「おたがいさま」の精神としてのれいわローテーション

彼らにとって山本太郎やれいわ新選組はなぜ目障りであるのか。

上から目線でれいわを非難する知ったかぶりした政治オタクのインテリやインフルエンサーたちとは、いったいどんな人種なのだろうか?

れいわを応援するやつらなんかバカな女と人生の敗残者ばかりだ、という彼らは、そういう政治意識の低いものたちが政治に参加してこられることに対する嫌悪感と危機感がある。

 

今やれいわ新選組は政界のマイノリティというか在日朝鮮人やブラジル人やベトナム人のような存在であり、j政界の右も左も一緒になってれいわを叩くことは一種のマイノリティ差別であり、それはもう関東大震災のときの朝鮮人虐殺事件と同じ心理なのだと僕は思う。

まあNHK党や参政党は単なる変わり種右翼のような存在であり、そんな政党は昔からあったし、今でも諸派というかたちでもっと小さな右翼グループもたくさんある。

しかしれいわ新選組は、右派からも左派からも排除されるアウトサイダーになってしまっている。

彼らの支持者の中心は、もともと政治意識の薄い庶民であり、世の政治オタクたちはそういうバカな女や人生の敗残者が政治に参加してくることに拒否感と恐怖があるらしく、それは関東大震災の時の朝鮮人虐殺と同じ心理ではないか。

つまり、現在の政治界隈のれいわ叩きは、バカな女や人生の敗残者に対する差別でもあるらしい。

 

では、かしこい女や人生の勝者である者たちは、そんなに偉いのか?

政治とは、政治意識が高いものたちの専有物なのか?

まあそれ以外にも、人に対する思いの深さや細やかさだって、政治に携わる者のたしなみのひとつに違いないわけだが、バカな女や人生の敗残者にはそれがないというのか?

人間に対して鈍感で冷酷だからこそ勝者として上り詰めてゆくことができたというか、そうやってめでたく政治家になることができたものだって少なからずいるだろう。

 

バカな女で何が悪い?

人生の敗残者で何が悪い?

人としての真実は、おバカな女や人生の敗残者のもとにこそ宿っている。彼らは誰よりも無意識的な存在であり、その無意識においてこそ人は、この世界の真実を深く認識しているのだ。

哲学者が差し出すこの世界の深遠な真実は、すでに人の無意識の中で認識されていることなのだ。

言い換えれば、人の無意識の中に奥深く分け入ってゆくいとなみをして哲学というのだ。すなわちマルクスが言うように、人はすでに認識していること以上のことを認識することはできない、ということ。

 

彼らがどれほど偉そうに知ったかぶりしてあれこれうんちくを並べ立てようと、おバカな女や人生の敗残者の認識以上のことを語っているわけではない。

まあ、愚劣で薄ぺらな連中なのだ。

ひとまず現代社会の勝者であるらしい彼らは、自分の人生や社会的立場を保証してくれるこの世界の秩序の上に立って、自分こそ正義だと主張する。

その自己撞着、それが彼らをして勝者タラ占めていると同時に、彼らの限界なのだ。

 

人類の歴史は、敗者として生きることによって、爆発的な進化発展を実現してきた。

たとえば、原初の人類が二本の足で立ち上がることは早く走れなくなることだったのであり、その敗者としての嘆きが自動車を生み出し、鳥のように空を飛べないという嘆きが飛行機を生み出した。

まあ過酷な環境で生きていた原始人は誰もが生きられない弱いものだったのであり、だからこそ猿のレベルをはるかに超えた連携や協力の関係を生み出してきたし、みんなして生きられない弱いものを生きさせるという生態と技術を進化発展させてきたのだ。

 

原始人の集団においては、生きられない弱いものは足手まといだから切り捨てる、というわけにはいかなかった。

なぜなら、誰もがひとりでは生きられない弱いものだったから、弱いものを切り捨てることは集団そのものの存在理由を否定することだった。

 

たとえば氷河期の極寒の地で暮らしていたネアンデルタール人は、どんなに強いものでも夜眠るときに抱きしめ合う相手がいなければ生きていられなかった。

まあヨーロッパ人のハグの習慣の起源はそこにあるわけだが、その近すぎる関係性が反転して、のちの文明国家の時代になって憎み合ったり殺し合ったりする関係にもなっていった。

そうして近代になると、その合理主義や優生思想によって、生きられない弱いものは足手まといだから切り捨てた方がよい、という考え方も生まれてきた。

 

原始時代の歴史を近代合理主義や資本主義に染まった思考、すなわち近代的な自我によって解釈すると、大きな間違いを犯してしまう。そしてそれはまた、人間性の基礎や本質を見誤る、ということだ。

つまり今どきの知ったかぶりした政治オタクのインフルエンサーたちだって、近代合理主義的な自意識で政治を語っており、その自意識でれいわを叩いているのだろう。

彼らは自分の人生や立場を保証してくれているこの世界の秩序の上に立って、自分こそ正義だと主張する。その自己撞着が、彼らをして勝者たらしめていると同時に、彼らの論理の限界にもなっている。

 

つまり、現在の世界にフィットして勝者になっているものたちが、新しい世界に分け入ってゆこうとするはずがない。

したがって勝者が社会の進化発展をリードすることはない。

社会の進化発展は、敗者たちの抵抗によってこそもたらされる。

 

れいわローテーションは選挙制度や議会制民主主義に反しているというのなら、それは現在の腐敗し歪んでしまったそのシステムを肯定していることになるわけで、そこに新しい選挙制度や議会制民主主義に対する展望はない。

だったら、それに抵抗しているれいわローテーションの方がずっとわれわれの希望になるのかもしれない。

 

つまりれいわ新選組の主張は「敗者の論理」であり、そこにおバカな女や人生の敗残者が集まってきた。

人類は敗者の論理によって進化発展してきた、というパラドックスがある。

敗者でなければ、新しい時代を夢見ることはない。

新しい時代を夢見るということは、この生やこの時代の不幸を嘆いているというとを意味する。つまり、そういうセンチメンタリズムこそが、新しい時代に分け入ってゆく原動力になっているのだ。

バブル崩壊以後のこの国が没落したのは、日本列島の伝統としての「敗者の論理」すなわちおバカな民衆によって守られてきたところの、この生や時代を嘆き新しい時代を夢見るというセンチメンタリズムを失ったからかもしれない。

 

センチメンタリズムは、もっとも原始的な心映えであると同時にもっとも未来的な心映えでもある。つまり新しい時代の構想はおバカな女や人生の敗残者の無意識にこそもっとも深く豊かに宿っているということであり、知ったかぶりした勝ち組のインフルエンサーやインテリから教えてもらうようなことではないということだ。

 

参議院議員をひとりで6年間やるのと、1年ずつ6人でやるのと、どちらが正しいのか?

彼らはそれを議会制民主主義の冒涜だというが、ほんとうにそうだろうか?

たとえ冒涜であろうと、それは少数政党の必死の抵抗であり、僕はそうかんたんに否定できない。

国会での審議拒否や牛歩戦術だってそれなりにやむにやまれない場合だってあるし、デモや暴動や革命やクーデターや暗殺が起きてくる因果応報のことわりだってあるに違いない。

 

とにかく、たまたま選挙に負けたものに回ってきた議席を負けたものみんなで分け合うこと、それはある意味、世界普遍の敗者の自然な生態である。

日本的にいえば、「おたがいさま」の精神、ということになる。

敗者のもとにこそ人間性の真実・自然が宿っているのであり、勝ち組であることなんか自慢するようなことでも何でもないのだ。