マッチもライターもない原始人が火をおこすということは、けっしてかんたんなことではない。よくそんな難しいことを覚えられたものだと思う。それほどに火をおこしたいという思いが切実だったのだろう。
オリンピックの聖火ランナーの風習は、原始時代から古代にかけての人類にとって「火種を絶やさないこと」がいかに大切だったかを物語っている。いったん消えてしまったら、そう簡単にはおこせなかったのだ。
いったん消えてしまったら、隣の集落にもらいに行ったのかもしれない。もしかしたら最初は火をおこす技術などなく、どこかの山火事で拾ってきた火を、ネアンデルタール人全体で守っていったのかもしれない。これが、「聖火」の起源かもしれない。
それほどに火が大切で、それほどに火をおこすことが困難だった。
生肉をかじってでも生きられるのなら、わざわざ肉を焼くために火をおこそうともしないだろうし、おこそうとしてもすぐあきらめてしまう。それほどに困難な技術のはずである。
火で暖を取らなくてもなんとか生きられるのなら、どうしてもそのために火を起こさねばならないという気にはならないだろう。
しかしそのときネアンデルタール人は、なんとしても火をおこしたかったのだ。火をおこさないと生きられないくらいに追いつめられていたのだ。
何に追いつめられていたかといえば、肉を焼いて食うとか暖をとるとか、そういう「経済」の問題ではなかった。
氷河期の北ヨーロッパという厳しい環境で暮らす彼らは、さまざまな意味で激情家だった。生活習慣も人間関係も激情家にならないと生きられなかった。しかし一年中興奮しっぱなしでは精神の平衡を保てなくなり、人間関係もぎくしゃくしてくる。彼らは、みずからの激情に追い詰められていた。
そんなときに、火がその激情を鎮め、人と人の関係を親密なものにしてくれることに気づいていった。
そうして、火に対する親密な思いがどんどん深くなっていった。
闇の中に浮かび上がる火の輝きに癒される体験が、人類史における火の使用の起源の契機になったのだ。
それが暮らしに便利だから火の使用をはじめたのではない、火そのものに対するどうしようもない親密な感情がわいてきたからだ。
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はじめは、みんなで火を囲んでいることに癒される体験があった。
壁画の起源だって「癒される」体験だったのだ。研究者たちはもう、何を目的に描いたのかというようなことばかり言っているのだが、そういうことではないのだ
最初は「画家」がいたわけではないだろう。みんなが洞窟の壁にらくがきすることに癒される体験をしていったのだ。絵を描くという行為は、人の心を癒す効果がある。幼児は、そうやってお絵描きをはじめる。
人々が記念碑として残しておこうと思うような巧緻なバイソンの絵が生まれてくるまでには、無数の描いては消しするらくがきの長い歴史があったにちがいない。そしてそのバイソンの絵は、宗教的な意味とか、狩の成功を約束するためとか、そんな目論見があったのではない。ただもうその絵を眺めて心が癒されたからだ。「うまく描けてるねえ」とみんなで感心して眺めることによって、心が癒され、人と人が親密になっていった。彼らが生きるためには、未来において何かを得ようとするような目論見よりも、「いまここ」の「癒される」体験の方がずっと大切だったのだ。
そしてそういうことは、われわれ現代人だってじつは同じのはずである。心の底では、みんなそういう体験を欲しがっている。
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まあ、絵よりも火の方がもっと根源的な「癒し」の体験をもたらしてくれる。
洞窟の中でみんなで火を囲んで語り合うことが習慣化すれば、やがてそれで暖をとることや肉を焼くことも覚えてゆく。
暖をとることを覚えれば、寒さに対する耐久力は落ちてくる。
耐久力が落ちれば、さらに寄り集まって暮らそうとするようになってゆくだろうし、抱きしめ合って体温の低下を防ごうとする行為も頻繁になってくる。
西洋では、夫婦はひとつのベッドに寝るし、男どうしでも抱きしめ合う習慣がある。それは、ネアンデルタール以来の伝統かもしれない。
たぶん、抱きしめ合って寝ないと、凍死してしまうのだ。
抱きしめ合えば、接触面の肌が敏感になって、体毛が抜けてゆく。体毛がない方が、体温は伝わりやすい。寒ければ、体毛は、体温よりも温度が低い。体毛の少ない方が、相手の体温を吸収する効率は良い。体が弱っていったん体温が下がっていったとき、抱きしめられて生き残る確率は、体毛の少ない個体の方が高い。
彼らは、火で暖をとることを覚えたことによって、寒さに対する耐久力を失っていった。
そうしていったん体温が下がっていった体は、抱きしめることによってしか温めるすべはなかった。抱きしめて温めるためには、体毛はむしろ邪魔だった。
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人間の体毛が抜け落ちていった根源的な契機は、おそらく二本の足で立ち上がりながら向き合って見つめ合うという関係をつくっていることのストレスにあるのだろう。人と人はその関係によって親密になったり癒されたりしているのだが、それは同時に、生き物として身体を危機にさらし合っている状態でもある。不安定な姿勢で立ち上がり、胸・腹・性器等の急所をさらし合っているのだから、ストレスにならないはずがない。人間は、そのストレスを支払って癒し合う関係をつくってゆく。
ストレス(嘆き)を共有してゆくことによって、癒し合う関係が生まれてくる。
人と人の親密な関係の底には、生きてあることの「かなしみ=嘆き」が共有されている。
二本の足で立って向き合い見つめ合う関係による、身体が危機にさらされているというそのストレスによって、体毛が抜け落ちていった。
つまり、人と人が正面から抱きしめ合うことは、もっともストレスフルな関係であると同時にもっとも癒される関係でもある、ということだ。
西洋人の見つめ合うまなざしはじつに濃密である。彼らにとっては、見つめ合うことそれ自体が抱きしめ合うことであるのかもしれない。
そしてその見つめ合うまなざしの濃さが、体毛を失わせる契機になった。
正面から向き合うという習性を持った人間は、根源的に他者に見つめられて存在している。そのストレスによって体毛が抜け落ちていったのだ。
氷河期の北ヨーロッパで暮らせば、体毛はあった方がいいに決まっている。それでも体毛が抜け落ちていったのは、見つめ合うという習慣がどんどん発達していったからだろう。相手をじっと見つめて相手の目(=存在)に憑依してゆけば、寒さに震えるみずから身体のことをいっとき忘れられる。
つまり、寒さに対する耐久力を失っていったことと引き換えに、西洋的な、濃いまなざしで見つめ合うとか抱きしめ合うという寒さを忘れる文化が発達したのだ。
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ネアンデルタール人は、抱きしめ合わないと凍死してしまう環境のもとで、この関係の文化を発達させていった。
体温を維持するためには体毛はあった方がいい。しかしいったん体温が下がってしまった体を抱きしめて温めるとき、体毛のない体の方がより確かにこちらの体温が伝わる。なぜなら、もともと体毛は外気を遮断するものだからだ。
抱きしめられて温まってゆかない体は、生き残ることができなかった。
冷たくなった衣装を着たままでは体温は上がらない。衣装=体毛は、体温よりも高い温度にはならない。だから現在でも、雪山で遭難したときなどに、裸で抱きしめ合って体温を上げてやるということをしたりする。
ネアンデルタール人は、火で暖をとることを覚えたことによって寒さに対する耐久力が弱まり、その結果としていつも抱きしめ合う文化を発達させていった。
火の前にいれば、冷え切った体が温まってゆく。しかしそういうことを覚えてしまえば、火のないところで体温が下がらないように踏ん張るという体の機能も弱ってゆく。
冬は暖房のきいた部屋の中で過ごす北海道の人と、冬でも炬燵なしで過ごせる沖縄の人とどちらが寒さに強いかといえば、あんがい沖縄の人の方なのである。一年中体温の上下動が少ない沖縄の人の方が、体温が下がらないように踏ん張る体の機能を残している。寒さで体温が下がってゆくという体験をしていないのだから、とうぜんである。
高緯度のヨーロッパ人の体温が日本人より1度くらい高いのは、それだけ体温が下がりやすい体質になっているからではないだろうか。もちろん、沖縄の人の体温よりも北海道の人の体温の方が平均して高いらしい。
それに、火で暖をとれば、必要以上に体温を上げることもできる。必要以上に体温を上げる習慣で暮らしているから、体温が下がりやすい体質になってしまう。
ヨーロッパ人は、体温が下がりやすい体質だから、抱きしめ合う習俗が発達した。
ネアンデルタール人が寝ていて凍死してしまわなかったのは、抱きしめ合って寝ていたからだろう。女が少ない集団であったらしいから、たぶん男どうしだって抱きしめ合って寝たのだろう。だからヨーロッパは、男色の文化が発達している。
火で暖をとることを覚えてしまえば、もう、そういう習慣になるほかなかった。
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以上のことから考えるに、「火で暖をとるために火を使いはじめた」という起源仮説は、極めて疑わしい。
火で暖をとる必要のない体なのに火を使いはじめ、その結果として、火で暖をとらないと生きられない体になっていったのだ。
そして、火で暖をとらないと生きられない弱い体になっていったから、体毛がより退化していったのだ。
体毛がなくても生きられる寒冷適応の体質が進んだからではない。寒冷適応の体質を失えば、体毛がない方が、かえって生き残る確率が高かったのだ。
50万年前に氷河期の北ヨーロッパに住み着いた人類は、寒冷適応の体質をしだいに失いながら、それを補う文明・文化を生み出して生き残ってきたのだ。
住み着いてから寒冷適応した体質になっていった、ということがあるはずないじゃないか。寒冷適応した体質を持っていたから住み着いていったのだ。持っていなかったら、そんなところに移住してゆきはしないし、移住したとたんに野垂れ死にだろう。
ネアンデルタール人は完全に寒冷適応していた、などとかんたんに言ってもらっては困る。彼らはその50万年のあいだに、少しずつその寒冷適応の体質を失っていったのであり、それでも彼らが生き残っていったのは、体質ではなく、文化によるのだ。
人間を生かしているのは、何かを「獲得する」体験ではなく、何かに「癒される」体験である。彼らはすでに獲得している寒冷適応の体質を失ってでも、闇の中に浮かび上がる火に癒されるという体験に浸っていったのだ。
何かを「獲得する」体験として文化が生まれてくるのではなく、何かに「癒される」体験として文化が生まれてくる。
「生きられるかどうか」と問うものは、「癒される」体験によって生きている。だから人は、闇の中に浮かぶ火に魅せられ、火を使うことを覚えていった。
「退屈」しているものが、何かを獲得しようとする。退屈している連中が、「人は暖をとるために火を使うことを覚えていった」と説明したがる。現代の資本主義社会は世の中全体が退屈しているから、そういう貧しい発想の仮説しかあらわれてこない。
しかしそれでも人は、誰もがどこかしらで「生きられるかどうか」と問うて生きている。
人間はどこかしらに、そういう切羽つまった心の動きを抱えているのだ。
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