近ごろ、30代40代の独身女性たちが、せっせと「婚活」に励んでいるらしい。「いい女」という自分の価値で、それに見合う「いい男」を買おうと物色しているらしい。
しかし、いまさらその歳に見合う「いい男」を探しても、そんな男はすでに結婚していて、「売り切れ・在庫なし」の状況なのだとか。
自分の「いい女」という価値と見合う「いい男」を探そうとする、このいかにも資本主義的な「等価交換」の思想。金の世の中に骨の髄まで毒されてしまっているから、もはやそんな「等価交換」しかイメージできない。
結婚したいのなら、誰でもいいじゃないの。とりあえず目の前にいる男と一緒になればいいだけじゃないの。
どうしてそんなふうに気合を入れて探し回るということができるのか、僕にはわからない。
人類史上、女自身がそんなふうにあくせく男を探し回るというような時代はなかった。まわりが見つけてきて「これにしなさい」という時代はあったらしいが、基本的に女はそうそう男の選り好みする人種ではなかったはずである。
男が好きだからではない。とりあえずこの家から出てゆきたいとか、自分がこの世に生まれてきてしまったことに始末をつけてしまいたいという自己処罰の衝動とか、そんなことが契機になったのだろう。
基本的に男なんか誰でもいいという思いで結婚するのだろう。それは「自己処罰」だから、つまらない男が相手だって、何かのはずみでその気になってしまう。
女にとってセックスすることは、ひとつの「自己処罰」だろうと僕は思っている。だから、あんなにも息も絶え絶えのあえぎ声を発する。少なくとも、べつに自分が「いい女」であることを確認する行為でもないだろう。
人間にとって結婚なんて、一種の「自己処罰」なんじゃないの?女はとくにそうなんじゃないの?
だから、「見合い結婚」とか「政略結婚」とか「娼婦」だとか、そういう制度が成り立った。
女は「娼婦」という存在になることができる。そのことに対する敬意とか誇りというものが、「婚活」女にはないのだろうか。
何はともあれ人類は、目の前にいる相手を見つくろって結婚してきた。これが、人類普遍の結婚の原理だ。世の中のさっさと結婚してしまっている男女はみなそうしてきたのだ。いまどきの「婚活」にがんばっている人たちは、どうしてそのことに対する敬意が持てないのだろう。そうやってさっさと結婚した男女を軽蔑しているのだろうか。
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「この歳だからべつにもう理想の結婚を夢見ているわけではない」という。そのくせ自分の「いい女」ぶりと等価交換したいという望みはけっして手放さない。理想の結婚を夢見るより、そちらの方がよほどたちが悪く通俗的だ。
結婚すれば失うことばかりだ。失うことを恐れたら、結婚なんかできない。何もかも失ってさっぱりすることが結婚することかもしれない。
失うというか、そのとき人は何かを捨てるのだ。そういう生き方を、女は本能的に持っている。女のそういう決意なしに結婚なんか成り立たない。
男だって、俺がいい男だから女が嫁にきた、などと思うべきではない。女はそのとき、人生にけりをつけたのだ。
あなたたちは、女が本来的に持っているはずの、そうした「潔さ」が欠落しているから、今ごろになって「婚活」をしなければならないのですよ。
僕の知り合いにも、「結婚したい」とか「子供が欲しい」といいながらぐずぐずと独身を続けている40代の男がいる。
結婚というのが等価交換だと思っているから、どうしても踏み切れないし、女に身も世もなく惚れられるということもない。
それは、自分の魅力と相手の魅力を等価交換することではない。相手を獲得することではなく。自分を捨てる体験なのだ。若いうちにさっさと結婚していった女たちは、みんなどこかしらでそういう決断している。
まあ「婚活」というのは、住み心地のいい部屋探しのようなものかもしれないね。おりこうな人たちは、そうやってせいぜいじっくり吟味すればいい。
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人類史において、新しい文化が生まれてくる契機は、何かを獲得しようとする衝動が起こってくるからではなく、追いつめられて「癒される」という体験をするからだ。そういう世界=状況に対する「反応」として新しい文化が生まれてくる。
結婚するとは、いい男を見つけることではなく、「これでいい」と決断することだ。そう決断できるような癒される体験があればいい。
普通は、生まれ育った家からの脱出として結婚する。それに対してこぎれいなマンションに10年もひとり暮らしを続けているのなら、いまさら結婚なんかしてもしなくてもいいという状況になってしまっている。
家の外の人間と出会ってほっとするという体験がないのなら、なかなか結婚に踏み切れない。「家の外に出る」とは、生まれ育ってきた自分の人生にけりをつける、ということだ。若くしてさっさと結婚していった女たちはみな、どこかしらでそういう体験をしている。
生まれ育った家や自分に愛着があるのなら、なかなか結婚に踏み切れない。したがって「男女別姓」という制度は、結婚の自己矛盾であるといえるのかもしれない。
現在の「婚活」ブームの当事者たちの、その意地汚く相手を吟味=査定ばかりしている傾向は、人類史において「何かを獲得したい」という衝動がいかに新しい文化が生まれてくることの根拠になり得ないかということのみごとな証明になっている。
10回も20回も婚活パーティに出ているなんて、異常だよ。いつも断られるのならそれもしょうがないけど、なんだかもう、婚活そのものが目的で、結婚なんかじつは望んでいないのではないか。
けっきょく戦後の核家族のいびつな思想が、このような「婚活族」を生み出したのだろうか。彼らは、結婚したい気持ちとしたくない気持ちを行きつ戻りつしながら、あれこれ相手を吟味(査定)し続けている。
家族という空間がいかに鬱陶しいかということをちゃんと体験してないのだろうか。いや、心情的には体験しているのだけれど、観念的に、家の正当性を止揚するこの社会の合意に人々の心が縛られてしまっているのだろうか。それが「男女別姓」という制度だろう。
むかしは、どんな政略結婚だろうと、女は、生まれ育った家を出てほっとする心があったのではないだろうか。
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「退屈」しているから、「何かを獲得したい」と思ってしまう。この世界や他者に体ごと反応していれば、そんなことを考える暇はない。反応しないで、ああだこうだと吟味ばかりしているから退屈する。
何が獲得したいか、ではない。「反応」せずにいられない切羽つまったものを心の底に抱えているのが人間の根源的なありようなのではないだろうか。
何かを獲得したいと思って婚活するなんてブサイクなだけだ。自分や自分の人生にけりをつけてしまいたいと追いつめられているものが、世界や他者に豊かに「反応」し、それが結婚の契機になるのであり、人類史における新しい文化が生まれてくる契機になったのだ。
人間は、いつの時代であれ、そういう追い詰められたものを抱えて存在しているのだ。
「婚活」に精を出してあれこれ男を吟味しているより、なりゆきまかせの「できちゃった婚」の方がよほど気がきいている。
原初の人類が直立二足歩行をはじめたことにしろ、火を使うことを覚えたことにしろ、まあ「できちゃった婚」みたいなものさ。
人間は、あと先のことをかえりみず避けがたく「いまここ」のこの世界や他者に深く豊かに「反応」してしまう生き物であり、そこから新しい文化が生まれてきたのだ。
「未来に対する計画性」によるのではなない。そんなスケベったらしい査定したがりの「婚活」にうつつを抜かしているなんて、何か変だ。人間はほんらい、そんな「おりこうさん」ではないのですよ。
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