内田樹という迷惑・「ひざまずく」ということ

僕は、古代に帰れ、といっているのではない。
多くの現代人の、古代人に対するなんの根拠もない優越意識が気に食わないだけです。
帰ることなんかできなくても、学ぶことはできるだろう。そしてそれは、こちら側の物差しで古代人を計量することではなく、あくまで絶対的な「他者」としてひざまずいてゆくことであり、それによってはじめて古代の心に推参するということが可能になる。
それは、人間の「他者」に対する態度の基本でもあるはずです。
現代社会のダイナミズムが他者に対する優越意識をもとうとする欲望(競争原理)の上に成り立っているとしても、基本はそういうことでしょう。
人間の二本の足で立ち上がる姿勢は、胸・腹・性器等の急所(弱み)を相手にさらす姿勢です。だから、そんな人間どうしが関係してゆくためにはもう、たがいにひざまずいてゆくしかない。人類の歴史は、そこからはじまっているのだし、人間が二本の足で立っている生き物であるかぎり、今なお無効にしてしまうことのできない人間性の基礎であるはずです。
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内田氏の、他者(=大衆)に対する優越意識には、まったくむかむかする。
内田シンパの人たちには、こういいたい。あなたたちは、そういう優越意識を内田氏と共有したいのか、と。
大衆こそ、もっとも大衆を侮蔑したがっている存在なのだ。そうやって大衆を侮蔑して見せることによって、大衆の支持を獲得してゆく。まったく見事なお手並みであることだ。
他者に対する優越意識によって彼らは生きている。なんとまあ、気味の悪い生き物であることか。
内田氏が古代人の心がわかったようなことをいうのは、あくまで古代人=他者に対する優越意識の上に成り立っている。自分の物差しで、古代人を計量している。
たとえば内田氏は、ネアンデルタールが埋葬をはじめたのは「霊魂」というものを発見したからだ、という。
そうじゃない、死者に対して深く悲しんだからだ。それだけのことさ。しかし、われわれよりずっと過酷な条件で生きていた彼らは、われわれの情念が及びもつかないくらい深く悲しんだのだ。そこから人類の「埋葬」という慣習が始まった。そして、埋葬したことによって、「霊魂」という概念が芽生えてきた。
埋葬をしたことのない段階で「霊魂」という概念を持つことなんかできるはずないじゃないですか。したがって、霊魂の発見が埋葬をはじめることの契機にはなりえない。
ちょいと考えればわかることです。
自分の物差しで古代人を計量しているから、そういう愚にもつかないことしか考えられないのだ。
自分の物差しで古代人を計量するという態度は、古代人に対する優越意識から生まれてくる。
ひとまず自分捨ててネアンデルタールにひざまずいてゆくという試みをすれば、彼らの死者に対する悲しみがどんなに深く激しかったかということは、驚くばかりだ。
そして彼らこそ、たがいにひざまずき合うということを深く体験して生きている人たちだったのだ。
われわれ現代人は他者に対する優越意識をもたないと生きてゆけない社会に生きているが、ネアンデルタールの社会は、たがいにひざまずき合わないと生きていけない社会だった。
男たちは、大型草食獣の狩に熱中する。獲物を持ち帰った彼らの体はすでに温まっている。居住地で料理をする。そのとき、獲物を獲得した男たちから順番に食べていったからといえば、そうじゃない。体が冷え切って今すぐ食べないと死んでしまう女子供から先に食べていったのだ。
子供が途中でつまみ食いすることなんか「あり」の社会だったのだ。
男たちは、女子供にひざまずいていった。そこから、西洋の「レディファースト」の慣習が生まれてきた。そしてそれはまた、女たちの産んだ子供が寒さのために次々に死んでゆくために女たちはヒステリーの傾向を強く抱えていた、ということもある。
彼らが、その原始的な生活形態で氷河期の極地を何十万年も生き延びてきたということは、そういうことを教えてくれる。
彼らにとって「埋葬」することは、死者=他者にひざまずいてゆく行為だったのだ。
何が「霊魂を発見したから」だ。現代のスピリチュアルのブームやカルト宗教の隆盛ぶりを眺めてみればいい。「霊魂」などという物差しは、現代人のものなのだ。
そういう目でネアンデルタールや埋葬の起源を考えて、何がわかるというのか。
内田さん、あなたの思考は、ちゃち過ぎる。
自分の物差しで他者を計量しようとする人間は、他者にひざまずいてゆくということをしない。彼はすでに、他者に対する優越意識で生きている。現代人は、誰もが他者に対する優越意識を欲しがっている。
だから、内田氏のような優越意識を与えてくれる言説が幅をきかすことになる。
しかし、人間性の基礎は、他者にひざまずいてゆくことにある。宗教だって、まずそういうことに気づくという「契機」から生まれてきたのだ。
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人間に愛や真理が必要だから宗教が生まれてきたのではない。愛なんかすでに誰もが持っている、真理など存在しない、すなわち、自性などない、一切は空である、と宣告して仏教が生まれてきた。
自性はない、ということは、意識のはたらきの根源に、自分に向かおうとする衝動などない、世界や他者に向かってはたらいているのだ、ということです。それは、自分がない、ということではない。意識のはたらきは、「自分=苦」という前提のおいて発生する、したがってそこから逃れようとするかたちで世界や他者に向かってゆく、ということです。
根源的な意識は、世界や他者に向かってはたらいている。それが、「自性なし」ということだ。
たとえば、床の間の壷は、人間の目に映る床の間の風景として存在しているのであり、その存在の仕方がなかったら、人間は壷などつくりはしない。その存在の仕方がなかったら、壷は生まれてくることはなかった。
つまり、壷に入っている水が、壷の体積より大きくなることは絶対にない。すべてのものは、世界との関係において存在しているのであって、それ自体として存在しているものなど何もない。これが、「自性なし」ということです。
だから、「私」が「私自体」としてつくられている意識のはたらきなどない、ということです。
「私は私である」という意識と、「これは壷である」という意識と、どちらが先験的な意識のはたらきであるのか。
「壷を見ている」という経験がなかったら、「私は私である」と気づくこともできない。「壷を見ているのは私である」という意識、これが「私は私である」という意識である。したがって、「これは壷である」という意識のほうが先験的なのであり、それがなかったら「私は私である」という意識は生まれてこない。
そこに壷があると気づくこと、それは、「私」によってなされるのではなく、それ自体がこの世界の現象にすぎない。
「私が壷を見ている」というよりも、「壷が見えている」というだけのことであり、それは、この世界の現象であって、「私」の現象ではない。そう思い定めたらもう、この世界が存在するのかどうかもわからない。何といっても、「存在する」と決定するのは、「私」なのだから。
「私」がなければ、この世界の何ものも存在することはできない。そして「あなた」に気づいたとき「私」はまだ生起していないのだから、「私」じしんがすでに「空」である、ということになる。
われわれは、「存在する」という思い込みの上で生きている。それはもう、どうしようもないことだ。そこで仏教は、何ものも存在しない(=空)と「認識」するのではなく、そう「決意」するのだ。
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「私」は「空」であると思い定めれば、「私」の「あなた」に対する優越意識など成り立たない。「私」という意識が生起する前に、すでに「あなた」は現前している。「私」はもう、「あなた」にひざまずいてゆくしかない。
「私」という意識の、世界に対する「一瞬の遅れ」、そこから、人間の、他者に対してひざまずこうとする衝動が生まれてくる。
われわれは、知らず知らず「私は空である」という体験をしている。自分を忘れて何かに夢中になっているとき、女のオルガスムス、過去や未来の時間に対する非存在感、死んでしまったら何もないのだという絶望的な思い・・・・・・われわれは、この胸のどこかしらで、みずからの存在やこの世界の「空」と和解したいと願っている。
そういう思いを携えて、他者にひざまずいてゆくのだ。
たとえこの社会が他者に対する優越意識(競争原理)で成り立っているとしても、誰もが意識の根源においては、他者にひざまずこうとする衝動を抱えている。
われわれは、この身体を「空=空間」として体験しながら生きている。
われわれは、すでにこの世界の「空」を体験している。
「自分はない」という体験はあるのだ。ただ、そのとき「自分はない」のだから、「自分はない」と認識(自覚)されることはない。そうして、「自分はある」という認識だけが自覚されてゆく。われわれが「自分はある」と思い込んでいるのは、それだけのことだ。
「自分はない」という体験を認識(自覚)することはできない。それは「決意」によって自覚されるのであり、そういう体験に対する「決意」のあかしとして、人は他者にひざまずいてゆくのだ。
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人間の二本の足で立ち上がる姿勢は、他者に対してひざまずいてゆこうとする衝動の上に成り立っている。
それは、胸・腹・性器等の急所(弱み)をさらして相手と向き合う姿勢です。おまけに不安定であるし、攻撃されたら、ひとたまりもない。
手に棒を持って敵と戦うために立ち上がったのだとすれば、それは、相手に対する優越意識の上に成り立っていることになる。であれば、棒を持っていないときは、その優越意識を失っている状態である。しかし人間は、棒を持っていないときでも立ち上がっている。そういうときでも二本の足で立っているのが、人間の人間たるあかしなのだ。
すなわち、「人間になる」とは、優越意識を失うことなのだ。
人間は、優越意識をもつために二本の足で立ち上がったのではない。優越意識を失う体験として立ち上がったのだ。
そんな状態で立ち上がって向き合っていることを成り立たせるためには、おたがいもうひざまずいてゆくしかない。それは、みずからの存在を確認する姿勢ではない。みずからの存在の「空」を体験する姿勢なのだ。
原初の人類は、二本の足で立ち上がることによって、「ひざまずく」という関係を発見した。そこから人類の歴史が始まっているのであり、今なおそれが人間性の基礎になっている。
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釈迦の時代からすでに「托鉢(たくはつ)」という行為をしていたそうです。
托鉢と座禅は、仏教修行の原点らしい。
そのとき庶民は、家の前に立った修行者に対し、ひざまずいてお布施をする。修行者もまた、それに感謝してひざまずく。
修行者はつねに、乞食のようなぼろをまとった姿で現れる。じっさいに乞食なのだ。彼は、ひざまずいて食い物を乞う。
「空」を体験しているものでなければ、ひざまずくことはできない。そしてそのとき家の者もまた、そこで修行者にひざまずきながら「空」を体験している。
そのとき、修行者は、食いものにおいて弱者であり、家のものは「知」において弱者になり、たがいに優越意識を喪失している。
托鉢とは、「空=ひざまずくこと」を交換する行為なのだ。
釈迦は、これが人と人の関係の基本である、と思い定めた。またじっさいにそうであるからこそ、その慣習は、現在の東アジアのいたるところにまで及んでいった。
乞食は、人間存在の原点である。人類は、二本の足で立ち上がることによって「乞食」になったのだ。
自分を捨てて乞食になる(他者にひざまずいてゆく)ことの恍惚というものがある。それは、「消えてゆく」ことの恍惚でもある。直立二足歩行する人間の身体は、「消えてゆく直前」の状態として自覚=体験されている。
言葉は、身体が消えてゆく体験として発生してきた。そして、乞食になることの恍惚こそ芸能の原点でもある。日本列島最初の芸能者は、「ほかいびと」と呼ばれ、家々の前で歌を歌いながら食い物乞うて歩く人々であった。そこから、「ほいと=乞食」という言葉が生まれてきた。
乞食になって人にひざまずいてゆくことの恍惚(カタルシス)もあれば、その乞食にひざまずいてゆく恍惚(カタルシス)もある。直立二足歩行する人間の心の動きは、そのようにできている。
優越意識を追い求めることは、不自然なひとつの病理である。
この社会に生きて暮らしているわれわれは、知らず知らず優越意識を追いかけてしまっている。そうしてうつ病になったり、ボケ老人になったり、EDになってしまったりしている。
現在の乞食であるホームレスが、どれほどクリアにこの世界が見えているか、あなたたちにはわかるまい。彼らの見る青い空とわれわれが仰ぐ青い空は、その青さが違うのですよ。
この世界の「空」を体験するとは、この世界が何も見えないということではなく、空の青さがよりクリアに目にしみる、という体験なのです。他者にときめきひざまずいてゆく、という体験なのです。すなわち、空即是色。
自分が正しいとか清らかだと思っている連中には、わかるまい。つまり、内田氏のように「罪の意識」を失ってしまっている連中には。