「まつりごと」と「もてなし」・ネアンデルタール人と日本人73


縄文時代という日本列島の歴史は、定住する女たちが旅人である男たちを受け入れもてなす習俗とともにはじまった。
縄文以前の氷河期はおそらく、平地で大型草食獣の狩りをしながら移動して暮らしていたから、男と女は一緒に行動していた。
しかし氷河期が明けて気候が温暖化すると、平地のほとんどが湿原になってしまい、大型草食獣もいなくなった。そうなればもう山の中に移住してゆくしかなかった。
山の中を大集団で行動することはできない。しだいに小さな集団になっていった。そして女子供が山の中を歩き回ることは困難であり、そこに小さな集落をつくって定住していった。
最初から山歩きができる男たちとできない女たちというかたちで、男と女がバラバラになっていったのかもしれない。そして男たちの集団だって、山の中を歩いていればどんどん小さくなってゆく。
狩りの獲物を探して山歩きを続ける男たちの小集団と、女子供だけの小集落。で、山歩きに疲れた男たちは、そういう女子供だけの集落に立ち寄り、一夜の宿を乞うことになる。
乞われれば、女たちはよろこんで受け入れもてなした。
おそらく、自然にそういう構造の社会になっていった。
彼らは、原始時代からの連続性として旅人を受け入れもてなす文化をすでに持っていた。
大陸と陸続きだった氷河期の日本列島は、行き止まりの地としてもともと多くの旅人が訪ねてくる土地柄だったし、行き止まりの地だから、もう追い払うという発想は持てない。
旅人を受け入れもてなすことは人類の普遍的な生態であるが、人類拡散の行き止まりの地である日本列島や北ヨーロッパでことに発達していた。
そして縄文社会ではその生態がさらに洗練し、それ自体が社会の構造であり男と女の関係になっていった。
縄文社会の男たちは、獲物の肉に脂がのってくる秋以外はあまり狩りをしなくなっていった。それは、縄文人が美食家だったということ以前に、男たちの旅のいちばんの理由が、狩りをすることよりも女たちの集落を訪ねることにあったからだろう。




縄文社会の男と女の関係は、乱婚だった。そして「もてなす」という作法は、女の文化として発展していった。現在でも、日本列島の女は「もてなす」という作法がほかの国の女以上に身体化している。それは、封建時代の父権制の名残りなのではない、縄文以来の伝統なのだ。
縄文時代の男たちは、べつに威張っていたわけではない。旅に疲れた身だったのであり、むしろ女に対して従順だった。
現在の日本社会のフーゾク産業においては、女が全裸になってもうギリギリのところまでサービスしてそれでも本番はやらせない、というシステムがあるが、そんなことが可能なのは、それだけ男が従順だからであり、女のサービスがそれだけこまやかだからであろう。
縄文以来の歴史の無意識が、このような日本的なフーゾク産業のシステムを成り立たせている。封建時代の父権制の名残りが機能している社会であるのなら、そんな男の従順さを勘定に入れたシステムは絶対に成り立たない。まあ父権制の意識が残っている男は、この世界ではまずもてないし、嫌われる。
旅に疲れた縄文男のような気分でいればそうそう邪検に扱われることもないが、正義ヅラしてふんぞり返っている父権制の遺物のような男を、誰がやさしくサービスしてやろうという気になるものか。
縄文女のもてなしがきめ細かく洗練していったとすれば、男たちが威張っていたからではなく、旅に疲れていたからだ。
縄文男たちは、足の骨が変形してしまうくらい山道を歩きまわっていたらしい。
日本列島は、女の「もてなし(サービス)」の文化が発達している。それは、それほどに男がふらふらして疲れている社会だったことを意味するのであって、べつに威張っていたからではない。
男が威張っているイスラム社会で女のサービスの文化が発達しているかといえば、そんなことはない。中国・朝鮮は男尊女卑の儒教道徳の社会だからといって、日本列島より「もてなし(サービス)」の文化が発達しているわけではあるまい。
ヨーロッパは「レディファースト」というくらいで男が女にサービスする社会だとすれば、そうやって男が女をリードしてきたのだろう。それに対して女が世話を焼く日本列島は、女がリードしてきた。それはまあ病人の介護をするようなことで、べつに女が支配されてきたのではない。
女がリードする社会でなければ、女のサービスの文化は発達しない。日本列島で女のサービスの文化が発達しているということは、もともと女がリードする社会だったことを意味する。
そして疲れた旅人を受け入れもてなすという行為は人類史はじまって以来の普遍的な生態であり、それが日本列島で引き継がれてきた。
人と人が二本の足で立って向き合っているということは、それによって相手の姿勢が安定するわけで、たがいに介護し合っているようなことだ。
それはおそらく、生き物のメスの「やらせてあげる」という娼婦性に由来している。
現代社会の男と女の関係にはいろいろとややこしい要素があるとしても、基本的に生き物のメスは、オスの「やりたい」という熱意にほだされてやらせてあげているだけで、優秀な子孫を残すためというような目的を持っているのではない。優秀な子孫が残ってくるのはたんなる自然のなりゆきであって、生き物自身が企画していることではない。
完璧な一夫一婦制だと思われている一部の鳥類のメスが、調べてみると一割か二割はほかのオスの卵を生んでいたりする。もちろんチンパンジーだって、ボスだけにやらせているわけではない。
生き物の種が残ってくるのは、種を残そうとする意思があるからではなく、メスの「やらせてあげる」という娼婦性の上に成り立っている。
その娼婦性が発展して、人類の介護やサービスの文化になっている。生き物のメスに娼婦性がなければ、人類の介護やサービスの文化は生まれてこないし、そもそも原初の人類が二本の足で立ち上がるということも起きていない。
生き物の命のはたらきは死んでゆくはたらきのパラドックスであって、生き延びようとするはたらきではない。女のサービスや娼婦性は、そういうことの上に成り立っている。そのとき女は、死んでゆくこと、すなわち自分=身体を忘れてしまうことを他者の身体を生かすことによって体験している。自分=身体を他者の身体によって上書きしてゆくというか、もてなし=サービスとは、まあそういう体験なのだ。
縄文社会が一万年も続いたということは、女が疲れた旅人の男を受け入れもてなすという関係がそれほどに生き物としての普遍性にかなっていたということを意味する。



日本列島の古代以前は、女が主導する社会だった。それは、必ずしも女が威張っていたということは意味しない。女が男の世話を焼いていた、というだけのこと。そして男は、あまり生産的な仕事をしないでふらふらうろつきまわっていた。
おそらく弥生時代の農業生産は女が中心でやっていて、まあ男たちは土木工事の力仕事や祭りを計画実行するなどの部分を担当していた。
集団の人間関係をプロデュースしていたということだろうか。こういうことは、女はあまり得意ではない。
もともと男は女に寄ってゆく存在だから根が遊び好きで祭り好きだし、女は「やらせてあげる」存在なのだから、そういうことはどうしても男任せになってしまう。
しかし、猿としての限度を超えて大きな集団をいとなんでいるのだから集団の人間関係をやりくりするのはとても大切な仕事であり、とくに弥生時代においては、それまでの縄文時代を数十人程度の集団しか知らない歴史を歩んできたのだから、かなり実験的なことでもあったのだろう。
山で暮らしていた縄文人が平地に下りてきて集団で農業をはじめた弥生時代は、その大きな集団の人と人の関係をやりくりしてゆくことは、ある意味で食糧を生産する以上に切実なテーマだった。
けっきょく祭りも土木工事も、集団の結束・連携を高めるイベントだった。
集団でお祭り騒ぎをすることは男の方が好きだし、それがないと弥生時代の集団は成り立たなかった。
また、縄文時代からの連続性で考えるなら、その集団性は男と女の関係のダイナミズムの上に成り立っていたはずであり、みんなで歌い踊ったり歌垣の集まりを催したりする祭りはどうしても必要だったはずである。
しかし男と女の関係は女が男の世話をするということが基本で女が食糧の生産活動をしていたのなら、どうしても女がリードする社会になってしまう。
弥生時代は女が家の持ち主だったということは、いかに男がふらふらしていたかということを意味するのであって、べつに女が威張っていたというわけでもあるまい。
まあ、縄文時代の男は山歩きばかりしていたのだし、山を下りてきたからといっていきなり生産的で勤勉になれるわけでもないだろう。



なぜ政治のことを「まつりごと」というかといえば、古代以前の男たちはもうほんとに祭りのことばかり考えていて、祭りが政治だったからだろう。それはつまり集団の人間関係をプロデュースするということで、必ずしも権力支配を意味しない。
魏志倭人伝」に卑弥呼が「鬼道(野蛮な呪術)」によって民衆を支配していたと書いてあるからといって、この国にはそれが史実であると信じられるような状況証拠はない。中国の役人が勝手な差別的憶測を書きつけただけだろう。この文書は日本のことを何も知らない中国人に向かって「海の向こうにはこういう国がありますよ」と好き勝手に語っているだけで、文字を持たない日本人のために真実を書き残しておいてやろうという親切で書いたのではない。
弥生時代にも、「呪術」があったという決定的な証拠はない。おそらく「魏志倭人伝」が語るよりもずっと洗練された「見守る」という「サービス」を持った社会の構造になっていたはずである。
権力支配があったという証拠もない。本格的な税の徴収がはじまったのは飛鳥時代からのことで、弥生時代はただ、みんなで「ささげもの」を持ち寄って祭りをプロデュースする機関をもうけていただけかもしれない。
政治よりも祭りの方がもっと大切なことだった。それは集団における人と人の関係をプロデュースしてゆくことで、べつに豊作祈願とかということでもなかった。そういうことを現代人の価値観に当てはめて決めつけてしまうべきではない。
まあいつの時代も人間社会のいちばん大きなテーマは、人と人の関係をどうやりくりしてゆくかということだ。生活の豊かさよりもまずその問題をクリアしないことには人は生きられない。
弥生時代の集団は、政治経済よりも祭りが大切で、祭りの上に成り立っていた。このことの意味するところは、けっしてかんたんではない。
「鬼道」という野蛮な呪術で民衆を支配できるというような簡単なものではなかったはずである。そんな社会であったのなら、現在のアフリカやアマゾンやボルネオの未開社会と同じ歴史を歩んできたはずだ。もともと呪術は、エジプト・メソポタミア等の文明社会を運営するためのものとして生まれてきたのであり、それが地球の隅々の未開社会にまで伝播していった。そうしてそのような観念性を覚えてしまった未開社会はどんどん停滞していった。そうなればもう、サービスの文化がどんどん停滞して社会が孤立してゆく。
それは、文明社会の共同体(国家)がみずからを唯一無二の世界として完結・結束し、他の集団を排除してゆくための観念性として生まれてきた。呪術を持ってしまうと、その集団は完結してしまってそれ以上の発展が起きてこない。これはもう、歴史の法則である。
四大文明の地だって、みずからの呪術性によって、けっきょく世界の近代文明の歴史から置き去りにされていった。
しかし弥生時代奈良盆地は、その後そのまま大きな都市国家へと膨らんでいったわけで、それは呪術によって完結してしまっている社会ではなかったことを意味するのであり、外からどんどん人が入ってきて膨らんでいったのだ。
彼らの連携・結束は、外から入ってくる旅人を受け入れもてなすことの上に成り立っていた。これが、縄文以来の日本列島の伝統の作法であり文化だったのだ。
日本列島の住民の進取の気性の旺盛さは、縄文・弥生時代に大陸の呪術の観念性の洗礼を受けていないことによるのだろう。
古代および古代以前は、日本列島から大陸に出てゆくことはあっても、大陸の方から進んでやってくるということはほとんどなかった。それは、進取の気性の差であると同時に、呪術社会であったか否かの差でもある。
古代人は進取の気性で海を渡っていったのであって、呪術をたよりにそんなことをしていたのではない。
外から入ってくる旅人に、自分たち固有の呪術など通じない。イスラム教徒の旅人にキリスト教の神を拝めといっても聞き入れないだろう。しかし奈良盆地においては、やってくる旅人も受け入れもてなすものたちもそんな呪術=宗教など持っていなかったからこそ、どんどん膨らんでいったのだ。
奈良盆地そのものが、どこからともなく人が集まってきて賑わってゆく祭りの場だったのだ。
どこからともなく人が集まってくる祭りの場の混沌とした賑わいと、呪術によって集団が結束して固定化してゆくこととは、その集団性において決定的に違う。
弥生時代奈良盆地における祭りのプロデュースは、呪術的な秩序をつくってゆくことではなく、どこからともなく人が集まってくる混沌とした賑わいを演出してゆくことにあった。



弥生時代奈良盆地は周囲の山の中にもたくさんの人が暮らしていて、その人たちも集まってくる祭りの広場が平地のあちこちにつくられてゆき、そのもっとも賑やかな広場だったのが現在の纏向遺跡である。
まあ、現在の天皇の前身となる祭りのシンボル的な女性がいたとしても、その祭りの運営には多くの男たちが参加結集していたのであり、男たちはそんな「まつりごと」ばかりやっていたから家の主は女がつとめるというシステムになっていたのだろう。
弥生時代奈良盆地はあくまで「どこからともなく人が集まってくる場」だったのであり、呪術や政治によって秩序がつくられている停滞した社会ではなかった。
農業生産の仕事をほったらかしにしている男たちだって、忙しかったのだ。弥生時代の集団においては、それほどに人と人の関係をやりくりしてゆくことが大変なことだった。日本列島の住民はそれまで数十人程度の集団しか持たない歴史を1万年以上続けてきていたのだから、やっかいなことはいくらでもあったにちがいないし、そういうことをおもしろがって熱中してゆく民族でもあった。
数十人程度の集団しかつくれなかった民族が、おそらく数百年で数万人あるいは十数万人単位の都市国家を生みだしていったのだ。野蛮な呪術がどうのというようなことをやっていたら、そんな現象が起きるはずがない。
いいかえれば、なぜ奈良盆地がどこよりも大きな都市国家になってゆくことができたかというと、一か所に大きな集団として固まってしまうことなく、縄文時代の延長として小集落があちこちに分散して住み分けていたからである。それはまあ、もともとの奈良盆地は湿地帯で、あちこちの浮島のようになった台地に小集落をつくって住み着いてゆくしかなかったからだ。
そのようにしてそれぞれの集落は小さすぎて集団として完結することができなかったし、全体としてもばらばらで完結することができなかった。が、その完結できないことが、さらに大きな集団になってゆくダイナミズムを生んでいった。
その、完結できないままより大きな集団になってゆく賑わいが「祭り」だった。そうした祭りばかりに熱中している男たちは、遊んでいるように見えて、じつはけんめいに集団運営をプロデュースしていたのだ。
そのようにして大きな都市になってゆく歴史を歩むことがどれほど楽しく賑やかなことで、どれほどやっかいなことだったのか。男たちがその労を惜しまなかったから家にいる女たちのもてなしの作法もどんどん洗練発達していったのだろうし、女たちのもてなしの作法に習って男たちも集団運営をやりくりしていった、というべきか。
それはもう、人間の普遍的な生態の上に成り立った習俗だった。
まあ、1万年も山の中をうろつきまわる歴史を歩んできた男たちの行動習性がそうかんたんに変わるはずがないし、女たちの体の中にも縄文の血は流れていたにちがいない。
弥生時代奈良盆地は、現在の未開の民族のような呪術などというものではすまない高度な集団運営をしていた。それは、原始時代の旅人をもてなすという習俗をそのまま洗練発展させた集団運営だった。
古代にも古代以前にも、中国の船が日本列島にやってきたことなど一度もないのである。そんな部外者の中国の役人から「卑弥呼」がどうの「鬼道(=呪術)」がどうのと見下すようなことをいわれる筋合いはないし、それを真に受けているこの国の歴史家も、ほんとにどうかしている。
少なくとも古代以前に四大文明の地で生まれた呪術が日本列島に移植されることはなかったし、日本列島に土着の呪術があったのなら、日本列島のサービスの文化は発達しなかったはずだ。縄文人弥生人も、呪術などというものを知らないまま、ただもう人と人が他愛なくときめき合ってゆく関係性をやりくりしながら集団をいとなんでいたのであり、だからサービスの文化が発達した。ことサービスの文化においては、早くから呪術に目覚めていった中国大陸と日本列島では、その洗練度において、わるいけど圧倒的な差があるのだ。それは、良識を持った中国人自身も認めていることである。
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