文明社会に生きる者たちは、だれもが避けがたく宗教的制度的な観念に縛られており、それによって社会に適合しているわけだが、無神論者は欧米にもいくらでもいるのだし、宗教的制度的な観念があいまいでいいかげんな社会不適合者という原始的人種がこの世にいることだって、まったく無意味というわけでもあるまい。

 

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蛇足の宣伝です

キンドル」から電子書籍を出版しました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』

初音ミクの日本文化論』

それぞれ上巻・下巻と前編・後編の計4冊で、一冊の分量が原稿用紙250枚から300枚くらいです。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』は、直立二足歩行の起源から人類拡散そしてネアンデルタール人の登場までの歴史を通して現在的な「人間とは何か」という問題について考えたものです。

初音ミクの日本文化論』は、現在の「かわいい」の文化のルーツとしての日本文化の伝統について考えてみました。

値段は、

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』上巻……99円

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』・下巻……250円

初音ミクの日本文化論』前編……250円

初音ミクの日本文化論』後編……250円

知識をため込むことと思考をすること

非常事態宣言になってYoutubeを見る人が増えているらしい。このまま続けば配信する側に回る人も増えてくるのだろうか。

僕もこのごろ歴史とか哲学思想の学術系ジャンルをよく見るのだが、読んだ本の解説をしているだけのものが多い。で、売れるか売れないかは、内容ではなく、喋りの能力によるものだったりする。あるお笑い芸人が歴史の解説をしている番組などは、200万人以上のチャンネル登録を獲得してカリスマのように祀り上げられているが、喋りの上手さだけで、その人の個性的な思考など何も感じられない。こちらの心の中に遠慮会釈なくずかずかと入り込んでくるような、あのなれなれしいしゃべり方は、なんだかわざとらしくもあり、どうも苦手だ。とにかく歴史の教科書丸写しのようなないような話の内容で、彼以上の読書量や知見を持っている人はいくらでもいるのに、誰も彼にはかなわない。

しゃべり方のおもしろさについつい引き込まれる。そうやって心をいじくりまわされることが心地よいのだろうか、聞いているあいだ何も考えないですむ。人間はもともと怠惰な生きものなのだ。

今回のコロナウイルス騒ぎで「三蜜禁止」などというお触れが出たりして、人と人の関係のむやみななれなれしさが反省される時代になってくるのだろうか。

たしかに、なれなれしくして相手を思考停止に陥らせるのは上手な「口説き」のテクニックのひとつだし、今どきはなれなれしくされたいさびしがり屋がたくさんいる世の中なのだろうか。愛されたい症候群……それはきっと、現代社会の病だ。

人の心の中なんかわからない。自分が愛されているかどうかということは永遠にわからないし、愛されることの鬱陶しさというのもある。ただ、人間性の自然として「愛さずにいられない」という心の動きが起きているだけのことだろう。「愛し合う」といっても、たがいに一方的な「愛さずにいられない」気持ちを差し出し合っているだけで、「愛されるよろこび」などといっても、愛されている自分に酔っているだけだろう。

つまり、あんなふうにしゃべられると、視聴者は自分が愛されているような心地になってゆくのだろうか。愛されたい症候群というか、自己愛症候群というか、「三蜜禁止」になればそういう心理が満たされなくなってしまい、最近ではそのフラストレーションがあちこちで起き始めているらしい。

満たされなくてもいいのだ。そんな自己愛のらせん階段はさっさと下りてしまったほうがいい。人と人の関係は、つねに「一方的」なのだ。「助け合う」といっても、助けずにいられない気持ちを一方的に差し出し合っているだけのこと。奢られるよりも奢ったほうが気持ちいではないか。人間性の自然・本質においては、「交換」などという関係はない、一方的な「贈与・献身」があるだけのこと。少なくともそれが原始人の集団の関係性だったし、そういう原始性は現代の文明社会を生きるわれわれの中にも残っている。

アフターコロナには、現在の文明社会の高度で複雑なシステムの中に置かれていることに疲れた人々の心に、そういう人間性の自然・本質、=原始性がよみがえってくる……ともいわれている。

「コロナ鬱」というようなことも起きているのだろうか。終わりのない自己愛のらせん階段にはまると、そういうことになりやすい。「三蜜禁止」とは、なれなれしい関係になるな、ということで、自己愛の強い者ほどなれなれしい関係をつくりたがるし、なれなれしい関係になれないことに強いストレス覚え、逆に他者との関係を避けてますます自分の世界に閉じこもっていったりする。いじめとはひとつのなれなれしさであり、集団暴行は集団鬱という自己愛の共同体だ。

まあ、読書に耽溺するのも一種の自己愛だったりする。自分の知識の量が増えたら、人間としてのステージが一段上がったような気分になるわけで、発信者と視聴者がそういう自己愛を共有しているようなYoutubeの番組がある。

 

本を読んでインプットするのはたんなる「記憶」という脳はたらきであって、「思考」することではない。寺山修司は「書を捨てて町に出よう」といったが、それは、本を読む必要なんかない、といっているのではない。本を読んだ後からはじめて「思考」がはじまる、といいたいのだ。

たとえば、その人がカラスについて書いた本を読んだとする。そうすると一般の読書経ユーチューバーはそのままカラスという黒い鳥についてのあれこれを語ってゆくわけだが、本に書かれてあったことを「それは違うだろう」と批判的直観的に反応する人もいて、じゃあどこが違うのかと考えてゆく。あるいは、黒い動物は他にもいると考えたり、さらに黒い動物はなぜ不吉なものの象徴のようにされているのだろうと展開して考えてゆく人もいる。

批判=懐疑あるいは展開、そうやって人の脳のはたらきは「思考」の旅に出てゆく。

しかし今どきの読書系学術系Youtubeには、そういう「思考の醍醐味」を追体験させてくれる番組はほとんどない。

しゃべりがおもしろければ、それでいいのだろうか。情報過多の世の中で、とりあえず手っ取り早くおもしろおかしく情報を収集することができればそれでいいのだろうか。あまり苦労をせず良質な情報を収集してゆく。発信する側も視聴する側も、そういうコスパ主義的志向を共有しているらしい。それはきっと「思考する」という人間性の自然・本質の衰弱だと思えるのだが、それでいいのだろうか。

「思考する」とは知らない世界に分け入ってゆくことであって、彼らのように既存の知識体系にもたれかかってゆくことではない。彼らは変わりたがらない者たちで、アフターコロナには新しい時代がやってくるとは思っていない。インターネットを主戦場にする自分たちがもっと活躍できる時代になる、と思っているだけだろう。

彼らは、既存の知識体系にもたれかかることをやめない。Youtubeをそこに挑戦してゆく場にしようとは思わない。学者であろうとおしゃべり上手の芸人だろうと、アフターコロナでこのゲームへの参加者が増えるということは、自分たちの既得権益が脅かされるかもしれないということでもある。今まで通り知識をひけらかしているだけではすまなくなるとは思わないのだろうか。知ったかぶりのおしゃべり上手が百花繚乱になって、ますますわが世の春を謳歌してゆくのだろうか。

 

このままスノッブな知ったかぶりが幅を利かす時代が続くのだろうか。

孔子の「論語」には次のような一節がある。

人不知而不慍不亦君子乎(不知にして不慍の人、また君子ならずや)

これを、一般的には「人に知られていないことを怒らないのは君子である」とか「知らない(無知な)人を怒らないのは君子である」というような解釈がなされているが、これはまったく違う。

「不知」とは、この世には知りえないことがあるのを深く自覚すること。

「不慍」の「慍」は仏教でいう「増上慢」のことで、この場合は「知ったかぶりをしない」とか「虚勢を張らない」というような意味。

ゆえに「この世には知りえないことがあるのを深く自覚してむやみに知ったかぶりをしない人もまた君子ではないだろうか」と訳す。

論語における「不知」という言葉はとても重い意味に使われており、「人に知られていない」とか「無知」とか、そんな安っぽい意味ではない。いわば哲学者としての孔子の魂から絞り出された言葉であり、同時代のギリシャソクラテスも同じことをいっている。そのころの中国もギリシャも、国家文明の発達とともに無文字社会から文字社会へと急速に移行しつつあった時代で、まあ今どきの読書系ユーチューバーのように知ったかぶりをする人間が増えてきていたわけで、そんな時代の風潮に対して孔子ソクラテスも「それでも人が永遠に知りえないことがある」と説いたのだ。

「不知」と「不慍」……この「不」という言葉は、とうぜん後になって「すでにある」ものを打ち消す機能として生まれてきたのであり、人類の「(哲学的)思考」によって生み出された言葉なのだ。「否定」とか「批判」とか「超越」とか、ヘーゲルの「弁証法止揚アウフヘーベン)」を今風の言葉に直せば「オルタナティブ」というようなことだろうか。そうやって批判的否定的に乗り越えてゆくことが人類の普遍的な「知」のいとなみであり、古来から哲学者はずっとそういうことを主張してきた。

知ったかぶりをして読んだ本のことをそのまま解説しているだけでは、「オルタナティブ」も「イノベーション」も生まれてこない。

 

アフターコロナの時代は2年後からはじまる、と言われている。そのころには、人々の生活様式や価値観が大きく変わってくるのだろうか。

変わってくれば面白いと思うが、変わりたくない人がたくさんいるから、はたしてそうなるかどうか。

僕は政治経済のことはよくわからないが、日本文化論や古人類学の通説の多くは変更されるべきだ、と10年くらい前からずっと考えてきた。それらの通説がなぜ間違ったまま変更されないかといえば、多くの研究者が既存の近代合理主義に洗脳された頭で思考しているからだし、既存の情報を収集してまとめるというだけのことしかしていないからだ。「文献にたよるものは文献につまずく」とは小林秀雄の名言だが、多くの研究者がそのようなことばかり繰り返している。

ほんとうの思考は、頭の中をいったん白紙にしたところからはじまる。それが孔子の言う「不知」という概念であり、思考停止こそが思考なのだ、ともいえる。

たとえば、「魏志倭人伝」はただの伝聞情報をもとにした捏造文書である、ということになれば、「魏志倭人伝」の研究者は職を失ってしまう。それが捏造文書である可能性は大いに高いのだが、というわけでそれが学問の世界で認められることはない。学問の世界だってそうした既得権益の上に動かされているから、変更されないまま残されている誤った通説がたくさんある。

インターネットの世界は、その「壁」を打ち壊すことができるか?

アフターコロナのユーチューバーにはそのことを期待したいが、現在活躍している知ったかぶりのカリスマたちでは無理だろう。彼らだって既得権益層でしかない。

現在のコロナ騒ぎによって既得権益がどんどん壊れていっている、と言われているが、政治経済の世界だろうと僕の関心領域の日本文化論や古人類学の学問の世界だろうと、けっきょくその既得権益は頭の中を「近代合理主義」に染め上げられた者たちによって守られている。「近代合理主義」によって積み上げられたがんじがらめのシステムは、実社会の政治経済の世界だけではなく象牙の塔の学問の世界にも浸透している。

新しい時代は、知識優先の「近代合理主義」の「外」に出ることによって現れてくる。資本主義も共産主義も関係ない。ものの考え方感じ方の問題だし、ほんとうに人々が「考える」ということをするようになってくるか、という問題だ。

考えることは、知識の外に出ることだ。それを孔子は「不知」といった。考えることは、知識をため込んで満足することではなく、行方の分からない地平に向かって分け入ってゆくスリリングな体験であり、「たどり着く」ことではなく「歩み出す」ことだ。

孔子はまた「朝(あした)に道を問わば、夕(ゆうべ)に死すとも可なり」ともいった。この「道を問う」ということの一般的な解釈は「悟りを開く」ということになっているのだが、これも違う。「死んでもいい」という境地になれるのなら当然「悟りを開く」ということがあるはずだ、と注釈家が勝手に解釈してしまっているだけのことで、孔子はそんなことはいっていない。「問う」は、あくまで「問う」ということ、「なんだろう?」と思うこと。孔子にとっての「道」とは「問う」ものであって「悟る」ものではなかった。「道」とは問い続ける「過程」のことをいうのであって、到達点のことではない。たとえ百年先まで生きたとしても、そのときもなお「なんだろう?」と問うている。だから彼は「不知」といったのであり、「考える=探求する」という「道」を歩みはじめたらもういつ死んでもかまわない、といっているのであり、それは、この生はつねに「今ここ」が到達点だ、ということでもある。まあ古代の人々は、だれもが明日も生きてあることが保証されていな条件に置かれていたから、そういう「切羽詰まったところに立って生きよ」という話はだれにでも通じたにちがいない。

親鸞や一遍だって「今ここで南無阿弥陀仏と一回唱えればそれでよい」といった。南無阿弥陀仏と唱えることは「道を問う」ことだ。

今回のコロナ騒動を通過すれば、われわれもまたそういうところに思いをいたすことができるだろうか。

 

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『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』

初音ミクの日本文化論』

それぞれ上巻・下巻と前編・後編の計4冊で、一冊の分量が原稿用紙250枚から300枚くらいです。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』は、直立二足歩行の起源から人類拡散そしてネアンデルタール人の登場までの歴史を通して現在的な「人間とは何か」という問題について考えたものです。

初音ミクの日本文化論』は、現在の「かわいい」の文化のルーツとしての日本文化の伝統について考えてみました。

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『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』上巻……99円

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』・下巻……250円

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