2007-09-01から1ヶ月間の記事一覧

「御霊信仰」の原像 ―怨霊と祟り―・7

先を読む能力は、ひとつの強迫観念です。「怨霊」のイメージは、そこで培養される。 そろそろ空腹の苦痛がやってきそうだから、その前に食っておかねばならない、と思う。そんなこと、空腹になったら食えばいいだけなのだが、先を読む能力に長けて強迫観念の…

「御霊信仰」の原像 ―怨霊と祟り―・6

もっとも原初的な「非業の死」とは、殺された死、ということになるのでしょうか。狼や熊に襲われるのはまだ事故ともいえるが、人に殺されることは、本人もまわりも、悔やんでも悔やみきれない。身体は消えても、霊魂だけが宙をさまよっている。 原始人の意識…

「御霊信仰」の原像 ―怨霊と祟り―・5

「悪霊論」の著者である小松和彦氏は、「御霊信仰」はもともと民俗社会の人々の信仰としてあったのであり、歴史上はじめて文献に登場してくる平安時代初期の権力者による京都での「御霊会(ごりょうえ)」は、民族社会の人びとの要請によって催されたのだ、…

「御霊信仰」の原像 ―怨霊と祟り―・4

弥生時代になってから戦争が起きてきた、と言われています。 農耕定住の暮らしが始まって群れの規模が大きくなり、集団ヒステリーとしての戦争を引き起こした。 集団ヒステリーとは、第二次大戦下のドイツや日本のように、祝福し祝福される対象を失った集団…

「御霊信仰」の原像 ―怨霊と祟り―・3

おそらく誰の中にも他者にたいする攻撃衝動というのはあるのだろうが、それは、「本能」と言えるほど根源的な衝動ではない。 こんなにもたくさんの人間が群れ集まって暮らしていれば、そういうことの鬱陶しさややこしさはいろいろあるわけで、そこから生まれ…

「御霊信仰」の歴史 ―怨霊と祟り―・2

ヒットラーは、「人は、目に見える敵が必要である」と言った。 「敵」という概念は、いつごろから生まれたのか。そんなもの、生き物としての歴史が始まったときからあったのでしょう。 弱い者には、天敵がいる。しかし、地球上でもっとも強い生き物になった…

「御霊信仰」の水源 ―怨霊と祟り―・1

「悪霊論」の著者である小松和彦氏は、「怨霊」を鎮めようとする「御霊信仰」は、中世の支配層のいる都市(京都)から生まれてきたのではなく、それ以前に「民俗社会」にあったものだと言っています。つまり、そういう「迷信」は、まず「異人に対する恐怖心…

「いじめ」と強迫観念

支配と被支配の関係が厳然と存在していた前近代の民俗社会の人々(村人)にとって、支配者は、「異人」だった。人々が支配を受け入れるということは、根源においてその異人を「まれびと」として迎え入れている、ということを意味する。 それにたいして支配者…

「穢れ」の自覚

「古事記」によれば、死んだイザナミノミコトのあとを追いかけていったイザナギノミコトは黄泉の国の入り口である黄泉比良坂(よもつひらさか)で死人の群れと出会い、あわてて逃げ帰ったものの、みずからの身が穢れてしまったことを深く自覚し、「みそぎ」…

「いじめ」と公共心

僕は、「まれびと信仰」を過去の習俗だとは思っていない。今なおわれわれの中に息づいている、普遍的な他者にたいする意識の、あるかたちだと思っている。 民俗社会の心性の根底に「異人にたいする恐怖心と排除の思想」がはたらいているとする小松氏の分析の…

いじめられることの「穢れ」

「穢れ」は、共同体内部で発生し、共同体に充満している。共同体において支配されてあるがわの民俗社会の人びとは、そういうしがらみから解放されたがっている。できれば「出てゆきたい」という衝動を、潜在意識として抱えている。 支配されてあることは、「…

「異人論」 穢れ

いじめ」の問題についてもう少し考えていきたいと思っています。しかし僕にとってそれは、解決法を見つけることではなく、「異人論」をきっちり把握することだと思っています。解決法なんて、僕にわかるはずがない。誰かひとりでもいい、このレポートを「い…

河童の原像

「異人論」の著者である小松和彦氏は、「民俗学は、ナイーブな民俗社会賛美だけにとどまるのではなく、“忌まわしい部分”もちゃんと把握しておかなければならない」という。それは正論です。しかしその根拠が、民俗社会の人びとがその心性の根底に抱えている…

「「いじめ」と「異人殺し」 ―民俗社会から現代社会へ―

教育現場の「いじめ」というところから思い切り拡張して「いじめの衝動」を考えれば、それはまず、空腹であるとか息苦しいとか暑いとか寒いとか痛いとか疲れたとか、そのように意識(観念)が身体からいじめられているという、この生の根源的なありようから…

「いじめ返す」ということ

人間が生き物であるかぎり、誰もが「いじめ」を受けて存在している。 空腹であるとか暑いとか寒いとか痛いとか疲れたとか、身体の苦痛を察知することは、意識(観念)が身体から「いじめ」を受けている状態です。だから意識(観念)は、身体を支配していじめ…

「いじめ」という祝祭

まったく、華やいでいやがる・・・・・・。 これは、司馬遼太郎の「峠」という小説の冒頭で主人公がつぶやくせりふです。 北国の秋の終わりころ、人びとは、冬支度のために木に藁を巻いたり漬物にする野菜を買い込んだりと、いっとき活気づいている。 まるで、祝祭…

「いじめ」の原像

「いじめ」の問題を発言することは、教育の現場にいるわけでもないやつがなにいってやがる、といわれそうな後ろめたさがあります。 だから、こうすればいい、とかというようなことはできればいいたくないし、いえる能力もないと思っています。 しかし、われ…