まれびと論・22 嫌いになんかなりたくない

小野伸二、ドイツでのデビュー戦、後半22分から出場して、いきなり2アシスト。
僕の言った通りでしょう。ざまあみやがれ。
悪いけど、小野は、今いろいろ言われているほかのどの司令塔の選手とも「格」が違うのだから。
これは、客をもてなすという「まれびとの文化」の結実です。小野ほど、その身振りと高度な技術を体現している司令塔の選手なんか、今のところほかにはいないのです。「女将(サービス=もてなし)の文化」の勝利です。そういうことを、日本人自身はよく気がついていないが、外国人はみな、小野に対して、どうしてあんな発想(イマジネーション)やボールの蹴り方ができるのだろうと驚いているのです。
この国の「まれびとの文化」が、小野伸二というサッカー選手を生み出したのです。
俺にボールを渡してくれさえすれば、きっとゴールを決めさせてやる。小野には、そういう自信がある。これで、チームメイトの選手も、もっと小野を信頼してもっと小野にボールをあずけるようになる。けがさえしなければ、ちゃんと活躍するに決まっている。
ドイツサッカーとは異質だからこそ、小野のことをみんなが驚き、信頼するようになる。小野が、チームに化学反応を起こさせた。
ドイツ人は、走るのが好きな国民です。走り回って相手を置き去りにしてしまおうとするのが、ドイツサッカーです。そして、ひとりの選手のためにみんなが働き蜂に徹することを厭わないメンタリティを持っている。だから、ゲルトミュラーのような超わがままなストライカーや、ヒットラーのような異常な独裁者も生まれてくる。
小野はきっと、ボーフムの「救世主(メシア)」になる。
まあ、今日だけは言わせてください。
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話は、中学生のことに戻ります。
ある女子中学生が、ふとしたことからクラスメートの女子をどうしようもなく嫌いになり、自分はもう誰ともうまくやってゆけないという自己嫌悪に陥った。そうして学校に行くのをやめ、家に引きこもってしまった。
この事例に対して、哲学者の中島義道氏は、こう言う。人を嫌いになることは、性欲や食欲のようにごく自然な感情だ。なのに彼女は、まわりの大人たちによる人を嫌うことがまるで人間失格であるかのように決め付ける欺瞞的な態度に追い詰められたのだ、と。
だから彼女には、自分のなかにめばえたその「嫌い」という感情を受け入れて上手に付き合ってゆくことを教えてあげたい、という。
そうでしょうか。人を嫌うことは、自然な感情でしょうか。
人類の直立二足歩行は、他者を祝福することの上に始まったのです。根源的な意識は、鬱陶しい身体を離れて世界(他者)を祝福してゆくはたらきのはずです。「知覚」とは、世界を祝福するはたらきである、と僕は思っている
おそらく彼女は、中学生になって、そういう胸がきゅんとなるような「ときめき」を体験したのです。そういう体験をしたのに、なぜこんな鬱陶しい感情も持たねばならないのかと、その落差に煩悶したのです。
彼女は、そのクラスメートが、自分よりもテストの成績が下なのに先生にうまく取り入って内申書は自分よりもいい点をもらっていることに気づき、どんどん嫌いになってしまったのです。だから中島氏は「自然なことだ」というのだが、とにかく、いろんなことがわかって(わかった気になって)、そこにどうしようもなく鬱陶しい「関係」が生まれてしまったのです。自分勝手に、そういう「関係」に閉じ込められてしまったのです。中学生は、家の中のそういう「関係」の不自然さに気づいてそこから逃れ出てきた世代なのであり、だからこそ胸がきゅんとなる体験もできるのです。
そういう鬱陶しい関係から逃れてきたその先で、またその「関係」にとらえられてしまった。そりゃあ、うんざりもするでしょう。
僕は、彼女の自己嫌悪こそ認めてやるべきだと思います。それを不自然なことだと思って悩む感受性は、貴重です。中島氏より、ずっと根源的な問題と向き合っている。そういうことが「自然なことだ」といって自分を正当化してゆく身振りのほうがよほど欺瞞的なのだ。彼女は、大人社会の欺瞞的なたてまえに追いつめられたのではない。大人なんか関係ない、と思っている世代なのだ。小学生ではないのです。
彼女がどうすればその「関係」を解体できるのか、僕にはわかりません。家に引きこもって相手と会わないようにするというのも、ひとつの答えだと思います。でもそうしたら、かえって相手のことが気になってきたりする場合もある。
まあ、確信犯的にほかの生徒をえこひいきして彼女を傷つけた先生が謝りに行くということはしてもいいのではないか。
中島氏は、そういう理不尽な差別は世の中に出たらいくらでもあるのだから、それに対抗できるだけの自分を鍛えたほうがいいというのだが、学校は世の中ではないのです。そうやって学校が世渡りのシュミレーションをするような場になってしまったから、「いじめ」だってひどくなってきたのかもしれない。学校は、そんなことをおぼえに行くところではないでしょう。世渡りのことは、世の中に出てからおぼえればいいだけのことだ。わざわざ学校が教えなくてもうまい子はうまいし、下手な子は教えても下手なのだ。
僕は、彼女が人を嫌うことの不自然さに馴れ合ってゆくことよりも、せっかく覚えた他者を祝福する身振りとその醍醐味を味わうことの自然さを取り戻して欲しい、と思う。それが、中学生という世代なのだもの。人を嫌うことなんかいつでもできるが、胸がきゅんとなることなんかそう何度でもできることではないし、もしかしかしたら今しかできないことかもしれない。
関係に閉じ込められたら、人を嫌いになってしまう。生きていれば、それは確かに避けられない。しかし関係などというものは、できるだけ解体したほうがいいに決まっている。解体して、あらためて「出会い」の場に立つこと。その祝福の身振りというか表現を、どうやっておぼえてゆけばいいのか。
彼女はたぶん、その身振り(表現)がまだうまくできないのでしょう。
それこそ「まれびと」の文化の問題だと思うのだが。
相手の気持がわかるという関係を止揚してゆく家族の文化は、わからないという「出会い」の場を否定し、そこにおける身振りを育てることをしない。しかしそれでも15歳になれば、そういう場に出てゆき、「ときめき」を体験してしまうのです。
現代の幸せな核家族では、そうした家族という関係の鬱陶しさが、無意識の底に滞ったままで、うまくそれを自覚できない。できないから、どうしても、「相手の気持がわかる」という関係意識を引きずってしまう。そして、家族の外で体験した「ときめき」も、わかり合えたことによるのだと錯覚してしまう。
嫌いになることはかまわないけど、相手のことがわかったつもりになってはいけない。生まれたばかりの赤ん坊のような気持でこの世界と向き合うこと。ほんらいは、人生でたった一回、そういう体験をできるのが15歳という世代でしょう。家族なんか、なんの解決の能力もない。家族にできることは、家族から旅立ってゆく15歳を祝福することだけであろうと思えます。