人間を生かしているのは、何を「獲得」するかではなく、どのように「癒される」か、という体験なのではないだろうか。
直立二足歩行の起源を語るとき、決まって「そのとき原初の人類は何を獲得したか」というパラダイムで語られる。そうやってどの仮説も、ぜんぶ穴だらけの説得力のないものになってしまっている。
原初の人類が直立二足歩行によって獲得したものなど、ひとまず何もないのだ。
そのとき人類は、多くのものを失った。歩行の安定性とか、動きの俊敏さとか、外敵の攻撃から胸・腹・性器等の急所を守ることとか、これらの能力をすべて失った。
ただもう、二本の足で立ち上がれば他者と体をぶつけ合わないですむという「癒される」体験があっただけなのだ。
生き物が生きるためには、そういう「癒される」体験こそもっとも必要なのであり、それがないとわれわれは生きられないのだ。
「何かを獲得する」ことによって生き物は生きているわけではないのだ。
人類7百万年の歴史のうち、最初の3〜4百万年は、身体も知能も、まったく進化していないのである。その間人類は、猿よりももっと弱い猿として辛うじて奇跡的に生き残ってきただけである。手を使うことを覚えて知能が発達したとか、そういうアドバンテージはすべてそのあとから生まれてきたにすぎない。
世界中のどの研究者も、人類史におけるこの「空白の数百万年」をきちんと説明しきれていない。
そりゃあ、そうだ。「何を獲得したか」というパラダイムで語っているかぎり、説明できるものなど何もないのだ。
上に「奇跡的」と書いたが、生き物は、強ければ必ず生き延びるわけではないし、弱ければ必ず滅びるとはいえないのだ。
弱い猿だったからこそ生き延びた、とも言える。
生き物を生かしているのは、何かを「獲得する」体験ではなく、「癒される」体験なのだ。
われわれは、古人類学を語るパラダイムを根底的に変更しなければならない。
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ネアンデルタール人は、氷河期の北ヨーロッパに住み着いていったことによって何を獲得していったか、と問うべきではない。そんな厳しい環境に住めば、多くのものを失うし、しんどいに決まっている。
それでも彼らはそこで、深く癒されるカタルシスを体験していたのだ。その体験が彼らを生かしていたのであり、そこが問われなければならない。
たとえば、彼らが火を使うようになった契機は、暖をとるためとか肉を焼くためとか、そんなメリットが想定されていたのではない。すでにそんなメリットを知っていたら、すでに使っている。これは論理矛盾だ。火を使うことを覚えるよりももっと早く火を使っていた、といっているのと同じではないか。
五十万年前の彼らの先祖は、火を使うことを知らないままそこに住み着いていたのだ。そこに住み着くために火を使うことを覚えたわけでも、火を使うことを覚えてそこに住み着いていったのでもない。
そのころの人類の体はまだ体毛に覆われていたから、体を寄せ合って暮らしていればなんとか生き残ることができたし、生肉をかじっているだけでも生きられる体質だった。
火を使うことを覚えたのは、暖をとることとも肉を焼くことも関係ないのだ。彼らはそんなことをしなくても生きることができた。
それでも、火を使うことを覚えていった。
それは、火によって癒される体験があったからだ。
寒ければ、みんなが寄り集まって暮らすようになってゆく。彼らはそうしないと生きられなかったが、密集状態の中に置かれることのストレスも大きくなってくる。そうなれば、いさかいなども起きて人間関係がぎくしゃくしてくる。
腹が立ったり、ヒステリーを起こしたり、むやみに興奮したり、今でも「集団ヒステリー」などということがいわれたりするが、ネアンデルタール人は、そういう集団ヒステリーのような死をもいとわない大型草食獣の狩をしていた。
であれば、火によってそうした日常の騒がしい気持ちが鎮められる体験をすれば、それをいとおしむようになってゆくだろう。
そういう体験として、「みんなで焚き火を囲む」ということを覚えていったのだ。
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自分たちの住居のそばで山火事が起きれば怖いだろうが、遠くの山火事を眺めているぶんには、なんだか「きれいだなあ」と思ってしまう。
山は、どっしりとして動かない。威圧感がある。人間の行く手を阻んでいる。しかし燃えてゆらゆらしていれば、その圧倒的な物質感が消えて、ふくらんでゆく空気のかたまりのような気配が生まれてくる。
生き物は、物質感が消えてゆくことに癒される。
木が燃えれば、木の物質感が炎となって消えてゆく。原初の人類は、そのことにときめき癒されていった。
腹が減れば、その身体の物質感が鬱陶しい。そして物を食えば、なんだか体やわらかくなったようで、やがて体のことを忘れてしまう。体が消えてしまう……これが、「癒される」ということのもっとも基礎的な体験であろう。
人の心は、「空間性」に癒される。
「燃える=萌える」というやまとことばは、語源的には、「空間がふくらんでゆく現象」というような意味の言葉である。
人間は、「燃える」という現象、すなわち「火=炎」に対して、もとの物の物性が消えて「空間」としてふくらんでゆくようなニュアンスを感じる。そこに癒され、「きれいだなあ」と思う。
山火事で拾ってきた燃える木をみんなでとり囲んで眺めていれば、なお鮮やかにその「空間性」を感じるだろう。
そうして、自分の中の騒がしい気持ちが鎮まってゆくのを感じる。
人類が火を使いはじめたのは、ネアンデルタール人の20〜30万年前ころからだろうといわれている。その契機になったのは、集団の密集状態が進んで、人々の気持ちが不安定で騒がしくなっていったことにある。
くっつき合っていないと生きられないという彼らの生の条件から生まれてきたのだ。
べつに暖をとるためでも肉を焼くためでもない。そういうことは、火を使うようになってから覚えていったことだ。火を使う前に、それで暖をとれるとか肉を焼くことができると知っていたはずがない。知っていたら、火を使う前に火を使っていたさ。
彼らがそこで発見したのは、火によって「癒される」という体験だった。
人は火によって癒される、これこそが根源的な契機だったのであり、この「癒される」という体験がなければ人は生きられないのだ。
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山火事で焼けてしまった動物を見つけ、食ってみたらうまかった……一般的には、そんな説明がされる。
しかし、食ったことがないのなら、食おうとなんかしない。
いい匂いがした、などといっても、食ったことがあるから「うまそうな匂いだ」と思えるのであって、食ったことがない段階では、変な匂いだ、と思うだけだろう。
山火事のそばに行けば暖かいではないか、という理屈もある。しかし彼らは、火で暖まらなくても生きていられたのである。だから、火で暖を取ろうという発想は生まれてこない。暖をとるために火を使いはじめたのなら、一日中火から離れない生き物になってしまったことだろう。
暖をとる、という必要のない段階で、火を使いはじめたのだ。
暖をとるために火を使いはじめたのではない。火を使うようになってから、火で暖をとることを覚えていっただけのこと。
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猿の体温は、人間より2,3度高い。
西洋人の体温も、日本人より1度くらい高い。
20〜30万年前に火を使いはじめた北ヨーロッパの人類も、寒冷地に適応した体質を持っていた。それに、体毛という衣服もまだ残していた。
彼らは、火で暖を取らなくても生きてゆくことができた。その時点で、火を使いはじめたのだ。
50万年前に氷河期の北ヨーロッパに住み着いた人類は、最初の20〜30万年間を火を使わないで生き残っていった。だったら当然、その間に、はじめよりももっと火を使う必要のない体になっていったはずである。
差し当たって、火で暖をとる必要はなかったのだ。
それでも彼らは、火に魅せられていった。
火を使う必要があったのではなく、火に魅せられ火に癒されたのだ。ここのところが問われなければならない。
だから僕は、「下部構造(経済)決定論」では歴史は語れない、というのだ。
何を獲得したかではなく、何に癒されたか、なのだ。そういうかたちで人間は生かされてある。
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暗闇の中に光があらわれることのときめきは、たしかにある。火を使いはじめた契機としては、もしかしたら暖をとることよりもこちらの方がずっと確かな契機になっているのかもしれない。
布団に入って目をつぶっているときとか、闇の中でじっと目を凝らしているとき、そこに無数の光がちらついているのが見えたりする。人間の目はそういう錯覚をする。火は、そういう錯覚体験の具現化である。
闇の中に火=光が浮かび上がっていることのときめきがある。
ロンドンや北ドイツなどの高緯度地方の冬の夜は長い。火を知らない原始人が夜に行動することはできない。冬になれば、闇の中にじっと身を潜めている日々が続く。
原初の人類は、氷河期の北ヨーロッパに住み着いたことによって、はじめて冬の夜長と闇の深さを体験した。そうしてそんな日々の中で、闇の中に光が浮かび上がることに対するときめきを体験していった。
人類は、深く闇を見つめたことによって、光に対するときめきを体験していった。
これが、火の使用の起源なのだ。
現代のヨーロッパ人は、日本のようにむやみに夜の街を明るくしようとすることはしない。それは、彼らがキャンドルや暖炉の文化を持っているからであり、それだけ闇の中に浮かび上がる「光=火」を大切にしようとする意識が切実だからだろう。それはおそらく、高緯度地方に暮らしている人たちのネアンデルタール以来の伝統なのだ。
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現代人がキラキラ光る金や宝石が好きなのも、火の使用の起源からはじまっているのかもしれない。
金や宝石を獲得する喜びという以前に、根源において金や宝石にときめき癒される体験があった。そのときめき癒される体験こそが、歴史の起源の契機になっている。
「獲得」するよろこびや満足が歴史をつくってきたのではない。これは、何度でも言いたい。
お願いだからもう、そういう嘘くさいパラダイムで歴史を語るのはやめにしてほしい。
そのよろこびや満足は、獲得してはじめて体験されることだ。獲得してみないことには、よろこびや満足が体験できるかどうかなどわからない。したがって、根源的には、獲得しようとする衝動もよろこびや満足を得ようとする衝動も起こり得ない。そういうことは「結果」として体験されるのであって、「契機」にはなり得ない。
「契機」はつねに「いまここ」の世界や他者に対する「反応」として起きている。
何が欲しかったのでもないが、ともあれ原初の人類は、闇に浮かびあがる火にときめき癒されたのだ。
そういう「いまここ」に対する「反応」としてのときめき癒される体験が人を生かし、歴史をつくってきた。
現代の若者たちの「かわいい」というムーブメントだって、そういう根源的な体験として起きているのであり、だから普遍性を持って世界中から「ジャパンクール」としてもてはやされている。
彼らは、「かわいい」とときめいているのであり、「いまここ」に「反応」して生きている。いいかえれば人類はもう、そうやって根源を生きるほかないところまで追いつめられているのかもしれない。
とはいえ20〜30万年前のネアンデルタール人だって、そのとき何かから追いつめられていたから火の使用をはじめたわけで、人間はもともと「追いつめられる」というかたちで生きている存在であるのかもしれない。
追いつめられて、ときめき癒される体験をする。人間の文化は、そうやって生まれてきたのだ。
いまどきは「人はどのように生きるべきか」というハウツー本ばかり流行っているが、そんなことより「人はどのように癒されるか」と問うところに人間の「生きられる意識」のかたちがあるのではないだろうか。
人類は「どのように生きるべきか」と考えて歴史を歩んできたのではない、「生きられるかどうか」と切羽詰まって歴史を歩んできたのであり、そこから文化が生まれてくるのだ。
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