他人と一緒に暮らすなんて、鬱陶しいことだ。人間ほどそのことを鬱陶しがる生き物もいないというのに、なぜか「家」という単位をつくって閉じてゆくということまでしている。
それは、「一緒にいる」ことによろこびを見出してゆく存在だからだというわけではない。そんなものは、ただの制度的なスローガンにすぎない。相手が好きとか嫌いということも関係ない。たとえ好きな相手とだって、一緒にいれば鬱陶しくなってしまうのが人間の自然なのだ。
しかし、だからといって、「家」を解体すればいいという話にもならない。それでも人間は「家」をつくってしまう。それが人間の自然であるなら、しょうがないことだ。
アマゾン奥地の100人か200人の集団なら家なんか持たなくてもやっていけるだろうが、こんなにも大きく密集した集団の近代社会では、人はどうしても家をつくってしまう。それが自然の「なりゆき」なのだからしょうがない。
僕は、家は大切なものだという思想も、家は解体しなければならないという思想も、どちらにも馴染めない。現在の言論界の状況としてそういう二元論的な対立があるのだろうが、「こうすればいい」とか「こうしなければならない」というような作為的なことを語ってもあまり有効ではないと思える。
なるようにしかならないのだ。
独身主義も、家は大切だというのも、たんなる個人的な趣味であって、人間の自然(普遍)だとはいえない。
家なんか鬱陶しいだけのものだし、ひとりで暮らせば何かと不便でさびしくもある。
毎日セックスしたいという衝動を持った男がひとりで暮らすのはしんどいだろうし、女だってそういう気分になってしまうこともあるのかもしれない。男と女が関係を結べば、家をつくって一緒に暮らすようになったりもするだろう。一緒に暮らすなんて鬱陶しいだけだから離ればなれでうまくやってゆく男女もいるだろうが、それでも一緒に暮らしてしまう男女もいるし、一緒に暮らせば人間の自然ではないともいえない。
一緒に暮らすことなんかどうしようもなく鬱陶しいだけだけど、それでも一緒に暮らすことができるのも人間性なのだ。
男と女が関係を結べば、家をつくってしまうような社会の構造になっている。そしてその構造とは何かといえば、こんなにも大きく密集した集団になっている、ということだ。
べつに、家は大切だという思想がはびこっているからでも、家をつくって楽しようとする男がのさばっているからでもない。
ただもう、誰もが、こんなにも大きく密集した集団の中に置かれているからだ。そういう状況に置かれれば、家をつくろうとする男女が生まれてくるのは自然のなりゆきなのだ。
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大きく密集した集団の中に置かれれば、そのぶん鬱陶しさも大きくなる。そうなれば、そのストレスから逃れて一対の男女として閉じてゆこうとする衝動が生まれてくるのは、しょうがないことだろう。
個人どうしのネットワークをつくればいいという知識人もいるが、それだけではすまない人々がいる。この社会の鬱陶しさから逃れてどうしても一対の男女として閉じてゆきたい、と願う人がいる。そういう思いはたぶん、現代社会に暮らす誰の中にも多かれ少なかれ疼いている。
秋葉原通り魔事件を起こした青年は、友達とかその他のネットワークは持っていた。それでもひとりの彼女がいないと生きてゆけない、と思った。ネットワークは、彼の救いにはならなかった。
ネットワークは、社会的な広がりである。それもまた、ひとつの「共同体」にほかならない。そういう広がってゆく集団に参加するためには、一対の男女とか、シングルマザーの親子関係とかの「閉じてゆく関係」を拠点として持っていないと難しい。
人と人の関係の基礎は、1対1の関係にある。その関係の上に社会的な集団が成り立っている。その関係の集合として、かくも大きく密集した社会的な集団が成り立っているのだ。
はじめに集団があるのではない。はじめにネットワークがあるのではない。人は、閉じられた小さな集団を拠点にして、そうしたネットワークや社会集団に参加してゆくのだ。
家族なんか鬱陶しいだけだが、人類の集団がこんなにも大きく密集したものになってしまっているのなら、閉じられた関係としての拠点はどうしても必要になってくる。
ネットワークだけでいい、というわけにはいかないのだ。
アフリカの未開人はまさにネットワーク社会を100万年以上続けてきた人たちだが、それでも家族的小集団という拠点を持っていなければその関係の社会は成り立たなかった。
人と人の関係の根源は、1対1の「出会いのときめき」と「別れのかなしみ」にある。1対1の「一緒にいる」という関係の鬱陶しさに、「出会い」と「別れ」のニュアンスを付与して鬱陶しさを克服してゆこうとするのが人間の自然である。その試みをしようとするのが人間であり、そういう試みをする拠点を持たなければ、ネットワークもくそもないのだ。
人と人の関係は、鬱陶しさがなければそれでばんざいというわけにはいかない。その鬱陶しさを、「出会い」と「別れ」のニュアンスを付与しながら文化的に克服してゆこうとするのが、人間の生きる醍醐味の大切なひとつになっている。人類の歴史における言葉も恋心も、そういうところから育ってきた。
その鬱陶しさを知らず、それを克服するすべも持たずに子供が育っていっても、魅力的な人間にはなれない。
人と人の関係は鬱陶しいものだし、その鬱陶しさを克服してゆくのが人間性である。そのようにして、人間の文化は生まれて育ってきた。
心地よいネットワークだけでは、人間の生きるいとなみはすまない。鬱陶しい閉じられた関係を避けがたく持ってしまうのが人間なのだ。
一緒にいる他者の身体存在の物性は鬱陶しいばかりだが、その物性を忘れて「出会い」と「別れ」のニュアンスの「空間性」に身を置くことができるのが、人と人の関係の文化である。そういう醍醐味はネットワークでは味わえないし、そうやって生きてゆこうとするのが人間である。
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けっきょくのところ、「こうすればいい」とか「こうしなければならない」という主義思想で歴史が動いてきたことなど、一度もないのだ。なるようになってきただけのこと。
「こうすればいい」とか「こうしなければならない」ということなど、誰にもわからない。人間がよい社会をつくらねばならない責務を負っているなんて、僕はぜんぜん思わない。
あなたたちがなんと言おうと、世界はなるようになってゆくだけだ。
右であろうと左であろうと、「こうすればいい」とか「こうしなければならない」というような言説ほど鬱陶しいものもない。われわれが知りたいのは、「今ここ」の状況がどうなっているのかということだけだ。そうして「今ここ」を味わいつくそうとするのが人間の自然だと思っている。あとのことは「なりゆき」なのだ。
あなたたちがどれほど未来に向けて「こうすればいい」とか「こうしなければならない」といっても、「今ここ」を味わいつくそうとする人間の自然を凌駕できるとは僕は思わないし、まあ凌駕してもいいとは思っていない。
人間の未来をおまえらが勝手に決めるなよと思うし、その通りになんかいくものかとも思う。そんなことは、誰もが人間として「今ここ」を味わいつくそうとしたことの結果の「なりゆき」として決まってゆくのだ。
親が鬱陶しいというのも、人間社会の色合いのひとつである。それがない方がいいともいえない。そこから学ぶこともあるし、それもまた家の外に出て恋や友情を見つけてゆく契機になっていたりもする。
正直言って僕は、親の鬱陶しさを知らない人間なんて、あまり魅力的じゃないと思う。そんな飼いならされた犬みたいな人間のどこが魅力的なのかと思うし、人間がセックスして子供をつくってゆくかぎり、どうしても親との関係や子との関係は意識してしまうだろう。
家のない社会をつくりたければ生まれた子供が3年で大人になれるようにしてくれ、と言いたい。人間の子供は10年以上誰かの庇護のもとに置かれるという鬱陶しさの中に身を置いて生きてゆかねばならない。鬱陶しさを背負ってしまうことは、人間の属性なのだ。そのストレスを克服する機能として、言葉をはじめとする人間的な文化が生まれてきた。
現代社会は、子供をつくるなら家を持つほかないような仕組みになっているのだろうし、そのことのいちばん大きな原因は、われわれがこんなにも大きく密集した集団をつくっているということにあるのではないだろうか。家はない方がいいというのなら、そのことを解決してからにしてほしいし、家や親は大切だという人間が魅力的であったためしがない。そんなふうだから、家の外で生まれてくる恋にも友情にも鈍感な人間になってしまうのだろう。
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人と一緒に暮らすことなんか鬱陶しいばかりなのに、それでも人間はなぜ家を持ってしまうのか。
家を解体してしまえばいいとか、そんなかんたんな問題じゃないのだ。家をなくすことができるというのなら、なくして見せてみろ、という話である。
それはたぶん、現在のような大きく密集した集団を解体しなければ実現しない。
歴史は、後戻りできない。われわれはもう、大きく密集した集団をつくることができるようになってしまった。それは、国家だけのことだはない、スタジアムに何万人もが集まって歓声を上げる娯楽だって解体してしまわねば実現しない。
ネアンデルタールの社会のように、せいぜい2,3百人程度の集団になれば、家は持たないでもすむ。彼らは、家という単位を持たない乱婚社会をつくっていた。
それでも、移動生活をするアフリカの家族的小集団よりも圧倒的に大きな集団だった。原始時代に、大きな集団で移動(旅)をすること不可能だった。
それに対してネアンデルタールは、定住生活をしていた。それがまあ、大きな集団になってゆくひとつの契機になった。契機はほかにもあった。寒いから、自然にみんなが寄り集まってきてしまう。そうやってたがいの体温で温め合っていれば、寒さを忘れることができる。
ネアンデルタールの社会には、アフリカのホモ・サピエンスの社会よりもずっとさまざまな色合いの人間関係があった。それだけ鬱陶しくもあったが、ときめきもまた、アフリカのホモ・サピエンスよりはずっと深く豊かに体験していた。
ネアンデルタールの方がずっと、人と人の関係に深く豊かに心が動く暮らしをしていた。そういう心の動きが極まって、親しい者の死に深くかなしむようになっていったのであり、そこから「埋葬」という習俗が生まれてきた。
それは、どちらの知能が発達していたかというような問題ではないのだ。まったく、人類学の研究者なんてアホばっかりだと思う。
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わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
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