「エンドレスの哀歌」…山上徹也とひろゆきとロストジェネレーション

先日暇空茜という人が、ツイッターで「仁藤夢乃のコラボというNPO団体は、東京都からの補助金を不正に流用している」と騒ぎ立てたのだが、監査の結果、特に不正はなかったらしい。

そりゃあ経理上の細かいミスの二つ三つはあるだろうが、そんなことはどんな団体にもあることで、不正というほどのことではない。

まあそんなことは東京都がちゃんと指導したり周りの支援者がサポートしたりすればいいことで、仁藤夢乃の主たる責務ではない。

彼女の、家出をしてきて夜の街にさまよう若い娘たちに援助の手を差し伸べるというその活動に第一義的に必要なものは、理念と心意気であり、そういう娘たちを性的に消費しようとする下品なオヤジたちは許さないという正義感というかファイティングスピリットだろう。

 

暇空茜やひろゆきやあまたのネトウヨたちがなぜなぜそんなにも仁藤夢乃を攻撃するかといえば、彼女が生意気な女であり、性的に消費されやすい弱い存在である若い娘たちを助けようとしていることにあるらしい

それは、資本主義や近代合理主義などのすなわち今どき優生思想的コスパ主義という社会の流れに反する行為であると同時に、それを扇動する現在の政権与党にたてつく行為でもあるのだ。

 

現在のネット社会で暇空茜やひろゆきが正義ぶって悪目立ちしていることは、この社会が病んでいることの表れであり、彼らのような人間がたくさん生み出されているということを意味する。

現在のこの国がろくでもないということは、日本文化の伝統や人類史の伝統すなわち人間性の本質から逸脱してしまっているということであり、そうやって社会や集団の動きや人々の心が停滞してしまっているのだろうし、その停滞に付け込んで暇空茜やひろゆきをはじめとする多くのネトウヨ文化人がのさばっている。

彼らは、現在のこの国の魑魅魍魎であり、コスパ主義の俗っぽい妖怪だらけの世の中になってしまっている。

彼らはこの世界を俯瞰して眺めているアウトサイダーのふりをしているが、じつはこの世界にべったり寄生している単なるインサイダーでしかないのであり、彼らにたてついてもみくちゃにされている仁藤夢乃や仲間の家出むすめたちの方がはるかに本格的なアウトサイダーだと思える。

 

家出とはひとつの異世界転生であり、異世界転生は人類普遍の願いなのだ。

 

女三界に家無しというように、女は存在そのものにおいてアウトサイダーであり、アウトサイダーであることによって、避けがたく現実社会に幽閉されてしまっている男にとってはすべて存在そのものにおいてめんどくさい対象なのだ。

暇空やひろゆきをはじめとするミソジニーの男たちは仁藤夢乃のようなめんどくさい女は嫌いだというが、この世にめんどくさくない女などいないのであり、めんどくさい対象であることによって女は魅力的なのだ。

 

アウトサイダーとは、この世界の外に立っている者のこと、すなわち死者からの視線を持っているということだ。

まあ現在のこの社会は病んで停滞しているからこそ、そこに付け込んで甘いお汁を吸おうとする暇空茜やひろゆきのような人種が生まれてくるし、その病んで停滞している状況を告発しようとする仁藤夢乃のような人間も登場してくる。

そしてあの山上徹也だって、死者からの視線の上に立ってそういう状況を告発しようとして安倍晋三を銃撃したのだ。

 

山上徹也は、この病んだ状況において、暇空茜やひろゆきをはじめとする今をときめくインフルエンサーたちの対極に立つ存在である。

ある人が、山上徹也のキャラクターについて考える上でのキーワードとして、「エンドレスの哀歌」」と「因果応報の理(ことわり)」という二つの言葉を挙げている。

なるほどそうだなあ、と僕も思う。

で、この二つの言葉の意味するところについて考えてみたい。

 

まず、「エンドレスの哀歌」について。

やまとことばとしての「かなしみ=かなし」は、親しい他者の死に際して深い喪失感を抱いたところから生まれてきた言葉である。

「か」は「カッとなる」の「か」で、気持ちがこみあげてくることを表している。

「な」は「なあ、お前」の「な」で、親密な感慨を表す。

「し」は「静か」」の「し」で、「しみじみそう思う」」という感慨を込めた形容詞の語尾。

というわけで「かなし」というやまとことば、深い愛着と喪失感を同時に表している言葉である。

 

そして山上徹也もまた、そうした深い愛着と喪失感をエンドレスで抱きながら生きてきた人にほかならない。

世間ではよく「ロストジェネレーションの不遇」ということが取りざたされ、山上徹也もその被害者のひとりであるといわれているが、それが彼にああいう行動を起こさせた第一義的な要因だとは言えない。

 

彼はすでにみずからの不遇を受け入れていたのであり、そのことの絶望やルサンチマンから安倍晋三銃撃を計画したのではない。

彼はあまりにも深く父や兄の死を嘆き、その喪失感から逃れられなかった。

そうしてその喪失感を振り払って自分の人生の建設に歩みだすということができなかった。

 

彼の心は、すでに死者とともにあった。

統一協会に人生をめちゃくちゃにされた母親だって、彼にとってはすでに死者の世界にいる対象だった。そうやって彼は、彼をネグレクトして育てた母を恨むのではなく、深く愛していた。

それが、彼の「エンドレスの哀歌」だった。

そして彼にとって母を愛することは、統一教会を許さないと決意することだった。

 

次に「因果応報の理(ことわり)」ということ。

統一教会は、先祖供養という因果応報の理屈で山上の母親を洗脳し、1億以上の金を巻き上げ、その精神も人生も破壊してしまった。

したがって山上だって、因果応報という思案は、表面的にも潜在的にも常に付きまとったに違いない。

また因果応報は、日本文化の伝統であり、日本人なら誰もがそのことを潜在的に意識している。

 

罪を犯した者は、死者の怨霊によって裁かれねばならない…これが日本的な倫理観の通奏低音であり、統一教会安倍晋三は、統一教会を恨んで死んでいいた祖父や兄によって報いを受けなければならない、と山上は思った。

 

たとえば古事記日本書紀を編纂した大和朝廷の権力者たちは、われわれの祖先は神であると名乗っているわけだが、それは、彼らの祖先が朝廷内の権力闘争でさんざん政敵を殺してきた歴史の、そのうしろめたさを覆い隠すためのものでもあった。

平安時代における御霊信仰は、現世に災厄をもたらす平将門菅原道真の怨霊を鎮めるためのものだったし、中世の能の物語の主題の多くは死者の怨霊を鎮めるということにあり、そこから江戸時代の四谷怪談や番町皿屋敷などの物語が生まれてきた。

そして現在まで続く精霊流しもまた、ひとつの先祖供養にほかならない。

 

柳田国男は日本的な信仰の基礎は先祖供養にあるといっているし、統一教会はそこに付け込んで信者をたぶらかして大金を巻き上げ、安倍晋三はその活動に積極的に加担していった。

まあ統一教会の先祖供養という教義のあくどい呪縛力には、日本列島のそういう歴史が重くのしかかっている。

 

暇空茜やひろゆきやメンタリストダイゴもホリエモンや三浦瑠璃などの今をときめくインフルエンサーという名の悪霊たちはみな不思議なことにロスジェネ世代であり、そういう栄耀栄華を謳歌する勝ち組と出口のないトンネルの中で不遇をかこつ負け組のものたちとに、見事に両極化している。

俗物のインフルエンサーとして社会状況に寄生しつつ栄耀栄華を謳歌しているロスジェネと、負け組として途方に暮れながら心が社会の外にさまよっているロスジェネ。前者は、後者を差別し軽蔑し、自業自得だと排斥している。

 

勝ち組のものたちが共有している加速主義的新自由主義的思想は、生きられない弱いものは全部消えてしまえばいい、そうなれば世界はもっと良くなる、という。

そりゃあ勝ち組のものたちは社会がどんなに衰退しようと自分の人生は安泰だろうが、それによって今にも死にそうな弱いものたちを見捨ててしまっていいのか。彼らにはそういうことに対する想像力がない。情がない。愛がない。その冷酷で薄っぺらなニヒリズムに、人間であることの真実や本質があるのだろうか。

彼らは人間に対して鈍感だし、物事の表面をなぞるだけで、深く考えるということができない。

 

それに対して負け組のひとりである山上徹也の思考力や愛は、勝ち組のインフルエンサーたちよりもはるかに本格的で深く豊かだ、と僕は思う。ヒューマニズムというか人間性の本質は、負け組の彼らによって回復されるに違いない。人が人であることの真実は、彼らのもとにこそある。

われわれは、山上徹也のあの事件によって、人間とは何かとか社会とは何かとか日本人にとって宗教とは何かというような問題を改めて考えさせられたのではないだろうか。

 

ボブ・ディランは、「時代は変わる」という歌の中で「一周遅れのランナーこそがじつは先頭を走っているのかもしれない」と歌ったが、時代から置き去りにされて時代の外に立たされている者こそ、じつは時代をリードしているのかもしれない。

 

暇空茜やひろゆきホリエモンや三浦瑠璃などの今をときめくインフルエンサーたちは、時代をリードしているのではなく、時代に寄生しているだけなのだ。

新しい時代に分け入ってゆくということは、今の時代の外に出るということだ。

時代に置き去りにされて途方に暮れている者こそ、新しい時代を見ている。

山上徹也がなぜ安倍晋三襲撃の計画に熱中したかといえば、安倍晋三の死の向こうに新しい時代の気配を感じていたからだろう。

 

われわれは今、この病んで停滞した時代の中で、健康な人間性の回復を願っている。人々がいがみ合い対立する社会の中で、誰もが他愛なくときめき合う社会の到来を待ち望んでいる。たとえその実現が百年先千年先であろうと、われわれは待ち望んでいる。われわれは、永久に待ち望み続けてゆくのだ。

 

あの連中は、生きられない弱いものたちが存在しない世界を想像する。なぜなら生きられない弱いものたちは、自分が生きてゆくうえで足手まといだからだ。そしてそれはダーウィンのいう「自然淘汰」の論理に似ているし、近代合理主義に通じる今どきのコスパ主義の論理でもある。

つまり彼らは、未来を展望しているのではなく、現在に寄生しているだけなのだ。

 

それに対して山上徹也は安倍晋三がいない世界を想像したわけで、それは生きられない弱いものたちが生きられる世界であると同時に、この世界の外の世界だった。

人は根源において「異世界転生」を夢見ているし、人類の歴史は「異世界転生」」を夢見ながら新しい時代を迎え、進化発展してきた。

暇空茜やひろゆきはこの世界に寄生し、山上徹也は異世界転生を夢見た。

とりあえずこれがこの論考の結論である。