2011-12-01から1ヶ月間の記事一覧

いまどきの大人たちは、いまどきの若者は無能でみじめな境涯で生きている、と決めつけている。 しかし若者たち自身は、大人たちがいうほど無能でもなければ、みじめな思いでいるわけでもない。 今の大人たちは自分たちが思うほど魅力的でも思慮深くもないし…

人と人が親密に関係するとき、「この世界にあなたが存在すること」に対する癒しや希望がはたらいている。どんなにくだらないことを語り合っていても、どこかしらでそのように心が響き合っている。 しかしまあ、世の中が平和で豊かになれば、そういうせっぱつ…

いまどきは「いかに生きるべきか」というハウツー本ばかり流行っている。よほどみんな退屈しているのだろう。 「生きられるかどうか」と追いつめられていたら、そんなことを考えている暇はない。 近代は、そういう退屈している人種を数多く生み出した。頭が…

未来に対する「予測」とか「計画性」とか、こういう言葉が僕は大嫌いなのだ。こういう能力によって人類は進化してきた、などといわれると、むちゃくちゃ腹が立つ。そこに人間の本性がある、とか、現在の古人類学の研究者なんか、みんなしてそんな程度の低い…

マッチもライターもない原始人が火をおこすということは、けっしてかんたんなことではない。よくそんな難しいことを覚えられたものだと思う。それほどに火をおこしたいという思いが切実だったのだろう。 オリンピックの聖火ランナーの風習は、原始時代から古…

近ごろ、30代40代の独身女性たちが、せっせと「婚活」に励んでいるらしい。「いい女」という自分の価値で、それに見合う「いい男」を買おうと物色しているらしい。 しかし、いまさらその歳に見合う「いい男」を探しても、そんな男はすでに結婚していて、…

人間を生かしているのは、何を「獲得」するかではなく、どのように「癒される」か、という体験なのではないだろうか。 直立二足歩行の起源を語るとき、決まって「そのとき原初の人類は何を獲得したか」というパラダイムで語られる。そうやってどの仮説も、ぜ…

日本人は、だめになってしまったのか。 僕には、よくわからない。 ただ、ちょっと弱ってしまっている、という気配はあるのかもしれない。 だから、「萌え」とか「癒し」というような体験を欲しがる。 草食系男子とかニートとかフリーターとか引きこもりとか…

猿の社会は、競争社会である。力の強いものが勝つ……極めて明快で健全な競争社会だ。横並びに競争する。だから彼らは、基本的に「正面から向き合う」という関係を持っていない。戦うか、屈服させるか、屈服するか、そういう不測の事態として向き合う。 しかし…

「フェアな競争社会」など、人間にとっては苦痛なのだ。人間は、他者と競争しようとする生き物ではなく、他者と向き合おうとする生き物だ。 他者と向き合うことによって、二本の足で立つという姿勢を獲得していったのであり、猿だって二本の足で立ち上がるこ…

人間は、生きることがしんどい状況に身を置いて、そこから「ほっこり癒される」体験(カタルシス)を汲み上げてゆくという習性を持っている。 安全・安楽が欲しいのではない、「ほっこり癒される」カタルシスを汲み上げたいのだ。つまり、しんどいことが消え…

今年の冬は、ますますキャンドルブームであるらしい。 それは、人類がまだネアンデルタール人であったころの、洞窟の中で焚き火を囲んで語り合っていたときの記憶だろうか。 われわれ現代人はなぜかくも「ほっこり癒される」という体験を欲しがるのだろう。 …

現在の世界のとどまるところを知らない競争社会化が人々の心をむしばんでいる、という意見は多い。 世界は病んでいる、と。 そこで多くの良識派がなんというかといえば、「健全な競争社会」にしなければならない、という。 いや、そうじゃないだろう。 「健…

5万年前、北ヨーロッパのネアンデルタール人には、北ヨーロッパで暮らすことの流儀があった。 同じころ、アフリカのホモ・サピエンスには、アフリカで暮らすことの流儀があった。 その流儀の違いを無視して、知能さえ発達していればどちらで暮らそうと勝者…

たがいの身体のあいだの「空間=すきま」を祝福し共有してゆくこと、これが、直立二足歩行の開始以来の人と人の関係の基本のかたちである……と、このページでは繰り返し書いてきた。 空間を祝福するとは、空間がふくらむこと。どうやら人間は、そういう空間感…

ネアンデルタール人の社会に宗教はあったのか。これも、気になる問題であり、空間意識の問題でもあるのかもしれない。 彼らに、「あの世」という意識はあったのか。 人間は、「非存在の身体の輪郭」を強く意識している。したがって、「非存在」の「他界」の…

貨幣の根源的な機能は、「等価交換」にあるのではなく、「流通性」にある。 人々のあいだを行き交うから、お金なのだ。等価交換であろうとあるまいと、そんなことはどうでもよい。 貨幣の起源において、等価交換という機能はなかった。 といっても僕は、経済…

ネアンデルタール人もクロマニヨン人も、交易(=物々交換)などしていなかった。 物々交換などという行為は、氷河期が明け、共同体が生まれて人々の意識が変わり、それからの話ではないだろうか。 「交換」という行為自体が、けっしてかんたんではない。猿…

人間は身体の「孤立性=完結性」をことのほか切実に持っている。これが直立二足歩行の起源において獲得された空間意識だ。 そしてその「孤立性=完結性」は、集団の中ではじめて確認される。人間はそれを確認したいからこそ、それが確認できるかどうかの限界…

人間の集団性が本格化してきたのは、数十万年前のネアンデルタール人のころからである。 彼らは、物理的な空間だけでなく、たがいの身体のあいだの空間に音声を投げ入れ合うという行為、すなわち「言語」を発達させることによって、さらに密集してもたがいの…

このブログでは前回、われわれは「身体は勝手に動く」という直感を持ってしまいがちだがそれは違う、と書いた。 そして、意識が発生することも身体が動くことも「空間がある」ということが前提になっている、といったのだが、それは「直感」以前の問題だ。 …

生き物の身体は、先験的に空間との関係の中に置かれて存在している。この関係を携えて意識が発生する。 意識がなくても身体は動くか?つまりわれわれの身体は、意識とは無縁に動く仕組みを持っているのか? そういう仕組みを持っているように感じられる。身…