孤立無援のれいわローテーション……その1
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れいわ新選組は、水道橋博士の議員辞職を受けて残りの任期を5人で回すという奇策を発表した。
で、れいわ支持者以外のすべての層からの批判が殺到している。
まあこのことの良し悪しは、僕にはわからない。メリットもデメリットもあるのだろう。
でもわれわれのまわりの、たとえば町内会の会長なんか一年交代だし、そのような例は世間にいくらでもあるのだろう。
古代ギリシャの民主主義だって、そうやってくじ引きで代議員を選び回していた。
ひとつの議席を6人で回せば、多様な政治活動が生まれる。
6人でチームを組んでひとつの政策を練り上げる場合もあれば、それぞれが多種多様な政策を提出することもできる。
重要な役職をひとりで6年もやっていると有権者との利害関係が生まれて不正なことが起きやすい。だから、役所であれ一般企業であれ、2・3年で異動転勤になったりしている。それが世間というもの、国会だって世間の縮図だろう。
まあ世間の縮図だからこそ、あちこちから「余計なことをするな」という批判が立ち上るということもある。
そりゃあ既存の政治システムに胡坐をかいている者たちにとっては大いに気に入らないだろうが、ローテンション制の方が民主主義にかなっている、という側面もあるにちがいない。
現在の選挙制度では到底議員になれそうもない人たちが一年でも議員活動ができるのなら、それはそれで結構なことかもしれない。
おバカな二世三世の議員が既得権益の永久就職のように居座っていることより、よほどましだと思う。彼らのような親ガチャに恵まれたものたちと、たとえ能力があっても一生薄給の派遣社員でいるほかないロスジェネ世代のものたちとの間に、こんな差があっていいのだろうか。
まあれいわ新選組は、世の中にそういう議論が起きてくるのを待っているのだろうか。
しかしなぜだか知らないが、現在の政治状況においては、政治家も支持者たちも、与野党問わず寄ってたかってれいわ新選組をつぶそうとしている。
NHK党も参政党もたんなるお騒がせの駄々っ子みたいな存在だし、自民党と同じ右寄りの立ち位置だから、本質的に危険な存在ではない。
しかしれいわ新選組は、この社会のシステムの一部を壊し、新しい時代に分け入ってゆこうとしている。それはまあ、世界中どこでも野党が掲げるスローガンであるのだが、現在の維新の会や立憲民主党は与党に近いスタンスを取り始め、そのためにれいわ新選組を排斥しようとするようになってきた。
しかも野党の中の野党である共産党ですら、現在の社会システムと妥協するような態度をとってきており、ときにれいわ新選組の過激な主張と対立したりしている。
現在の選挙におけるれいわ新選組に流れてくる票は、もともと立憲民主党や共産党が獲得していた票を削っているらしい。その危機感から立憲も共産党もれいわを排除しようとしているし、れいわは自民党だけでなく維新とも決定的に対立していて、今や孤立無援だ。
ここまでくればもう、れいわは、どの野党とも共闘することができない。
今やすべての野党がれいわをつぶしにかかっているし、現在はいろんなかたちで「分断化」の動きが起きている時代だから、民衆のあいだでも異分子を排除しようとする動きはそれなりに盛り上がったりする。
そういう「分断化」の社会状況が、永田町の中にも反映している。
もともとれいわ新選組は、名もない市民というか民衆の連携を組織しようとして生まれてきた。
まあそれがうまくいっているかどうかはいまだに投票率が低いということにおいて疑問も残るのだけれど、既成の政党の政治家もその支持者たちも、政治というのは政治意識の高いものたちだけでやればいいのだと考えている。だから彼らは、政治意識が低いものを巻き込もうとするれいわの活動が気に入らないのだ。
ただ、れいわの代表である山本太郎にしても、名もない民衆による市民運動は彼らに政治意識を持たせることによって盛り上がる、と考えているのだが、果たしてそうだろうか。
この国の政治意識が薄いものたちは、ただ知識教養がないからというのではなく、政治のことを考えたり語ったりするのははしたないことだ、という思いがある。
政治意識の薄さはこの国の民衆社会の伝統であり、しかしその政治意識の薄さにこそこの国の民衆社会における連携の可能性がある。
「生きられない弱いものを生きさせる」というれいわのスローガンは正しいし、この国の民衆社会の伝統にかなっているのではないだろうか。
だから、その理念に賛同してボランティアに加わるものも多い。
しかし彼らの政治意識が高くなると、内部で権力闘争をして、つまらないいざこざも多く起きてくる。
政治の当事者になるということは、権力闘争が使命になるということだ。
この国の文化の伝統に沿った市民運動は、政治に参加して政府を転覆させることではなく、中世の一揆や幕末のええじゃないか騒動や大正の米騒動のように、政府なんか置き去りにして民衆だけの連携を盛り上げ大きくしてゆくことにあるわけで、厳密には政治運動ではないのだ。
権力闘争に明け暮れる永田町など置き去りにして、民衆どうしが他愛なくときめき合い連携してゆく動きが盛り上がれば、永田町だってそれについてくるだろう。
まあこういう動きが起きてくるのを阻んでいるもう一つの勢力が現在のマスコミで、彼らもまた市民を見下した永田町寄りの人種でしかない。
聖徳太子の十七条の憲法になぜ「和を以て貴しとなす」」と書かねばならなかったかといえば、当時の権力社会が殺し合いの連続の陰惨な権力闘争を繰り広げていたからであり、民衆社会がそれを置き去りにして他愛なくときめき合い豊かに連携し合っていたからだ。
また「篤く三宝を敬い…」などといって仏教で国を治めようとしていたのに、民衆社会は神道の祭りで勝手に盛り上がっており、けっきょく「神仏習合」の政策をとってゆくしかなかった。
あのとき偉かったのは、聖徳太子ではなく、国の政治なんかに何の興味もない民衆社会だったのであり、それは、民衆社会には民衆社会独自のもっと高度で本質的な政治システムがあった、ということを意味する。
この国の民衆は政府の政治に興味がないといっても、政治センスがないというわけではない。民衆には民衆の政治に対する思いと作法がある。つまり、古代以来「村の寄合」として培ってきた政治手続きがある。
「村の寄合」はつまり、お上のいない平等の集まりであり、そのまま古代ギリシャ市民の民主主義に通じている。
世の良識派を自認する人たちは、れいわ新選組は議会制民主主義や基本的人権が大事だというこの社会の共通合意を壊そうとしている、という。
それは確かに正義・正論だが、しかしこの社会には、議会制民主主義や基本的人権よりももっと大事なことがあり、そのためには現在の議会制民主主義が壊れてもかまわない。
ただし、壊れてもかまわないということは、議会制民主主義を否定しているのではない。もっと新しい別の議会制民主主義があるだろうということ、議会制民主主義のオルタナティブを見つけようということだ。
この国の歴史風土に合った新しい議会制民主主義があるに違いない。
選挙で選ばれた一人が六年やるというのが現在の制度だとしても、一人一年ずつ6人で回した方がいいだろうという意見のものがいれば、当然そういう試みをしてくる。
それを許さないというなら、許さない制度にすればいい。
とりあえず法的に許されるのなら、許すしかないだろう。
まあ、より良い議会制民主主義を目指すなら、そういう試みもあっていい。
現在の議会制民主主義が絶対的な正義だというわけでもあるまい。絶対的な正義なら、こんなにもひどい政治状況になっていないだろう。
何はともあれ「生きられない弱いものを生きさせる」ということにおいてれいわ新選組はもっとも熱心で切実であり、そういう政党があってもいいではないか。
生きられない弱いものの人権は生きられる強いものの人権よりももっと大事であり、それは、誰もが他愛なくときめき合い連携してゆくという原始共産制の精神、すなわち普遍的な人間性の自然を取り戻すことにある
まあ山本太郎とれいわ新選組は、そういう世界を目指しており、だからいろんな掟破りのことをしてくるし、あちこちから排斥されもするのだろう。
僕は、たとえ今回のれいわローテーションという決定が社会常識的に間違っているとしても、れいわ新選組の「生きられない弱いものを生きさせる」というその理念と心意気に引き寄せられて集まってきた素朴な市民の群れの動きは応援したい。
彼らはもともと政治的な意識が薄いからこそその根本の理念に引き寄せられたのであり、民衆の心を引き寄せるのは、政策ではなく理念と心意気なのだ。
政治意識が薄い純粋で素朴な民衆の「生きられない弱いものを生きさせたい」という願いをどう組織することができるか、それが問題だ。それが、投票率のアップにつながるのではないだろうか。