2008-12-01から1ヶ月間の記事一覧

内田樹という迷惑・いのちの甘美さ

僕は、ついこの前まで仏教のことなんか興味がなかった。しかし、だから今のこの記事が気まぐれな軽口かといえば、そうではない。自分なりに賭けるものは賭けている。 仏教のことに熱心で造詣が深いからといって、わからない人はいつまでたってもわからない。…

内田樹という迷惑・仏の慈悲

我ながら罪深い生き物だなあ、と思う。 太宰治は「生まれてきてしまってごめんなさい」といったが、自分は生きていていいのだろうかと問わずにいられない思いは、たぶん誰の中にも多かれ少なかれあるのではないだろうか。それを振り払おうとして、人は、社会…

内田樹という迷惑・無明

こんなことばかりしていたら、誰もこのブログを見てくれなくなる。気がついたら自分ひとりさびしい原っぱに取り残されていた、という光景が浮かんできます。 まったく、がさつで腰の据わらないブログです。 人の気に触る言い方はつつしもう、という思いは僕…

内田樹という迷惑・雑感

飯島愛が死んだことに、「女36歳、マリリン・モンローもこの歳で死んだ」と自分のブログでコメントしている人がいる。 へえ、世の中には同じようなことを考えている人がいるものだ、と思った。僕も、真っ先にそのことが思い浮かんだ。 人は、死に向かった…

閑話休題・半覚斎氏へ=直立二足歩行の起源

直立二足歩行の起源について、半覚斎氏から反論をいただきました。 前々回の記事のコメント欄における最後の部分です。よかったら、それもあわせて読んでください。 直立二足歩行のことで直接反論をもらったのは、初めてです。そして、こんなに気持ちのいい…

内田樹という迷惑・「ひざまずく」ことと「決意」すること

僕は、「ひざまずく」という言葉を、宗教の「祈り」と結び付けてイメージしていない。 かといって、「捨てないでくれ」とすがりつくこととも違う。 ほんとのところは、自分でもよくわかっていない。 「ひざまずく」とは、ひとつの「決意」のかたちかな、とい…

内田樹という迷惑・「ひざまずく」ということ

僕は、古代に帰れ、といっているのではない。 多くの現代人の、古代人に対するなんの根拠もない優越意識が気に食わないだけです。 帰ることなんかできなくても、学ぶことはできるだろう。そしてそれは、こちら側の物差しで古代人を計量することではなく、あ…

内田樹という迷惑・アルカイック・スマイル

「アルカイック・スマイル」という言葉がある。 古代の微笑み、というような意味らしい。 仏教伝来当時の仏像の顔はみな、唇の両端がちょっと上がって微笑む表情をしており、そこに古代人の「素朴な」心や信仰があらわれている、などという解釈がよくなされる。…

内田樹という迷惑・仏説の論証

ここ数日のエントリーは、本格的な仏教論のブログを展開されておられる「半覚斎」氏と「もいかい」氏に対する僕なりの反論というかたちにもなっています。 ど素人の幼稚な反論です。 幼稚すぎて、彼らにとっては問題にもならないのでしょう。だから、彼らのペー…

内田樹という迷惑・私は生まれてこなかった

仏教の教えによれば、愛するとは[自制」することであるのだとか。 しかしその「自制」とは、自分をコントロールすることなんかではない。そんなことは、ただの自己愛にすぎない。 「自制」とは「自分を制する」ことであり、自分にけりをつけること、自分を投げ捨て…

内田樹という迷惑・じぶんさがし

このページを、「自分さがし」に役立てようとして読んでくれている人もいるかもしれない。「自分さがし」なんかくだらないと思うけど、そんなことで思い悩んでいる人は好きです。 「自分さがし」なんかうまくいくはずがない。だから悩む。率直で誠実な人ほど…

内田樹という迷惑・自性と自制

釈迦が生きていたころは、コンピューターなどなかった。だから、悠々とひとり孤独のの修行に邁進できた。 でもわれわれは、ネットのあちこちが気になって、腹の座った独歩行の道を進めない。 それでも進める人は進めるのだろうけど、僕のようなふらついた人…

内田樹という迷惑・神の姿

聖書では、神は神のかたちに似せて人間をつくった、ということになっている。 あなたは子供のころ、神を人間に似たかたちでイメージしたことがありますか。 僕はない。たぶん、そんなイメージを紡ぐことは、子供には無理なのだと思う。 神のイメージがなかっ…

内田樹という迷惑・「わからない」ということ

「空(くう)」の問題にこだわりながら、意識のはたらきの根源について問うてみたい、と思っています。 なぜならわれわれは、生まれたばかりの子供のような目でこの世界と向き合いたいという願いがあると思えるからです。そういう視線を持てば、この世界は輝…

内田樹という迷惑・「神の立場」という擬制3

生まれたばかりの赤ん坊が「おぎゃあ」と泣くということは、そこで意識が発生したことを意味する。 意識ははじめからあったのかもしれないが、とにもかくにもそこで新しい意識が発生したことはたしかだ。 その意識は、何もない空間に反応した。 これは、重要な…

内田樹という迷惑・「神の立場」という擬制2

半覚斎さんへ 僕は今、自分の書くことがどのような方向にむかっているのか、よくわかりません。 通り抜けた先にあなたが立っているのか、それとも別の場所なのか。 だから、ひとまず「犀の角」になって書けるところまで書いてみようと思いました。 すぐ挫折…

内田樹という迷惑・「神の立場」という擬制

決定すること、それは、神の立場に立つことだ。わかればいいというものではない、わからないことの快楽というものもある。驚きときめくという体験は、わからないことの「違和感」の上に成り立っている。美人だとわかったからときめくのではない、ときめいた…

内田樹という迷惑・彼女の場合

「空(くう)」について4、のタイトルを上のように変えました。なんとなく落ち着きが悪い気がして。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 彼女は、会社で、直接の上司である女の先輩がねちねちと小言を言ってくるのが耐えられない、という。その…

内田樹という迷惑・「空(くう)」について3

養老孟司先生は、現代人は「万物流転」という「無常」の意識を喪失している、という。つまり、「個性」という言葉にしがみつくと、昨日の自分と今日の自分は同じだと思ってしまう。人々は、自分は変わらなくて、世の中の情報の意味が変わっていっている、と…

内田樹という迷惑・「空(くう)」について2

フッサールは、さいころの見えない向こう側の目を類推してゆくのは、先験的(超越論的)な意識の主観性である、といっている。 そうだろうか。そんなものは、「経験知」という、ただの近代合理主義に染め上げられた観念のはたらきにすぎない、と思う。 僕は…

内田樹という迷惑・「空(くう)」について

「空(くう)」という言葉を聞くと、どきどきしてくる。 それは、仏教の世界だけのことではない。何か、人間存在の根源のかたちを言い当てられているような気がする。 実存意識を揺さぶられる、というのでしょうか。とにかく、どきどきしてしまう。まるで、…

内田樹という迷惑・「審議差し戻し」

ある人から聞いたところによれば、「神」とは、人間に対して「審議差し戻し」を宣告する存在であるのだそうです。 人間社会では、よいわるいとか、正しいとか間違っているというようなことをひとまず決めて動いている。だから、世界はこんなものだとか人間と…