まれびと論・21 祝福の世代

「第二反抗期」、アメリカでは「ギャング世代」ともいうらしい。
家族のあいだでは、すでに相手の気持がわかるようになっている。というか、わかったつもりになっている。そこに、家族という関係をつくってしまうことの鬱陶しさがある。そして親たちは、わかることが家族のアイデンティティであるという思想を掲げ、鬱陶しさを意識の底に封じ込めながら、少しずつ少しずつセックスレスになってゆく。
一方子供たちは、中学生のころになって、やっとその鬱陶しさがわかってくる。そうして、反抗的になったり自閉的になったりしながら、意識を家族の外に向けてゆく。
その年ごろになって彼らは、はじめて本格的に家族の外の、気持をはかりかねる「他者=異人」と出会う。そこで彼らは、気持をはかりかねるというそのことにおいて、新鮮な「ときめき」を体験する。
K・Y・・・・・・空気を読む。すなわち他人の気持がわかるという認識は、家族の論理です。だからいまや、小学生でもそんなスローガンを振りかざして「いじめ」をする時代になっている。言い換えれば、そういう言葉をつくった大人たちは、小学生並みの意識しか持っていない、ということになる。
しかし中学生は、本来的には、まさにその論理から抜け出して「出会いのときめき」を体験をする世代であるはずです。
恋をして、胸がきゅうんとなる。悪い遊びの仲間と出会う。ストリートにたむろするようになる。友達と一緒にいたほうがいいといって、家族旅行について行きたがらなくなる。
彼らは、家族と社会の「間」において、「まれびと」との出会いを体験している。
そのはずなのですけどね。現代では、それができなくて「いじめ」ばかりしている中学生も、けっして少なくない。
「いじめ」なんて、家族の論理です。家族の論理から旅立てないから「いじめ」をする。
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中島義道氏の「人を<嫌う>ということ」という本の第一章で、「中学生」のことが書かれています。
中学生、すなわち「ギャングエイジ」、何をするかわからないし、何を考えているやら、親たちを途方に暮れさせる世代です。
中島氏の中学生観を引用します。
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 NHKテレビの「中学生日記」は、私に人間の根源的なあり方、つまりまだ充分に社会化されていない自然な姿を教えてくれます。社会的責任のもとに感覚の鈍くなった大人ではなく、エゴイズムの嵐を押さえつけるのが精一杯で、他人に対してまだ充分技巧的な対応ができない。こういう年頃は、社会に対する関心はまだありませんから、いきおい最大の関心が近くの人間関係になる。そういう肌で触れ合うところに潜む人と人の濃密な関係に揺さぶられつづけることになります。まだ、充分自分をごまかすことができないので、私の目には彼ら中学生は人間の「自然(本性)」が剥き出しになっている。つまり、人を嫌うということに対してまだ無防備で、―ちょうどセックスのように― 嫌うことの自然性を本能的に感じていて、しかもそれが社会的に禁じられていることも知っており、そのあいだにあって全身揺さぶられるほどの苦痛を味わうのです。
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いかにも学者らしいそつのない分析です。
しかし、ほんとうにその通りなのだろうか。
「まだ充分に社会化されていない自然な姿」というときの「社会」がどういう意味なのかという問題もあるが、僕は、子供が「社会化」されていないとは、ぜんぜん思っていない。
小学生が「俺んちのとうちゃん、部長なんだぞ」と言うとき、その自慢は、充分に社会化されている。彼らは、同級生の家の経済状態をとても気にし、そういう基準で友達を選んだりする。彼らは親に頼らないと生きてゆけない存在だから、親に充分に飼い馴らされてしまっている。そうして、親の社会化された意識が、そのまま子供に反映する。
小学生の意識は、すでに「社会化」されてしまっている。
そういう小学生が、中学生になるのです。「まだ充分に社会化されていない」とはいえないでしょう。
中学生だって、すでに「社会化」されているのです。たぶん、小学生よりも、もっと。
しかしもっと「社会化」されているからこそ、親の意識とはべつの自分たちだけの「社会」をつくろうとする。
彼らはそこで、「家」の外にある「もうひとつの社会」に出て行ったのだ。
そこは、親がイメージする世間的な社会(共同体)とはちがう。家でも国でもない「もうひとつの社会」であり、充分に「社会に対する関心」を持っているのです。ただ、彼らがイメージするその「社会」が、国でも家でもないというだけのことです。
彼らは、学校だけでなく、街角の「ストリート」にもたむろして、自分たちだけの「社会」をつくろうとする。
親や家がうっとうしくなって、はじめて本格的に意識が家の外に向いてゆく年代です。だから、このころから家族旅行なども行きたがらなくなり、友達と遊んでいたほうがいい、と言ったりする。
観念的には、家という世界に囲い込まれて生きてきた子供が、そこではじめて外部の「異人=他者」と出会うのです。
中島氏は、「嫌うことの自然性を本能的に感じていて、全身揺さぶられるほどの苦痛を味わう」というが、僕は、そうは思わない。「いじめ」も「引きこもり」も体験しなかった子供のほとんどは、あとになって「中学生のころがいちばん良かった」というのです。
彼らは、ほんらいなら、人生の中でもっともビビッドに「異人=他者」との「出会いのときめき」を体験する年代なのです。だからこそ、その体験が「いじめ」や「引きこもり」で阻まれてしまうことのやりきれなさがあるわけで。
変な「いじめ」や「引きこもり」さえなければ、人生の黄金時代であるのかもしれないのです。
中学生の人を嫌うこと、すなわち「いじめ」や「引きこもり」は、中島氏の言うような「自然(本性)」などではなく、充分に社会化された意識の「時代(共同体)から負わされた傷」なのだ。
彼らは、「社会に対する広い関心はまだない」のではない。家から飛び出していった先の自分たちの新しい社会に立って大人たちの社会に対しては「拒否反応」をもつ、というかたちで、それほどつよく社会に関心を抱いているのです。
「まだない」というだけのことなら、大人たちの言うことを拒否したりはしない。すでに自分たちの社会を持っているから、拒否するのだ。
本音を言わせていただければ、中島氏の分析は、そつがないというよりもステレオタイプなだけで、それこそ中学生の人間性をばかにしている。
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中学生の「いじめ」や「引きこもり」には、たしかに「人を嫌う」という問題が潜んでいる。そして中島氏は、人を嫌うことは人間の自然=本性である、と言う。
しかし中学校は、ほんらい、家の鬱陶しさを感じ始めた少年少女たちの出会いのときめきが生まれるところであるはずです。
「初恋」というのはいまや小学校のうちに経験してしまうものであるのかもしれないが、胸がきゅんとなるような本格的な恋心は、やっぱり中学生になったころに経験するのだろう、という気がします。
家に対する鬱陶しさがあって、家の外に飛び出るという意識がなければ、そんな思いも生まれてこない。
ただ体が大人びてきたというだけで初恋をするのではない。体が大人びていても、意識がまだ家に閉じ込められてあれば、恋心なんか生まれない。
原初の人類における直立二足歩行の姿勢の鬱陶しさは、他者との出会いのときめきをもたらした。同様に、家の鬱陶しさから飛び出した中学生は、そこで初恋のときめきを体験する。あるいは、仲間で「ギャング団」を組織してばか騒ぎをする。
「ケ」から「ハレ」へ・・・・・・その「新しい社会」は、ほんらい、祝祭の空間であったはずです。
いったい誰がそうではない鬱陶しい空間にしてしまったのか。
中学生は、家の外に出て「人を嫌う」ことを覚えるのではない。「他者=異人」との出会いに驚きときめくことを体験するのだ。「自然=本性」というなら、そういう体験だろうと思えます。
「人を嫌う」ことは家の中で覚えたのであり、だからそこからとび出してきたのだ。
親兄弟を嫌うということをはっきり自覚しなくても、その年頃にとって「家」という空間は、誰もが少なからず鬱陶しい思いをしている。だから、自分の部屋に閉じこもりがちになるのであり、現代の子供たちはそういう部屋を持っているから「引きこもり」という行為も可能になる。
そのとき彼らは、家に戻ったのではなく、家という社会を棄てて、自分の部屋に「隠遁」したのだ。この国には、そういう伝統がある。日本人は、狭い空間にじっとしていることのできるメンタリティを持っている。
中島氏は、「嫌い」の原因の心理学的な要素を7つも8つもあげて説明してくれるが、本質的には「関係が固着する」とか「関係に閉じ込められる」状態において生まれてくる心理なのだろうと思います。そしてそれは、家族という関係の本質でもある。
人は、生まれてきて、まず家族の中で関係に閉じ込められることを体験する。そしてその関係は、個体として未熟なあいだは安らぎとして感じられるが、成長するにつれてだんだん鬱陶しくなってくる。
鬱陶しくなってきた中学生は、その関係から逃げ出して、他者と出会い、ときめき祝福する態度を身につけてゆく。たぶんほんらいは、そういうものなのだろうと思えます。
中島氏の言う「肌で触れ合うところに潜む人と人の濃密な関係」は、「家族」のなかにこそ存在するのであり、中学生は、そこから逃げ出してきた者たちです。
ただ、現在の学校は、そういう家族のような濃密で制度的な空間になっているから、一部の生徒たちは、せっかく家から出てきたのにそこでもまた同じような「固着した関係」に閉じ込められるはめに陥ってしまう。
そうして、「いじめ」にあったり、家に戻って、家よりももっと狭い自分の部屋に「隠遁」したりする結果になる。
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「人を嫌う」心理は、人間の自然=本性ではない。それは、共同性が濃密な空間で発生する。
人間なんて人を嫌う生きものなのに、なぜわれわれは誰も嫌っていないかのようなたてまえで生きてゆこうとするのか。それは、人間の本性が他者を「祝福」することにあるからでしょう。
中島氏は、人間は人を嫌う生きものであるという事実を「重く受け止めよ」という。そして僕は、人間が誰も嫌っていないかのようなたてまえで生きている事実を、重く受け止めている。中島氏はそれを「みんな嘘でごまかして生きているのだ」というが、僕は、そうは思わない。そんな子供でもわかる嘘を、どうしてつかなければならないのか。嘘を承知でごまかしているのでしょう。そういうたてまえで生きてゆかねばならない事情が人間にはある、人間とはほんらいそういう生きものだと誰もが思っているからでしょう。
「人を嫌う」心理なんか、どうせいつかは消える。死んでしまった相手を嫌いつづけることなんかできない。なぜなら、「死」によって、そうした固着した関係も解体されてしまうからだ。
「別れる=関係を解体する」ことは、人生の大切な手続きだ。別れてしまえば、誰も嫌いにはならない。たとえたてまえであろうと、人は、祝福し合う「出会い」の関係を願っている。
われわれは、15歳のときに、他者に驚きときめくという決定的な体験をしている。
嫌いな人間なんかいない・・・・・・そういう「ハレ」の聖なる時間を、われわれはどこかで体験したことがある。その記憶が、人間社会のそうした欺瞞的なたてまえを生んでいるのではないだろうか。
たぶん、そのとき15歳の意識は、楽しい学校生活を送っていようと引きこもっていようと、世界中の誰とも別れて太平洋を泳ぐ一匹のウミガメになっている。
出会いのときめきは、そのあとにやってくる。