一音一義・閑話休題


日本語(やまとことば)の起源のかたちや古代文学を考えるとき、言葉の一音一音のニュアンスを追ってゆく「一音一義」という方法があります。「文法」とか言葉の「意味」にとらわれていたらだめだ、という立場です。
どこの国、どの民族、どこの地域の言葉であろうと、最初はまず「音声を発する」という体験からはじまっているわけじゃないですか。そしてこの体験の歴史は、何万年何十万年と、われわれが思う以上に長いし、日本語はいまだにこの体験を引きずっています。
いきなり文法を持った言葉をしゃべり始めた民族などいないのです。
この国の知識人は、日本語の起源がどこかよその国から移植されたかのようなことばかり考えているけど、そんなことはありえないのです。
人間的なさまざまな音声を発し、その音声を交歓するという生態をすでに持っていないと 言葉など覚えられないし、そういう生態を持ってしまっていたらもう、よそから移植してくることなどできないのです。自分たちの発声の流儀にあわせて言葉=文法をつくってゆくしかない。
とにかく最初はどこでもたいして違いない原始的な音声だったのであり、そこから人類が拡散していって、気候風土が変わったり人と人の関係や集団の形が変ったりして、しだいに地域性の違いが生まれてきた。
たとえば、原始人が中国から日本列島に何世代もかけて移動していったら、そのあいだにもう気候風土や集団のかたちの変遷とともに別の言葉(音声)になってしまっているのです。
どこの国でも、まず自分たちの音声のタッチを持っていて、そこから言葉をつくっていったのです。
弥生時代朝鮮半島から人がやってきて言葉を移植したとか、そんなことはありえないのです。そのとき日本列島にやってきた朝鮮半島の人々は、みな自分たちの言葉を捨てて日本語を覚えていったのです。そうしないと日本列島では生きられなかったのです。
弥生時代に日本列島にやってきた朝鮮半島の人々なんか一割以下だったらしいのだが、それで日本人の遺伝子の変化にかかわることがあったとしても、言葉(文法)を移植できるはずなんかないのです。
たとえ縄文時代であっても、大陸とは別の日本列島的な文法があったのであり、日本列島的な発声の流儀がすでにあったのです。
そして一音一音をたどたどしく発声してゆく日本語は、中国や朝鮮よりもずっと一音一音のニュアンスにこだわりながら言葉をつくり育て文法をつくってきたのです。それを考えるのが「一音一義」という方法です。



古代文学の研究だって、日本人がどれほど一音一音の発声のニュアンスにこだわって言葉を育ててきたかというところからはじまるはずです。
われわれ現代人はもう言葉(単語)なんかひとまとまりの「意味」で扱ってしまっているけど、古代人はまだ一音一音のニュアンスを意識しながら言葉を扱っていたのです。だから「大和はことだまのさきはふ国」といった。
一音一音を意識するとはどういうことかというと、言葉(単語)全体の「意味」のほかに一音一音が持つ「感慨」のニュアンスをそれぞれの言葉(単語)のメタファとして持っていたということです。
たとえば「あを=青」と言えば青い色彩のことを意味しているようで、その背後に「遠いものに対するあこがれとかなしみ」というメタファを隠し持っていたのです。
「あをによし」という枕詞の表の意味はたぶん「空の青さが目にしみる」というような体験の上に成り立っているはずです。しかしその裏に一音一音の感慨のニュアンスからくる「遠いものに対するあこがれとかなしみ(=あを)で胸がいっぱいになってゆく(=よし)」というメタファを隠し持っているわけです。つまり「望郷の念が胸にみちてくる」ということです。だから、万葉集の「あをによし」の歌は、ぜんぶ奈良に対する望郷の歌になっている。
奈良は「青丹(あおに)」という顔料が採れたからとか、そんなお気楽なこじ付けをして悦にいっている場合ではないのです。
古代人は、「あをによし」という枕詞を、その一音一音の感慨のニュアンスを意識しながら、ちゃんと「メタファ」として扱っていたのです。
彼らより現代人のほうが、ずっと枕詞に対する文学的な意識のレベルが低いのです。
そりゃあ、そうですよ。
もしかしたら縄文時代の歌垣は枕詞だけを交わすところからはじまっているのかもしれないわけで、だったら万葉集がつくられた時点で、すでに数千年の枕詞の歴史を持っていたことになります。そういう人たちが、そんな「青丹(あおに)」がどうのなどというちんけな意味だけの拙劣な扱い方をするはずがないじゃないですか。
そしてたぶん、われわれだってその「あをによし」という音声にそうした胸にしみてくるようなニュアンスを感じ取っているからこそ、それらが名歌として語り継がれてきたのでしょう。
■あをによし 奈良の都は 咲く花の 匂ふがごとく 今盛りなり
この歌だって、研究者の解説を鵜呑みにすれば、なんだしょうもない歌だなあ、ということになってしまいますよ。
この国の古代文学研究は、こんなことばかりやっていていいのですか。



辞典によれば、「たまくしげ」とは、「玉櫛笥」と書いて、きれいな化粧道具の箱なのだとか。「たま」は「美しい」で「くしげ」は「化粧道具の箱」だという。
だったら、最初にこの枕詞を差し出すということは、「念入りに化粧をしてあなたを待っています」という意味でしょうか。
そうじゃないでしょう。
はじめにこの枕詞があって、それにちなんで宮廷人が美しい化粧道具の箱を「たまくしげ」と呼ぶようになってきただけのことでしょう。自分たちの歌の教養を誇示するためかなんだか知らないけど。
次の万葉集の歌で見てみましょう。女が自分に言い寄ってくる男に送った拒絶の歌です。
・・・・・・・・・
■たまくしげ 覆うを安み 開けていなば 君が名はあれど わが名し惜しも
……(訳・困ります、人目がないことをいいことに朝まで家の前にいられたら。あなたはともかく、私は浮名を立てられたくないのです)
・・・・・・・・・
まずこの枕詞を差し出したということは、この枕詞に女の精一杯の思いが込められているということでしょう。必死の拒絶の歌です。「きれいな化粧道具の箱」などというお気楽な意味しかないのなら、この言葉を差し出すはずがない。この女は、こんな稚拙な歌のつくり方しかできないのか。そうではないでしょう。稚拙なのは、現在の研究者たちの枕詞に対する理解の方です。彼らは、枕詞の機能が、何にもわかっていない。
まあ、賀茂真淵からはじまって、本居宣長折口信夫中西進も、みんなわかっていないですよ。
「たまくしげ」とは「焦る」ことです。
枕詞は、必ずしも「祝福」の言葉ではない。ときめきの表出になることもあれば、嘆きの表出にもなる。むしろ、嘆きの表出として使われることの方が多い。
この恋の顛末がどうなったかということはどうでもよい。とにかくこれは、必死の拒絶の歌なのです。男が朝になってから帰ってゆけば、それを見かけた人は、女の家に泊ってきたと解釈してしまう。女としては、それは大いに困る。噂が立てば、ほんとに好きな男から捨てられてしまう。
それでどうして「きれいな化粧道具の箱」などというのんきな意味のことばを使わねばならないのです。
この枕詞を一音一義で解釈してみましょう。
まあ「たま」は「心」というようなニュアンスの接頭語みたいなものです。むずかしく考える必要はない。五音の一句としておさめるためにくっつけただけでしょう。
この枕詞の本意は、あとの「くしげ」という三音にある。
とにかく「くしげ」は「苦(くる)しげ」と同じニュアンスの音声であり、そうやって焦っているのです。
「く」は、もちろん「苦しい」の「く」、「組む」の「く」、「複雑」「混乱」の語義。気持ちがもやもやしてこんがらがってしまうこと。 
「し」は「しーん」の「し」、「静寂」「孤独」の語義。この場合は追いつめられること。
「げ=け」は「蹴る」の「け」、「分裂」の語義。気持ちが分裂し定まらないこと。
「くしげ」とは、わけがわからなくなってうろたえること。すなわち、焦ること、気もそぞろになること。
起源としての枕詞には、具体的な事物に限定された意味などなかったのであり、それはあくまで「感慨のあや」を直裁に表す言葉だったのです。
もしかしたら宮廷人がこの枕詞を化粧道具の箱になぞらえたのは、出かけるときや男が訪ねてきたときにあわてて化粧するから、枕詞の「焦る」にちなんでそう呼ばれるようになっていったのかもしれない。だとすれば、この命名の仕方はちょいと粋ではないですか。まあ、いつの時代からか宮廷の女たちにおける化粧箱の符牒として「たまくしげ」という枕詞が使われるようになっていった。化粧箱のことを「たまくしげ」と呼ぶのは、歌の教養を持った女であることの証しだった。
語源としての「たまくしげ」という枕詞は、「化粧道具の箱」とはなんの関係もなかったのであり、それがどんな歌に使われていたかをたどってゆけば普通にわかることでしょう。
現在の枕詞研究が、こんなことでいいのでしょうか。
ついでに「たまくしげ」のことをもうちょっと書いておきます。



次の「たまくしげ」の歌は二つとも「二上山(ふたかみやま)」にかかるかたちになっているのだが、「化粧道具の箱」と「二上山」は関係ないでしょう。考えなくてもわかる。
ところが一部の研究者は、箱には「蓋(ふた)」が付いているからだ、という。どうしてこんな安っぽいこじ付けをするのだろう。まったく、いやになってしまう。
・・・・・・・・・
■たまくしげ 二上山に 鳴く鳥の 声の恋しき 時は来にけり
■ぬばたまの 夜は更けぬらし たまくしげ 二上山に 月かたぶきぬ
・・・・・・・・・
両方とも平明な情景描写だが、どちらの「たまくしげ」にも、ひとまず「気もそぞろ」というニュアンスがこめられています。春が近づいて気もそぞろになってきた。月が隠れてしまいそうで気もそぞろだ。これだって「焦る」の「感慨のあや」でしょう。万葉人は、枕詞のそういうニュアンスをちゃんと自覚していた。なにげないようでいて、ちゃんと思いを込めてこの「たまくしげ」という枕詞を置いている。
上の歌は、出世の機会を待ちわびているのか、また心ときめく恋がしたいと気持ちがはやるのか。そして下の歌は、没落貴族の悲哀を詠っているらしい。いずれにせよ、そういう「焦る」という感慨を込めた「たまくしげ」なのです。
で、上の二つの「たまくしげ」のあとになぜ「二上山(ふたかみやま)」が続くかというと、古代においては胸が「ふさぐ」ことを「ふたぐ」といったからでしょう。
「ふ」は「伏す」の「ふ」、低いところのさま。「ふう」と息を吐く。「やれやれ」という感じ。
「た」は「たたむ」の「た」、「完結」「終結」の語義。
「ぐ=く」は、「組む」「苦しい」の「く」、ややこしくなってしまうこと。
「ふたぐ」とは、思い悩んで気持ちが沈んだまま動かなくなってしまうこと。気持ちが、発散できなくなってしまうこと。そこから具体的な事物としての「蓋ふた」という言葉が生まれ、「塞(ふさ)ぐ」という言葉も派生してきた。もとはといえば「ふたぐ」という「心の表現」の言葉だった。
「たまくしげ」とは出口が見つからなくて焦る気持ち、そこから「ふたぐ」という言葉が連想され、さらには「二上山(ふたかみやま)」が連想されていった。
したがってそれは、ほんとうの「二上山」かどうかはわからない。「三笠の山に月かたぶきぬ」といってもいいのであり、作者は実際には三笠の山を見ていたのかもしれない。それでもこの歌には「二上山」と詠まずにいられないわけがあった。
胸がふさがれる思いで山を眺めていたのなら、その山は「二上山」といったほうが似合う。いやもう、「二上山」でなければならない。そのようにして「たまくしげ=焦る=ふた(さ)ぐ」という連想として、「二上山」と続けるのがお約束になっていった。「たまくしげ」の歌は、「三笠の山」と詠むわけにはいかないのです。
そしてこの場合は、一般にいわれている枕詞とあとにかかる言葉との関係が逆になっています。あとの言葉が枕詞を修飾している。
二上山」は奈良盆地の代表的な山のひとつではあるが、これらの歌においては、固有名詞であると同時に、そこから離れて「胸がふたぐ山」とか「気もそぞろになる山」とか、そういう「たまくしげ」の感慨の象徴的な表現にもなっているわけです。
歌はもともと「心の表現」だったから、事物の具体的な意味を無視してしまうことがよくある。それはもう、万葉の昔から歌人たちがずっとやってきた手法でしょう。
人類は、事物(自然)の表現として言葉を覚えていったのではない。
言葉は「感慨の表出」として生まれてきた。
古代人がこのように「二上山」という事物の表現を無視して「感慨の表現」にしてしまうのは、事物の表現から感慨の表現を覚えていったからではなく、もともと感慨の表現を事物の表現に代用してゆくという歴史を歩んできたからです。
二上山」という名称だって、語源においては、感慨の表現だった。
「ふた」は、「ふたぐ」のニュアンスとして、心が低いところでしいんとしてゆくことであり、すなわち見とれてしまうこと。
「かみ」は「噛む」、その思いをかみしめること。
「ふたかみ」とは、見とれて立ちつくしてしまうこと。
古代以前の人々はそういう思いで「二上山」を眺めていた。そういう思いの長い歴史があって、あとの時代に名前をつけようかということになり、だったら「二上山(ふたかみやま)」だな、ということになっていった。
二上山」から「ふたぐ」という言葉を連想することは、必然的ななりゆきでしょう。
歌においてそれが固有名詞であることを無視するのは、その言葉の語源に遡行することだった。古代人はまだ、そういう語源のニュアンスを誰もが承知していたのです。枕詞は「感慨の表出」の言葉であるということを、誰もが自覚していた。
言葉の表の意味を解体しながらメタファとしての「感慨のあや」を取り出して解釈する。あるいは差し出す。それが、万葉集で歌を交歓する人々の基本的な作法だったのです。
なのに現代の研究者たちは、具体的な事物の「意味」を取り出そうとばかりしている。彼らはもう、完全に古代人の心から遊離してしまっている。そうやって枕詞研究は遅々として進まない。



 僕は今、この文章を、古代文学の研究に携わっているアカデミズムの場の人たちに読んでもらいたいと願って書いています。
 どうせ読者の少ないブログだが、ひとりくらいそういう立場の若い人がいるかもしれない、と期待したりなんかしています。
 古事記の神の名に古代人のどのような思いが込められているかということだって、本居宣長の解釈が終着点ではないはずです。一音一義のニュアンスをたどってゆけば、もっと深く豊かに解釈できるはずです。それをしないと、われわれは古代人の心模様に推参できないし、やまとことばの正味の姿も見えてこない。
日本語(やまとことば)は日本列島の住民が何万年もかけて育ててきた言葉であり、どこかのよその国から移植されてきた言葉では断じてないのです。
文法や意味がどうのと講釈する前に、人間がどのようにして言葉を獲得していったかということに対する想像力をはたらかせないといけない。
そして日本列島の住民がなぜこんなにも言葉の一音一音にこだわってきたかということを考えないといけない。それは、日本列島の気候風土だけでなく、いかにも日本的な人と人の関係がその歴史のはじめからあったのです。
ここでは、その日本文化論のキーワードを探しながら書いているわけだが、もちろん「これだ」というひとつの言葉などなかなか見つかりません。とりあえず今のところは、「他愛なくときめき合う娼婦性」という言葉にたどり着いたところだが、まだもう少し先がありそうです。
原始的な言葉の機能ははたして意味を伝えるためのものだったのか、という疑問があります。それは、思わず発してしまう音声からはじまっているのです。音声を発する意図なんかなかった。それでもその音声によって、たがいにときめき合う関係が生まれてくるわけじゃないですか。そのときもう、すでに言葉の機能を持っているのです。ときめき合う関係をつくる、という機能を。
つまり日本列島の住民は、古代になってもまだ言葉のそうした原始的な機能を「メタファ」として維持していた、ということなのです。それが「ことだまのさきはふ国」ということであり、やまとことばにおける「一音一義」の性格です。
やまとことばは「意味」だけのものではない。一音一音が「感慨のあや」まとっている。そういう「言葉の姿」というものがある。それが「ことだま」です。
古代人は、そうやって言葉のニュアンスを深く豊かに巧みに扱いながら、他愛なくときめき合っていた。そこのところの言葉の豊かさと深さに、はたして現在の枕詞研究が推参できているでしょうか。
「他愛なくときめき合う」という関係は、人類の起源であると同時に究極でもあるのです。ただ幼稚なだけの関係ではない、それなりに高度な知性と感性を持っていないとつくれない関係でもある。そして古代人はたぶん、そういう起源と究極をちゃんと意識していた。意識していなければ枕詞は操れなかった。たとえ名もない民衆であっても、です。
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