権力者の心と民衆の心・神道と天皇(51)

古事記』は、「神」の系譜の物語である。
そしてその当時の貴族たちの系譜が、そのまま「かみ」の系譜に当てはめて記されてある。
今となっては、天武天皇が『古事記』を起草しようと発案したのかどうかということはわからない。それは、天皇の出自のことだけではなく、まわりの権力者(=貴族)たちの出自やランク付けもこと細かにわかるような書き方になっている。彼らのご先祖はみな「神」であるらしい。つまり、権力社会の「秩序」を整備するために編纂された。
そのときの天皇にもっとも近い権力者の発案だったのかもしれない。
もしもほんとうに天皇が絶対の権力者で、建国の歴史を語るのなら、天皇の出自を語ればいいだけだろう。
自分の先祖が神だったと思っている人間なんかひとりもいないはずなのに、平気でそういうことにしてしまう。その後の歴史においても日本人は、嘘の家系図を捏造することにさほどのうしろめたさもなく、まわりもかんたんに許してしまう傾向がある。戦国時代の成り上がりの武将や大名などはまさにそうだったし、自分たちは平家の落人の末裔であると名乗っている山奥の村もある。まあ、古事記が書かれた時点での権力社会の上下関係が反映されているのだろう。みんなに先祖の神を割り振って与え、受け取るほうもさしたる抵抗もなかった。先祖を架空の神にしてしまうなんてただの遊びではないかともいえるのだが、本気でそう信じていたのではないと同時に、信じなかったのでもない。そこには、嘘を承知でそういうことにして受け入れてゆく日本的メンタリティの不思議がある。その「受動性」の不思議とともに神道の「神=かみ」が造形されていった。
先祖は神だったということも、そのまま受け入れる。この生のことはぜんぶそのまま受け入れる。なぜならこの生のはたらきはこの生の外の「異次元の場」に超出してゆくことであり、「拒否反応=嘆き」とともに受け入れてゆくことこそが超出の契機になる。
われわれの「意識」は「脳=身体」の外の「異次元の場」ではたらいているのであり、人は無意識的本能的に「異次元の場」を思うことができる。「非存在」の「異次元の場」のことを「かみ」という。そして「過去」はもう存在しない「異次元の場」なのだから、それは「かみ」だともいえる。というわけで、ご先祖が「かみ」だということは、それなりにつじつまはあっている。ご先祖は、「非存在」の「異次元の場」にいる。

どう考えても『古事記』は、仏教伝来以降に生まれてきた話でないとつじつまが合わない。日本列島の住民は、仏教によってはじめて「神」という概念を知ったのだ。そしてそれを、やまとことばの「かみ」というニュアンスに読み換えていった。
今では「神」といえば「創造主」のようなニュアンスで解釈されてしまうことが多いが、仏教伝来以前からそうした「創造主」のニュアンスで「かみ」と呼び習わしていたのなら、仏教においてはたんなる仏の弟子にすぎない「神」を「かみ」と読むことはしない。
仏教の「神」は「創造主」でもなんでもないし、神道の「かみ」もまた、そうした「世界の秩序=ヒエラルキー」を想定することに対する「拒否反応」の上に成り立っている。
権力者ばかりが「世界の秩序=ヒエラルキー」を求めて仏教を輸入した。
仏教伝来以前から「かみ」を「創造主」としてイメージしていたのなら、「神」という漢字など採用しない。むしろ「仏」を「かみ」と読む方に整合性がある。
古代人は、この生における「過去」がもはや存在しない「異次元の場」であることを本能的に知っていた。だから、人間の祖先は「かみ」だ、と認識していった。「かみ」とは「異次元の場」のこと。そして「人間」とは「今ここ」のこと。
この生は「今ここ」にしか存在しない。「未来」も「過去」も、「非存在」の「異次元の場」なのだ。

柳田国男折口信夫は、日本人の信仰の本質・伝統に対する解釈で対立した。
どっちもどっちだ。そういう問題の立て方そのものがおかしいのであり、ここで問うているのは、日本列島には「信仰」が存在しないということだ。
柳田は「先祖」に対する信仰が原型だといい、折口は「まれびと」信仰だといった。どちらにもそれなりに根拠がないわけではないが、問題はそれが「信仰ではない」ということにある。
先祖のことを「かみ」といったり、平気で家系図を改ざん・捏造してしまったりする態度を、はたして「信仰」といえるだろうか。
海の向こうに「神の国」があるといったり、山の向こうからやってくる「旅人=まれびと」を篤くもてなしたり、天皇を「かみ=まれびと」として敬ったりする習俗があるといっても、日本列島の住民にとっての「他界」は、「存在する」のではなく「非存在=異次元の場」であり、死後の世界は天国でも地獄でもない何もない真っ暗闇の「黄泉の国」なのだ。
神道のコンセプトの本質は、「非存在=異次元の場」に対する視線にある。「神は隠れている」のだ。それは、「宗教=信仰」ではない。「宗教=信仰」は、もともとありもしないものを「ある=存在する」と認識してゆくことにある。それにたいして神道は、「ない=見えない=わからない」という認識を止揚してゆく。
先祖は「かみ」だということは、先祖なんか存在しないといっているのと同じであり、だから家系図を平気で改ざん・捏造することができる。
この世に生まれてきてしまったことは、それがどんなに取り返しのつかない事態であっても、それはもう、しょうがないことだ。しょうがないこととして受け入れてゆく。
神道古事記の「かみ」は、この生をよいものにするためではなく、この生を「嘆き」とともにそのまま受け入れてゆくためものとして造形されていった。そこに「異次元の場」に超出してゆく契機があり、「宗教=信仰」ではないといわれるゆえんがある。
古代の民衆は、誰も「神の救済」など当てにしていなかった。それがどんなひどいものであっても、この生はこの生のままに受け入れていった。だから権力者は、その生の作法が自分たちにとってとても都合がよいことを本能的に嗅ぎ付け、神道古事記として汲み上げていった。
ともあれ日本列島は、「宗教=信仰」が存在しない国であり、存在しないなりの文化(世界観や生命観)を洗練発達さてきたのだ。

日本列島の伝統は「神の救済」を求めないことにあり、したがって「かみ」である天皇に何かしてもらうことなど当てにしていないし、天皇自身も「何もしない」ことこそその存在証明だった。
歴史文書に天皇が権力者として振る舞ったというふうに書かれてあったとしても、それが史実であったという根拠にはならない。そのつどの権力者たちがそのように記述してきただけかもしれない。権力者であろうとする天皇など平気で島流しにしてしまう歴史風土であり、天皇制は2000年続いたといっても、権力者にとっては殺す必要もないくらい無力な存在だったからだ。
推古天皇の時代に摂政である聖徳太子が権力の頂点にいて、その前後の時代はすべて天皇が権力の頂点にいたというのではつじつまが合わない。いつの時代も実際の権力は、天皇ではなく天皇のまわりの貴族にあり、天皇はただのお飾りだったのかもしれない。ただ、天皇が権力の頂点にいるかのように偽装しないことには権力社会のまとまりがつかなかったし、民衆支配もスムーズにいかない、という世の中全体の仕組みになっていただけではないのか。
明治時代だって、明治天皇が実際にこの国を動かしていたと考えるものなどいないだろう。動かしているかのような手続きになっていただけのことだし、聖徳太子の時代以来ずっとそうだったのかもしれない。
奈良時代の大仏建立は聖武天皇が発願したといっても、その第一義的な目的は崩れかけている民衆支配のための律令体制を立て直すことにあり、それは権力者の発想なのだ。飢饉や疫病の鎮静化を祈願して、などといっても、そんなことは権力者が勝手にでっち上げたたてまえであって、民衆は権力者ほどには「呪術」など信じていなかった。だから、大仏造営にはなかなか民衆の協力が得られなくて四苦八苦したのであり、そのために民衆のカリスマである行基という在野の僧侶を責任者として迎え入れたりした。そのころの民衆は、道路や橋や港やため池などをつくる土木工事は権力の命令がなくても自分たちで熱心にやっていた。そんな彼らは、呪術=宗教で自分たちの飢餓や疫病が解消されるとは信じていなかったし、権力に対する崇拝も国家意識なかった。それはつまり、創造主としての「神」の存在など信じていなかったということであり、その伝統は今なお続いている。戦後の戦災孤児や戦争未亡人に対する福祉は、ほとんど個人の篤志家によってなされていた。
この国の民衆は、「お上」に従うことはしても、「お上」を当てにすることはしない。良くも悪くも、そういうはっきりとした「契約関係」がない。

天皇=人間が「かみ」であるということは、「創造主」など信じていないということだ。
天皇は何もしない。何もしないことこそ「かみ」であることのゆえんであり、何もしないから権力者によって権力の頂点の存在であるかのように仕立て上げられてゆく。
歴史文書など権力者によって書き残されたものにすぎないのであり、それは「史実」とはまた別のものだ。古事記しかり、それがもともと民衆の語り伝えであったのなら、貴族や豪族の系譜のことなど何も問題にしていないはずだ。書き記された時点で、それはもう権力者たちのものになってしまった。
ともあれ民衆が神道という「かみ」の物語を持ってしまったのなら、そこに立って民衆を支配してゆくしかない。そうやって古事記の編纂が計画されていった。その物語がもともと権力社会にあったのなら、仏教が下敷きになっていなければならない。仏教は権力社会から民衆のもとに下りてゆき、神道は民衆のもとから権力社会へと汲み上げられていった。そのようにして権力社会で「神仏習合」が進んでいった。
まあ仏教伝来のころの権力者は仏教によって支配しようとしたがそれだけではうまくいかず、「神仏習合」というかたちにしていった。国家や権力社会の「秩序(=ヒエラルキー)」をつくり上げてゆくためや、権力者自身の死の恐怖からの解放のためには仏教の教えが必要だったし、民衆支配のためには神道を採用するしかなかった。「国家神道」は、そのような「神仏習合」の思考から生まれてきたのであり、民衆が生み出した起源としての古代神道とは別のものだ。
国家神道は紛れもなく宗教だが、起源としての古代神道は宗教とはいえない。日本列島の住民の宗教=信仰の本質など語ってもナンセンスなのだ。日本列島の住民はなぜ「宗教=信仰」のメンタリティが希薄なのかという問題をどうして問おうとしないのか。「宗教=信仰」のメンタリティは人間性の自然であり、「宗教=信仰」のメンタリティによってこの生や死の問題は解決されると、なぜ安直に決めつけるのか。
「宗教=信仰」なんか、人間性の自然でもなんでもない。むしろ、それを喪失したひとつの病理なのだ。そしてそのことを、日本列島の古代の住民は本能的に知っていた。だから「神道」が生まれてきた。
われわれ人類は今、あれこれの民族紛争や移民問題など、いかにして「宗教=信仰」を克服してゆくかという問題を抱えているし、日本列島の住民の世界観や生命観の精神風土は、「宗教=信仰」の上に成り立っているのではない。その「宗教=信仰」においてじつにいいかげんなメンタリティは、人類が「宗教=信仰」を克服してゆくときの突破口になるのかもしれない。
この地球上に宗教的風土の希薄な地域が存在することは、人類の希望なのだ。