2008-02-01から1ヶ月間の記事一覧

まれびと論・36 常世

日本人は、なぜ忘れっぽいのか。 そのつどそのつどみずからの生を完結させてゆく身振りと心の動きを持っているからでしょう。 誰もが、どこかしらに、過去も未来もなく「今ここ」を生きようとする身振りと心の動きを持っている。 「今ここ」を生きるとは、過…

まれびと論・35 「おに」の来訪

折口氏が「国文学の発生・まれびとの意義」でいちばん言いたかったのは、海の彼方の「常世(とこよ)の国」から「神=まれびと」がやってくるということが古代人の信仰であった、ということらしい。 で、本来的な信仰の「神」は常世の国にいて、そこから仏教…

いまどきの「穢れ」

現代の若者たちは、たとえ仲のよい友達どうしでも、不器用なほど相手に気を使ったりこびたりする。彼らは、傷ついた小鳥のように「他者」を畏れている。学校帰りに道端で別れるとき、女の子たちは、けんめいに手を振る。それはもう、痛々しいほどわざとらし…

まれびと論・34 穢れの発生

畏怖することは大切です。それは、ひとつの「浄化作用=カタルシス」です。 日本列島の古代人は、神を、海の向こうを、畏怖していた。畏怖することが穢れを祓うことであり、彼らの信仰のかたちだった。 ところが、「異人論」の小松和彦氏も「異人論序説」の…

閑話休題 「今ここ」ということ

1・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 「まれびと論」は、まだまだ続けるつもりですが、ちょっとひと休みです、 「不在」という言葉が、このところとても気に掛かっています。 「今ここ」には、「過去」も「未来」も存在しない。 そんなこと当た…

まれびと論・33 「にらいかない」は永遠の楽土か

たとえば、若い娘が道端でスカート捲り上げて太腿あたりのストッキングのよじれを直しているところに出会ったら、あなた見ますか。見てしまうでしょう。 ちょっとどきどきして見てしまう。 では、その「どきどき」は、見てはいけないという道徳心がはたらく…

まれびと論・32 「かみ」の不在

現代の若者は、感動する、という体験をとても大切に思っているらしい。 幸せにまどろむよりも、ときめきたい、と思っている。 いまや、「幸せ」なんて、たいして価値のある言葉ではない。そういう言葉に今なおしがみついているのは、感動したりときめいたり…

まれびと論・31 「かみ」と「もの」

はじめに「聖」と「穢れ」があった、それが古代人の心である、というのが折口信夫の歴史観です。だから、「まれびとの文化」の歴史は、聖なる存在である「神」や「貴人」をもてなすことから始まった、という認識になる。 まず原初的な聖なる心(魂)が発見さ…

まれびと論・30 もののあはれ

小林秀雄全集を書斎のキャビネットに飾って気取っている人種もうさんくさいけど、わけのわからない小林秀雄批判に出会うのも、なんだか自分の家の前で立小便されているような気分にさせられます。 まあ僕も、あちこちで立小便をしてきたのだから、人のことは…

まれびと論・29 日本人にとっての神

橋本治という人が、小林秀雄批判の本を出したそうです。 この本についてくわしく論評しているブログを見つけたので読んでみたのだけれど、まあ、なにを言ってるんだか、という感じです。論評が、ではない。橋本氏の小林秀雄批判そのものがです。 まず、当時…

まれびと論・28 海の向こうの「常世(とこよ)の国」

「限界芸術」とは、サブカルチャーのことでしょうか。「限界」という言葉は、嫌いじゃない。「限界哲学」というのもあっていい。哲学の手前で哲学を考えること。宗教の手前で宗教を考えること。「悟り」なんかようわからんけど、「やけくそ」になることは大…

まれびと論・27 語源の分析

「国文学の発生・まれびとの意義」における折口氏の「語源」についての分析がいかにいいかげんかという例を、もうひとつ上げておきます。 古代人にとって「鯖(さば)」は、とてもおめでたい魚だったらしい。 ______________________…

まれびと論・26 「あるじ」と「ぬし」

折口氏の「まれびと論」によれば、たとえば平安時代の藤原氏が天皇を自分の家に迎えるように、「貴人をもてなす」ことが「まれびとの文化」の原型である、ということになっています。日本列島における「主客の関係」の本質はそこにこそあるのだ、と彼は主張…

まれびと論・25 「出会う」ということ

ヴィム・ヴェンダースの「パリ・テキサス」という映画で、ちょっと変わったアメリカのフーゾク営業が紹介されています。 日本では、「ファッション・マッサージ」とかの本番をやらせないシステムの店でも、女は、素性の知れないその客の前でかんたんに裸にな…

まれびと論・24 「走る文化」と「歩く文化」

英語で、走ることを「ラン」という。なんだか楽しそうな響きです。つまりそれは、走ることに対するみずからの感慨を表現しているのでしょう。 一方やまとことばの「はしる」は、みずからの感慨というより、走るさまを眺めている感慨のような響きです。 「は…

まれびと論・23 新室のほかひ

やまとことばは、概念的な構造や機能を持った言葉ではない。だから、その語源をたどろうとするときに、概念的な意味で片付けてしまわないほうがいい。たとえば「祝う」といったって、体の中心が暖まってゆく気分を表現していただけであり、「めでたい」とい…

まれびと論・22 嫌いになんかなりたくない

小野伸二、ドイツでのデビュー戦、後半22分から出場して、いきなり2アシスト。 僕の言った通りでしょう。ざまあみやがれ。 悪いけど、小野は、今いろいろ言われているほかのどの司令塔の選手とも「格」が違うのだから。 これは、客をもてなすという「まれ…

まれびと論・21 祝福の世代

「第二反抗期」、アメリカでは「ギャング世代」ともいうらしい。 家族のあいだでは、すでに相手の気持がわかるようになっている。というか、わかったつもりになっている。そこに、家族という関係をつくってしまうことの鬱陶しさがある。そして親たちは、わか…

まれびと論・20  日本人の神

僕は、折口信夫が提出する「まれびと」という言葉を、もろ手を上げて受け入れる。しかし、「神は<常世(とこよ)の国>からやってくる」とか「神や貴人をもてなすのが<まれびとの文化>である」というような安直で権威主義的な分析に対しては、殺意すらお…

まれびと論・19 「翁」の意義

「なまぐさい」とか「なまいき」とか「なまけ」とか、日本列島の住民は、「生(なま)」であることをとても嫌う。 そのくせ生の刺身を食ったり、「旬」のものをとても大事にしたりもする。そこに、新しいものとの「出会いのときめき」がある。 「なま」とは…