「「いじめ」と「異人殺し」 ―民俗社会から現代社会へ―

教育現場の「いじめ」というところから思い切り拡張して「いじめの衝動」を考えれば、それはまず、空腹であるとか息苦しいとか暑いとか寒いとか痛いとか疲れたとか、そのように意識(観念)が身体からいじめられているという、この生の根源的なありようから出発しているように思えます。だから意識(観念)は、身体を支配しいじめ返そうとする。
次に、人間社会の仕組みとして、共同体の権力から支配されて暮らしていることも、ひとつの「いじめ」を受けている状態でしょう。支配することは、他者を被支配者のがわに排除することであり、それもまた「いじめ」であるはずです。
現代の市民社会における政治権力から受けるプレッシャーは、前近代に比べるとずいぶん解決されてきている。しかしそのぶん、日常生活のあらゆる場面にあらわれてくる社会の約束事=システムから支配されているプレッシャーは、むしろはるかにきつい。そのストレスで大人は、若者を支配しいじめようとする。
そうして、親が子供を育てるという行為も、「支配=いじめ」であると考えられます。ことに現代では、ただ育てりゃいいというものではなく、親はもうあれこれ子供をいじくりまわす。「いじめ」とは、他者をいじくりまわすことだ。いい子に育とうと育つまいと、親からいじくりまわされることのストレスはどの子供にもあるわけで、だから「反抗期」がやってくるのだし、高校生ともなれば、たとえ親の庇護のもとにあっても親から心が離れて自分たちだけの世界をつくろうとするようになる。
しかし、そののち社会の動きに参加していけば、また、大人が若者を支配しいじめるという情況に投げ入れられてしまう。
人間が生きてゆくことはもう、いじめたりいじめられたりしてゆくことだ、といえるのかもしれない。
つまり「異人論」を考えることは、そこから問題を整理してゆくことのひとつになるのではないか、と思っています。
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「異人論」の著者である小松和彦氏は、民俗社会の人々の根底にある異人(旅の僧や琵琶法師などの漂泊する宗教者)にたいする意識は、「恐怖心と排除の思想」である、と分析しています。で、その意識から「異人殺し」が生まれてきた。民俗社会の人々は、その心性の根底に異人をいじめようとする衝動を持っている、と言う。
しかし「異人殺し」の話はあくまで伝説や昔話であって、実際に起きた事件であると信じることのできる根拠などほとんどないのです。
民俗社会の人びとが当事者となって起きた忌まわしい事件など、みんな口をつぐんでやがて歴史から消えてゆくのが通例です。そりゃ、そうでしょう。村の恥を、誰が好きこのんであとの時代まで残そうとするものか。
「異人殺し」の話が語り伝えられてきたということは、それがじっさいに起きた事件ではなく、つくりあげられた話だということを意味する。
民俗社会の人びとは、「異人殺し」をしようとする衝動などさらさらない。しかし村の長者や支配者など、あいつらはしかねない。そのような、みんなで貧乏しようという合言葉で生きている民俗社会から逸脱していった者たちにたいする悪意によってつくりあげられたのであって、殺された当事者である旅の僧や琵琶法師という漂泊する「異人」にたいする悪意ではない。むしろその話の中で、殺人者に祟るなどという筋書きにして、殺された異人を応援しているのです。
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「いじめ」の衝動とは、基本的に支配しようとする衝動です。そうやって他者を被支配者のがわに排除しようとする衝動です。「内部」に閉じ込めておいて、被支配者のがわに排除する。「外部」に向けて排除するのではない。
「いじめ」の衝動は、まず支配者ところで生まれ、それから民俗社会に下りてくる。
現代の子供たちが、親や学校に支配されてあるストレスをクラスの誰かに向けていじめているとすれば、それは、民俗社会の「村八分」という制度に似ている。「いじめ」の衝動は、つねに内部に向けられる。
昨日まで貧しい村びとの一人だった者が、いつの間にか長者になっていた。そういうときに、あいつは「異人殺し」をして奪った金で長者になったのだ、といっていじめようとする。「異人殺し」というしるしづけをして、支配しようとする。
支配者の圧政に耐えて暮らしてゆくためには、誰かを「村八分」にしていじめていないではいられない。近世以降に「村八分」が盛んになってきたのは、支配者の圧政(いじめ)が強くなってきたことに加えて、旅をする宗教者や芸人が、実入りのいい町でばかり活動して村にはあまりやってこなくなり、「ガス抜き」の機会が少なくなったこともあるのかもしれない。それやこれやで、村がどんどん閉鎖的になっていった。
共同体の内部の他者をいじめること・・・・・・たしかに近世以降の村でそういう衝動が強くなってきたのだろうが、それは、支配者の圧制がきつくなってきたことと同調しているはずです。「村八分」は、そういう支配から逃れようとするあまり、同じ村の者を内部に閉じ込めいじめてゆくという、支配を模倣する行為なのだ。
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現代社会は、共同体の内部で活動するとき、システムからのさまざまなプレッシャーを受ける。社会がどんなにガス抜きのための祝祭(娯楽)が用意しても、もう追いつかなくなってきている。祝祭それじたいが、すぐに内部的なもの(=システム)に変質してしまう。
近世の村びともまた、領主にたいする反抗や漂泊の異人を歓待するという機会が減り、「村八分」に走った。家と学校という共同体に閉じ込められた現代の子供たちが、「いじめ」に走るように。
「異人=他者」を歓待する心性とその体験の欠落、そこから「いじめ」が生まれてくる。
現代の多くの子供たちは、なんとはなしに内部に閉じ込められてあることのうっとうしさを抱えて生きている。そこから生まれてくるヒステリーが、「いじめ」になる。誰もがそこに「いじめ」の衝動が充満していることを自覚しており、多くの子供たちが、なんとはなしに自分がいじめられそうな不安を抱えている。
そうしていじめられている子供も、もう死ぬしかないと追いつめられるほどに内部に閉じ込められている。
彼らは、「異人=外部」を知らない。支配されきって生きてきたから、支配の及ばない「異人」というイメージがない。だから「いじめ」をするのだし、だから、「いじめ」から逃れて支配の及ばない「異人」になれるという希望がもてない。
日本列島の伝統においては、「異人」になるとは「神」になることです。だから、三島由紀夫も、神風特攻隊の兵士も、いじめられている子も、「神」になろうとして死を選んだりする。だが、もともと「神」は生きている人だったのであり、それが「まれびと」です。他者を「神」として見たたり遇したりする心性、そういう心性による作法(態度)が日常生活の細部にまで浸透していったのが「まれびと信仰」です。
柳田国男のいう、ご先祖さま(=死者)を神とする「祖霊信仰」と、折口信夫の、生きている人まで神とする「まれびと信仰」。日本人の意識には、この二つが混じり合っているから、問題がちょっとややこしくなる。
いずれにせよ、いじめられている子供は、「神」になろうとするところに追いつめられてゆく。神になれば、いじめられなくてもすむ。あるいは、いじめられても平気だ。彼は、そいうところに追いつめられてゆく。
現代の若者たちは、大人よりもずっと「神」のことを考えているような気がします。だから「スピリチュアル」という言葉が流行ったりするのだろうし、「生首少年」も、そういうかたちでいわば「神」になろうとしたのだろうと思えます。
「人間は、神になろうとしなければ、人間にすらなれない」と言った哲学者がいる。われわれは、人が神になろうとすることについて、もう少し考えてみてもいいのではないだろうか。
それは、他者を神のように見る、という問題でもある。
現代社会の「いじめ」は、日本列島の伝統としてもともとあったはずのそういう視線の喪失として起きてきているのかもしれない。
そういう文脈で、「異人=他者」との出会いとか「まれびと信仰」ということが、やっぱり気になってしまいます。