北ヨーロッパの娼婦性・ネアンデルタール人と日本人・72


4〜3万年前以後、ネアンデルタール人の血の中にホモ・サピエンスの遺伝子が混入してゆくという現象は、ヨーロッパの北と南では、なぜか北の方が早かった。
これはちょっと不思議だし、アフリカ人がやってきて遺伝子をばらまいていったのなら、南の方からホモ・サピエンス化してゆくのが自然ななりゆきにちがいない。
ヨーロッパの南、すなわち地中海沿岸のスペインやバルカン半島あたりで最後期のネアンデルタール形質の骨が発見されている。
もしもアフリカ人がバルカン半島から入ってきたのなら、そのあたりこそ真っ先にホモ・サピエンス化してゆかねばならない。
そういう矛盾は、現在ほとんど議論されていない。
誰もが「アフリカ人がやってきた」という前提で考えているからだ。
ギリシャとかブルガリアとか、バルカン半島の人たちは、毛深くて体型もずんぐりしていて、現在でもネアンデルタール的な形質を多く残している。
アラビア人やインド人だって、色は黒いが、体型的には、アフリカ人よりはずんぐりしていてむしろネアンデルタール的である。
なぜ北ヨーロッパの方が先にホモ・サピエンス化していったのか。
とにかく、7〜5万年前の氷河期には、アフリカ北部までネアンデルタール人の血が広がっていた。
4〜3万年前は、その寒冷気候が一時的に緩んでやや温暖化した間氷期だった。
そうなると、北ヨーロッパの極寒の気候に鍛えられてきたネアンデルタール人はもう、体力的に冬の寒さが平気になる。それに、寒冷気候に耐えるための生活文化が進んでいた。つまりそのとき、ネアンデルタール人形質の地域内で、北ヨーロッパネアンデルタール人がもっともホモ・サピエンスの血が混じっても生きてゆける能力を持っていた、ということである。
南ヨーロッパやアラビア地域ではまだネアンデルタール的な形質を残していないと冬を越せなかったから、いつまでもネアンデルタール人の形質が残っていった。
現在の「集団的置換説=アフリカ人渡来説」なら、そのときアフリカ人はまず一足飛びに北ヨーロッパにやってきて、それから徐々に南下していったということにしないとつじつまが合わない。
サバンナの熱帯種である純粋ホモ・サピエンスが、間氷期とはいえ、いきなり北ヨーロッパに行って暮らせるだろうか。そんなはずがない。ネアンデルタール形質の南ヨーロッパ人やアラビア人でさえも、ホモ・サピエンスの形質が混じってしまったらその地で生きられなかった時代である。
北ヨーロッパ土着のネアンデルタール人だったからこそ、ホモ・サピエンスの形質が混じっても北ヨーロッパで生きてゆくことができたのだ。
いくら間氷期とはいえ、北ヨーロッパは、熱帯種の純粋ホモ・サピエンスが生きてゆけるような土地ではなかった。
もっとも厳しい環境を生きてきた北ヨーロッパネアンデルタール人がもっとも強い体力を持っていたし、厳しい環境を生き残る生活文化も発達していた。だから、間氷期になったときには、北ヨーロッパネアンデルタール人が真っ先にホモ・サピエンスの遺伝子のキャリアになっても生き残れるようになっていった。
そのときホモ・サピエンスの遺伝子は、それぞれの土地では淘汰されてゆきながらも、それぞれの集団がまわりの集団と血の交換をしてゆき、とにもかくにも北ヨーロッパまで伝播していったのだろう。
現在の人類学は、バルカン半島やアラビア地域に最後までネアンデルタール人の形質が残っていたことの説明はしていない。「アフリカ人がやってきた」などということをいっていたら、説明できるはずがない。
現在の人類学では、遺伝子の伝播は集団の移動によって起きるかのようにいわれているのだが、基本的に遺伝子は、いつだってそんなこととは関係なくいつの間にか伝播していってしまうのであり、いつの時代にもどこにもほかの集団の異性と交配関係を持つものがいるからだ。それが、原初以来の人類の普遍的な生態である。
4万年前以前のアフリカの遺伝子がヨーロッパまで伝播していかなかったのは、伝播していってもそこでは生きられずに淘汰され続けてきたからだし、ネアンデルタールの遺伝子がアフリカ中央部まで伝播していかなかったのも、まあ同じようなことだろう。



何はともあれ北ヨーロッパは、人類拡散の行き止まりの地だった。そこではもう、旅人を「ほかに行け」と追い払う発想はできなかった。まあ、旅人に対してそういう発想をしないのが人類の伝統で、その習性とともに地球の果てまで拡散してゆくことが実現したのだ。
そうやって拡散しながら行き止まりの地にたどり着いたネアンデルタール人は、いわば地球上でもっとも旅人を受け入れもてなすというメンタリティを豊かにそなえている人々だった。
まあそのとき北ヨーロッパで急速にホモ・サピエンスの遺伝子が広がっていったということは、それだけ集団どうしの血の交換が活発だったことも意味する。
おそらく、南ヨーロッパや中東地域よりも、もっと活発だった。
活発だったということは、彼らは新しい形質の子供が生まれてくることに対する好奇心が旺盛だったし、少々生命力が弱くてもなんとか生かしてしまうノウハウを持っていた。なぜなら、極寒の氷河期においては、すべての子供が生命力の弱い存在だったのだから。
そういう生活文化は、北ヨーロッパがいちばん発達していたはずである。
彼らは、他の集団の血や文化を受け入れる「娼婦性」が発達していた。
いきなりやってきた旅人をもてなす文化を持っていた。
現在でも北ヨーロッパは、移民を受け入れたり、異民族の赤ん坊を養子にするということをさかんにしている。そういうことをさかんにするから文明制度とともに階級社会になってしまったということもあるのだが、4〜3万年前のその生態は、もっとピュアでプリミティブなかたちだったはずである。
その根底には、彼らの死生観があったはずである。
氷河期の彼らは、生きられない命を生きていた。生まれた子供は、半分以上が成人する前に死んでゆく。大人だって、明日も生きてある保証はなかった。
朝、目が覚めて人の顔を見る。そのときめき、生きているということは、そういう体験をすることである。
人と出会うことのときめきを、彼らほど深く切実に体験している人々はなかった。
氷河期の冬は、長く厳しい。1年のほとんどは、雪が降る冬の気候だった。旅ができるなんて、短い夏のほんのわずかなあいだだけである。彼らにとって旅人と出会うことがどれほど貴重な体験であったことか。そしてきっと、その短い夏に積極的に旅に出ていったのだろう。出会いのときめきがあって、旅人を受け入れもてなすという習俗が定着していれば、いやでも旅心は湧いてくる。
氷河期の北ヨーロッパの夏がどれほど貴重なものだったか。
冬のあいだじゅう同じ顔触れでじっとうずくまるようにして暮らしてきたのだから、新しい人との出会いはもう、太陽の光と出会うのと同じくらい心ときめく体験だったにちがいない。
氷河期の北ヨーロッパの冬の暮らしの重苦しさは、おそらく並大抵のものではない。その長い期間を発狂しないで潜り抜けることができるメンタリティというのはもう、ちょっと想像を絶するものがある。彼らは、そういうことを何万年何十万年も繰り返して生きてきたのだ。
明るい光の下で歴史を歩んできたアフリカ人に耐えられることだろうか。耐えられるはずがない。もともと彼らは大きな集団を嫌い、人との出会いにあまり関心のないメンタリティを持っている。その流儀では、氷河期の北ヨーロッパの長い冬を潜り抜けることも、短い夏に活発な人の往来を実現させることもできない。
ネアンデルタール人クロマニヨン人の社会が活発な人の往来を持っていたことは、考古学の証拠が示すところである。そしてそれは、短い夏を惜しむようになされていたのだ。そういう生態は、人類学者のいうような「知能の高さ」によって実現するのではなく、長く重苦しい冬をけんめいに耐えて潜り抜けてきた歴史の体験から生まれてくるのだ。
アフリカでは、無数の部族に分かれて言葉も通じなくなってしまうくらいそれぞれが没交渉の歴史を歩んできた。そういうメンタリティの人々がいきなり氷河期の北ヨーロッパにやってきてその厳しい環境の中を生きてゆけるはずがない。
集団的置換説の上に成り立った考古学や遺伝子学のデータによれば、中東や南ヨーロッパを素通りしていきなり北ヨーロッパにあらわれたことになっているのである。
ネアンデルタール人は、早い段階からヨーロッパ中で同じ石器を使っていた。それは、それほどに人の往来が活発だったことを意味する。彼らはそういう生態で氷河期の北ヨーロパを生き抜く歴史を歩んでいたのであって、これはもう「知能」がどうのなどという問題ではない。
3万年前にホモ・サピエンスの遺伝子があっという間に北ヨーロッパに伝播していったのはネアンデルタール人のそういう生態の上に成り立っているのであって、アフリカ人がやってきたからではない。
アフリカ人にはアフリカの歴史から生まれてきた人と人の関係の流儀があるし、ヨーロッパ人のその流儀もまたそこで生きてきた長い歴史によってもたらされたものだと考えるべきだ。
アフリカとヨーロッパでは、人に対する感性そのものが違う。それはもう、5万年前からすでに違っていた。アフリカ人はわざわざ生活圏の外に出てゆこうとするようなメンタリティは持っていなかったし、北ヨーロッパでは短い夏にさかんに人が往来していた。



現在の人類学フリークたちは、プロであれアマチュアであれ、石器がどうの遺伝子がどうのという上滑りのパズルゲームのような思考を繰り返すばかりで、そこに住んで暮らす人々がどんな思いで歴史を歩んでいたのかということに対する想像や考察をほとんどしていない。
現在の映画や小説などの文化は人々のそうした思いに対する想像の上に成り立っているというのに、原始時代の歴史考察となると、とたんに上滑りしたパズルゲームになり、まるで三文小説のような安直な物語を捏造することに終始してしまっている。彼らは、それで知的な人種のつもりでいるのだから笑わせてくれる。
5万年前のネアンデルタール人はすでに、「短い夏の旅人の訪れを受け入れもてなす」という習俗をそなえていた。それが、ヨーロッパ中で同じ石器を使っていたという考古学資料の示すところである。
氷河期の北ヨーロッパの長い冬の重苦しさと短い夏に対するひとしおの感慨、そこから生まれてくる人と人の関係あやは、アフリカとはまるで違っていた。
見知らぬ人と出会うことのときめきは、ネアンデルタール人の方がはるかに深く豊かだった。
けっきょく人類の歴史は、人と人の出会いの歴史なのだ。人間的な文化の発展は、そこから生まれてきた。
5万年前の地球上で、ネアンデルタール人ほど人との出会いに熱く切実な思いを抱いている人々はいなかった。おそらくそれが、現在のヨーロッパ人の人に対する感性の基礎になっている。
人の心は、根源において他者に対する困惑や警戒心と同時に、その断絶を飛び越えてゆくときめきを持っている。そういう「娼婦性」とともに原始人は地球の隅々まで拡散してゆき、その「娼婦性」はヨーロッパの北の果てのネアンデルタール人のところで極まった。
長い冬を顔見知りばかりの集団で固まりながら暮らしていると、どうしても他者の存在に対する息苦しい思いがふくらんでくる。二本の足で立っている人間は避けがたくそのような心の動きを持ってしまうし、その息苦しさを和らげる効果として、火を囲んで語り合うという習俗などが生まれてきた。
他者に対する困惑や警戒心を飛び越えてときめいてゆく「娼婦性」こそネアンデルタール人の他者との関係の流儀であり、短い夏の旅人を迎えもてなすという習俗は、そのもっとも貴重で豊かな体験になっていたはずである。
彼らが決まったパートナーや家族を持たない乱婚社会をつくっていたのも、困惑や警戒心を飛び越えてときめいてゆく「娼婦性」を持っていたからだろう。その「飛び越えてゆく」醍醐味を知っていた。
そういう極寒の環境なのだから、おそらく洞窟の中で毎晩男女が抱き合って眠りについていた。そのとき、いつも同じパートナーであればときめきは薄れてくるし、たとえば狩りでけがをしたり体温が低下して死にそうになっているものは優先的にパートナーを得ていたにちがいない。なぜならそういうものはけんめいに抱きついてくるから、相手になる側にもときめきは大きくなる。そしてそれは、死にそうな赤ん坊をけんめいに生かすという行為の延長であり、介護をすることに熱心な社会だった。熱心にならないと集団なんか成り立たなかった。
それは、道徳の問題ではない、「娼婦性」なのだ。
その「娼婦性」によって、たちまち北ヨーロッパホモ・サピエンスの遺伝子が伝播していった。



「娼婦性」とは、他者に対する困惑や警戒心を飛び越えてときめいてゆく心である。
その困惑や警戒心を飛び越えようとするところに人間的な羞恥心が生まれる。
羞恥心は、人間特有のものかもしれない。
羞恥心こそ、娼婦性である。
まあ、ストリッパーやヌードモデルだって、好きな男の前では裸をさらすことに恥ずかしがりもするだろう。羞恥心を持つかどうかが、惚れたかどうかの目安にもなるのかもしれない。向き合って見られることの困惑と警戒心とそれを飛び越えようとする衝動から羞恥心が生まれる。
とすれば、羞恥心がないというのは、困惑や警戒心がないまま、まったく無関心になっているか、なれなれしく支配しにかかっているかのどちらかだろう。近すぎるか、遠すぎるか、他者に対する距離感が不自然になってしまっている。
近すぎて、必要以上に怖がったり、支配しようとしていったりする。また、遠すぎて無関心になったり鈍感になったりする。そして人間であることのほんらいのかたちはこの中間にあるのだから、誰の中にもこのかたちははたらいている。おそらく、このかたちの両極を行ったり来たりしながら羞恥心を失ってゆくのだろう。
人を支配しようとする衝動は、人に対する無関心や鈍感さにもなる。
二本の足で立っている存在である人と人のあいだには、絶望的な断絶が横たわっている。そしてこの断絶を飛び越えてゆくところで人間的なときめきが深く豊かに体験される。
しかし文明制度は、この関係を捨象したところの、近すぎる支配=被支配の関係や遠すぎる第三者を排除してゆく関係の上に成り立っている。つまり、両極を行ったり来たりする関係性である。
文明社会で生きてゆくのは難しい。ほんらいの関係から外れた支配し合うなれなれしい関係になったり、逆に争い排除し合う関係を同時に持たされてしまう。そうやって現代人は、精神を病んだり社会的な成功者になったりしている。



ネアンデルタール人は、他者とのあいだに横たわる断絶を飛び越えてゆくという関係の醍醐味を知っていた。それが、見知らぬ旅人をもてなすという作法である。
死者と生き残ったものとのあいだには決定的な断絶が横たわっている。その断絶を飛び越えてゆく作法として、彼らは埋葬するということを覚えていった。この習俗と見知らぬ旅人をもてなすという習俗は、決して無関係ではない。
人と人の関係の醍醐味は、たがいのあいだに横たわる断絶を飛び越えてゆくことにある。
人類は、この断絶に気づいていったことによって、豊かな関係性を持つようになった。
二本の足で立つ姿勢は、不安定でしかも急所を外にさらして、攻撃されたらひとたまりもない姿勢である。なのに人類は、攻撃しようとする衝動を捨てて向き合っている。この関係は、たがいのあいだに「断絶」をつくっていないと成り立たない。断絶をつくりながら向き合っているのが、人と人の関係なのだ。断絶をつくりながら、それを飛び越えて親密になってゆく。これは、世界との関係においても同じだろう。人間は、世界と調和していない。断絶の向こうに世界を見ている。その断絶を飛び越えて世界とかかわってゆく。
断絶に気づいたことによって、それを飛び越えようとして人類の知能というか知性や感性が発達してきた。
われわれは、世界からも他者からも、決定的に置き去りされている。そのことに気づいたところから人類の歴史がはじまっている。つまり、そうしたストレスが人類の知能を進化させ、何はともあれ豊かだが混乱もしている人と人の関係を生み出してきた。
われわれは、人類の歴史を動かしてきた人と人の関係というものについてもっとよく考えてみる必要がある。
人類ははじめに他者とのあいだの「断絶」に気づいたのであって、他者との同一性とか一体感というようなことを体験したのではない。そのストレス=嘆きが原始人の人と人の関係をはぐくんでいったのだ。
埋葬のきっかけとしては、人類ははじめに死者との断絶に気づいたのであって、死後の世界に気づいたのではない。
世界との断絶に気づいたのであって、みずからの存在を世界の一部だと思ったのではない。
「断絶」に気づくということ。人類が猿としての限度を超えて大きな集団をつくるようになってきた契機は、仲間意識を持ったことにあるのではなく、旅人という見知らぬ他者との断絶を飛び越えてゆく醍醐味を体験していったことにある。



原始時代の集団は、ひとつの集団の人口がそのまま増えていったのではなく、どこからともなく人が集まってきて大きくなっていったのだ。これは、弥生時代奈良盆地がそうであったし、ましてや人がどんどん死んでゆく氷河期のネアンデルタール人の集団に、そのまま人口を増やしてゆく能力があったはずがない。それでもそのころの地球上でネアンデルタール人がいちばん大きな集団をつくっていた。それは、どこからともなく人が集まってきたからであり、そういう旅人を受け入れもてなす文化を持っていったからだ。
寒さが厳しくなれば、とうぜん全体の人口は減少する。しかし、10あった集団が3つに統合されれば、ひとつの集団の人口は増える。そういう人と人の関係のダイナミズムによってネアンデルタール人はその厳しい環境を生き残ってきた。
ただの仲間意識だけでそのようなダイナミズムは生まれてこない。見知らぬ他者との断絶を飛び越えてゆく心の動きを持っていたからだ。それが、旅に出ようとする衝動を生み、旅人をもてなすという生態をつくっていった。
なんのかのといっても、現在のヨーロッパ人ほど他者との断絶(孤独)を感じている民族もいないし、彼らほど他者との断絶を飛び越えてゆく原始性=娼婦性をそなえた人々もいない。これはネアンデルタール人の伝統であって、アフリカの土着文化由来のメンタリティでは断じてない。
氷河期の北ヨーロッパでは旅人をもてなす文化が発達し、同じころのアフリカでは旅人という異人と出会うことのない習俗になっていた。そして両者の中間の地域では、アフリカのそうした習俗が混じっているために、旅人をもてなす文化が発達しなかった。それはつまり、新しい遺伝子を導入してゆくダイナミズムが北ヨーロッパネアンデルタール人よりも希薄だったことを意味する。
しかしだからこそ氷河期明けのエジプト・メソポタミアでは、旅人いう新しい遺伝子を拒否して戦争を繰り返しながらいち早く共同体(国家)文明を築いていった。
新しい遺伝子を集団の中に取り込んでゆくということは、断絶を飛び越えてゆくという人間ほんらいの関係性である。その「原始性=娼婦性」は、北ヨーロッパネアンデルタール人がもっとも豊かにそなえていた。
そしてその旅人をもてなす「原始性=娼婦性」の文化は、絶海の孤島であったために文明制度の洗礼から免れた日本列島において引き継がれていった。
日本的な「娼婦性」の文化は、おそらくネアンデルタール人のところまでさかのぼることができる。
見知らぬ旅人を受け入れもてなす文化、縄文時代はここからはじまったのであり、この「原始性=娼婦性」のメンタリティが日本文化の基底になっている。
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