ネアンデルタール論B

1・古人類学 ネアンデルタール人のシリーズは、ひとまずこれで終わりにします。 僕は、現在の古人類学の学説というか仮説のほとんどを疑っている。彼らの思考は、じつにいい加減だと思う。だからもう、研究者は材料だけ提出してくれればいい、考えることは…

このところずっと、この前見た「愛を読むひと」というドイツ映画のことを考えている。 ネアンデルタール人のことと関係ないとは思わない。 ドイツ人というか、北ヨーロッパのゲルマン民族は、もっとも正統的なネアンデルタール人の末裔だと僕は思っている。 …

1・なんかやりきれない 人が何かを願うのは、この生の基層に「もう生きられない」という嘆きが疼いているからである。この「嘆き」こそ人間性の基礎であり究極ではないかと僕は思っている。 「もう生きられない」という嘆きが人を生かしているのだ。人間は…

1・集団の結束のダイナミズム 集団からいつもはぐれて落ちこぼれして生きてきた僕がこんな問題を語るのもなんだかおかしな話だが、ネアンデルタール人について考えることは、とどのつまり「集団の結束はどのようにして生まれるか」と問うことである。 人間…

1・あくまで「追いつめられる」ということを考えるなら 承前 ひとまずここでは自殺の問題を考えている。 おまえは死ぬか生きるかの瀬戸際に追いつめられたことがあるのか、と聞かれれば、まあ「イエス」と答える資格は僕にはない。だいいち、まだ死んだこと…

1・生きてあることの後ろめたさ 承前 この国の現在は、追いつめられて自殺してしまう人の数の割合がとても多いのだとか。 追いつめるものと追いつめられるもの、という構図がある。 人間社会であるかぎりそれはもうしょうがないことかもしれないが、しかし…

1・生きにくい 生きにくい世の中になってきているらしい。 僕は、戦前の昭和も明治時代も江戸時代も奈良時代も生きたことがないから、それらの時代と今とどちらが生きにくいのかということはよくわからない。 いや、今ここで同じ時代を共有しているあなたと…

1・教育することは正義か。 「教育する」ということを正義のようにいうのは、ほんとに下品でいやらしいと思う。それが人間社会の普遍的ないとなみだというわけではない。 人間社会は、共同体(国家)を持ったことによって人を支配するそういう制度性が生ま…

1・アメリカの蹉跌 内田樹先生は、最新のブログでこう言っておられる。 ____________ 幼児や高齢者や病人や障害者を含む集団を維持するためには、「集団内の弱者を支援し、扶助し、教育することは成員全員の当然の義務である」という「倫理」が身体化してい…

1・人間がオオカミから学んだもの 人間とオオカミをつなぐ絆は、「消えようとする衝動(本能)」を共有していることにあった。 生き物としてのその衝動(本能)を、オオカミの方がもっと本格的にそなえており、彼らはそれによって群れを形成していた。 人類はそん…

1・集団のダイナミズムがあった 人類の歴史は飢えとともにあった……とよくいわれる。 しかしもしそうであるのなら人類の体はだんだん小さくなってきたはずであるが、実際は大きくなってきたのだ。 これは、必要以上にたくさん食べてきたからだろう。 オオカ…

1・オオカミの子供はかわいいか ネアンデルタール人が野生のオオカミを犬として飼育するようになったいちばん最初のきっかけとなる出来事はなんだったのか、ということを特定するのは、今のところ僕にはできない。まあ、いろんな出来事があったのだろう。 …

1・「予測」と「計画性」 生物人類学者の海部陽介氏の「人類がたどってきた道」という本によれば、人類の文化は「予測」や「計画性」の知能とともに発達してきたのだとか。 僕は、近代合理主義に毒されたこういう程度の低いことを研究者にいわれると、めち…

1・ペットにする ネアンデルタール人は、犬を飼っていたらしい。 これもまた「癒される」体験の問題だろう。 ネアンデルタール人はわれわれ現代人よりずっとしんどい生き方をしていたから、われわれよりもずっと切実な「癒される」関係を犬とのあいだで結ん…

1・理想のリーダーなんかいらない 助け合うとは、競争をしない、ということだろう。たがいに弱者=敗者だから、助け合うということをしないと生きられない。 人間は、根源的に「弱者=敗者」として存在している。 「強い者が弱いものを助ける」というシステム…

1万3千年前の氷河期明け以降の人類は、「いかに生きるべきか」という観念的な問いとともに歴史を歩んできた。そこから共同体(国家)という制度が生まれ、発展してきた。そうして、原初的身体的な「生きられるかどうか」と問う文化を置き去りにしてきたの…

1・関係性の真実 ひとまず、現在の若者の多くは社会的な弱者であるといえるのかもしれない。 とすれば大人たちは彼らに対する強者ということになる。しかしそんな大人たちが強者として彼らを教化し訓育しようとしても、あまり有効には機能していない。 なぜ…

いまどきの大人たちは、いまどきの若者は無能でみじめな境涯で生きている、と決めつけている。 しかし若者たち自身は、大人たちがいうほど無能でもなければ、みじめな思いでいるわけでもない。 今の大人たちは自分たちが思うほど魅力的でも思慮深くもないし…

人と人が親密に関係するとき、「この世界にあなたが存在すること」に対する癒しや希望がはたらいている。どんなにくだらないことを語り合っていても、どこかしらでそのように心が響き合っている。 しかしまあ、世の中が平和で豊かになれば、そういうせっぱつ…

いまどきは「いかに生きるべきか」というハウツー本ばかり流行っている。よほどみんな退屈しているのだろう。 「生きられるかどうか」と追いつめられていたら、そんなことを考えている暇はない。 近代は、そういう退屈している人種を数多く生み出した。頭が…

未来に対する「予測」とか「計画性」とか、こういう言葉が僕は大嫌いなのだ。こういう能力によって人類は進化してきた、などといわれると、むちゃくちゃ腹が立つ。そこに人間の本性がある、とか、現在の古人類学の研究者なんか、みんなしてそんな程度の低い…

マッチもライターもない原始人が火をおこすということは、けっしてかんたんなことではない。よくそんな難しいことを覚えられたものだと思う。それほどに火をおこしたいという思いが切実だったのだろう。 オリンピックの聖火ランナーの風習は、原始時代から古…

近ごろ、30代40代の独身女性たちが、せっせと「婚活」に励んでいるらしい。「いい女」という自分の価値で、それに見合う「いい男」を買おうと物色しているらしい。 しかし、いまさらその歳に見合う「いい男」を探しても、そんな男はすでに結婚していて、…

人間を生かしているのは、何を「獲得」するかではなく、どのように「癒される」か、という体験なのではないだろうか。 直立二足歩行の起源を語るとき、決まって「そのとき原初の人類は何を獲得したか」というパラダイムで語られる。そうやってどの仮説も、ぜ…

日本人は、だめになってしまったのか。 僕には、よくわからない。 ただ、ちょっと弱ってしまっている、という気配はあるのかもしれない。 だから、「萌え」とか「癒し」というような体験を欲しがる。 草食系男子とかニートとかフリーターとか引きこもりとか…

猿の社会は、競争社会である。力の強いものが勝つ……極めて明快で健全な競争社会だ。横並びに競争する。だから彼らは、基本的に「正面から向き合う」という関係を持っていない。戦うか、屈服させるか、屈服するか、そういう不測の事態として向き合う。 しかし…

「フェアな競争社会」など、人間にとっては苦痛なのだ。人間は、他者と競争しようとする生き物ではなく、他者と向き合おうとする生き物だ。 他者と向き合うことによって、二本の足で立つという姿勢を獲得していったのであり、猿だって二本の足で立ち上がるこ…

人間は、生きることがしんどい状況に身を置いて、そこから「ほっこり癒される」体験(カタルシス)を汲み上げてゆくという習性を持っている。 安全・安楽が欲しいのではない、「ほっこり癒される」カタルシスを汲み上げたいのだ。つまり、しんどいことが消え…

今年の冬は、ますますキャンドルブームであるらしい。 それは、人類がまだネアンデルタール人であったころの、洞窟の中で焚き火を囲んで語り合っていたときの記憶だろうか。 われわれ現代人はなぜかくも「ほっこり癒される」という体験を欲しがるのだろう。 …

現在の世界のとどまるところを知らない競争社会化が人々の心をむしばんでいる、という意見は多い。 世界は病んでいる、と。 そこで多くの良識派がなんというかといえば、「健全な競争社会」にしなければならない、という。 いや、そうじゃないだろう。 「健…