内田樹という迷惑・アルカイック・スマイル

「アルカイック・スマイル」という言葉がある。
古代の微笑み、というような意味らしい。
仏教伝来当時の仏像の顔はみな、唇の両端がちょっと上がって微笑む表情をしており、そこに古代人の「素朴な」心や信仰があらわれている、などという解釈がよくなされる。
しかし、日本列島に仏教が伝わった当時は、仏教が生まれて千年くらいたっているのです。そして、仏教が生まれてきたとき、すでに共同体(国家)の発生から千年以上たっている。
仏教やキリスト教は、単純に「素朴な」心が生み出したといえるものではない。そのとき人間の歴史は、すでに成熟した共同体が機能する時代に差し掛かっていた。その矛盾や苦脳や退廃から生まれてきたのだ。そうしてインドには、ギリシア哲学に負けず劣らず高度なインド哲学が成立していた。
現代人は、なんの根拠もなく古代人や原始人に対する優越意識を持っている。あのころのインド人より現代人のほうが、もしかしたらずっと知的にナイーブ(単純)で迷信深いのかもしれないというのに。
そしてその優越意識が、ネアンデルタールを滅んだことにもしてしまっている。
古代の仏像が微笑んでいたことは、単純に「素朴」だったからではない。
結論から先に言ってしまえば、そのとき仏は、人間を許す存在だったからだ。そのとき人間はすでに、それほどに罪の意識に悩まされて生きていたからだ。
それは、人間の罪を許している「微笑み」だった。
そのころ人間は、すでにドストエフスキーの小説の主人公のような苦悩を背負っていた。あるいは、ドストエフスキーは、そういう原始人を描いた、ということだろうか。そこから、宗教が生まれてきた。
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「アルカイック・スマイル(古代の微笑み)」は、古代人の苦悩から生まれてきた。
古代にだって政治や経済の退廃はあったし、自我の肥大化による苦悩もあった。恨みや憎しみや欲求不満が募って人殺しをしてしまう人間もいた。古代だろうと現代だろうと、いい社会だろうと悪い社会だろうと、そういう人間が生まれてくるのが共同体(国家)なのだ。
どんなにいい社会をつくろうとそういう人間は生まれてくるのだし、どんなにいい社会だろうと存在それ自体が個人にとっての桎梏になり、個人を苦悩させる構造を持っている。
いい社会の構想を描ける能力を持っているからといって、えらそうな顔をするな。そういう構想を描こうとするみずからの卑しさをなぜ恥じないのか。
古代人のほうが共同体に対する桎梏は直截だったはずであり、誰もが安楽な暮らしができる状況でもなかった。とくにインドのようなカースト制度の伝統を持った地域なら、なおさらのことだろう。
たぶん現代人よりも、生きてあることの苦悩は、古代人のほうがずっと直截で深かったのだ。
仏の微笑みは、そんな状況から生まれてきた。
単純に「素朴な心」などといってもらっては困る。
彼らは、仏の微笑みによって、それぞれの苦悩を癒していった。そういう状況から生まれてきたのだ。
誰もが、清く正しく生きられないことを深く自覚していた。彼らは、仏の顔に許しの微笑みを刻まずにいられなかった。
世の歴史家は、ヘレニズム文化から伝わってきたとかそんなことばかりいっているが、そうやって「微笑み」を願わずにいられない社会の構造があったということなしには伝わるはずもないのだ。
仏に帰依する古代人は、いい暮らしがしたいとか、幸せになりたいとか、正しく清らかな人間になりたいとか、そんなこと以前に、まず、仏に許されたかった。生きてあることの絶望があった。そこから「アルカイック・スマイル」が生まれてきたのだ。
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その微笑みは、仏の悟りとか安心立命の境地とかを表現しているのではない。「許し」を表現しているのだ。
そして因果なことに人は、仏の許しを得たことによって、許されたいという願いを失っていった、そうして仏の顔からも、「微笑み」が消えていった。
現代社会は「罪の意識を」喪失し、正しく清らかに生きているつもりの人間をあふれさせている。それが、「いい社会」の素性である。
原始仏教では、「殺生」ということを、とても嫌った。修行者は、虫一匹も殺すまいとした。それは、清らかな人間になりたかったからではない。誰もが、先験的に「罪の意識」を抱えていたからだ。
自分のことを清らかな人間だと思っているやつに、ろくなやつがいたためしはない。
みんなで共有して使っている部屋を、ひとりが勝手に掃除しまくって、自分は犠牲的精神を発揮したのだと悦にいっている。他の者は、少々汚くて不便でもその部屋の雑然とした雰囲気が好きだったのに。
で、当人は、みんなのためにしてやったのに誰も感謝しない、とぶつくさ言っている。(内田さん、あなたのことですよ)。
いいことしたとなんか思うなよ。感謝されたいとなんか、思うなよ。自分がきれいにしたかっただけじゃないか。
それは、みんなでつつく料理に勝手に醤油やソースをかけまくってしまうのと一緒だろう。
川の土手をコンクリートで固めてしまうお役所仕事と一緒だろう。
私がこんなに好きなのに、あなたはちっとも好きになってくれないと文句をいうのと一緒だろう。
他者を支配しようとする衝動は、自分に耽溺するところから生まれてくる。
いい社会になって人々が「罪の意識」をなくすと、そういうことになる。共同体からの圧迫が弱くなる代わりに、人と人の関係が支配し合うものになってしまう。そうやって職場の人間関係に悩んだり、うつ病になったり、あげくに認知症になったり、現代社会のさまざまな病理を引き起こしている。
われわれにはもう、「仏の微笑み」という「許し=慈悲」は必要ないのだろうか。