受難(災厄)を受け入れるということ・神道と天皇(46)

日本列島の神は、仏教伝来以降に生まれてきた。
古事記の神々の名の多くがなぜあんなにも長ったらしく説明的であるかということだって、名付けられてまだ間がないことを意味している。古くから伝えられてきたのであればもっと簡略化した名になっているはずで、言葉の歴史というのはそういうものだろう。
たとえば、ギリシャ神話の「ゼウス」は、普通「ゼウスの神」とはいわない。「アポロンの神」とはいわない。「ゼウス」「アポロン」というだけで固有の名になっていて、わざわざ「……の神」と断る必要がない。「ゼウス」という言葉は、「ゼウスの神」以外の何ものも意味しない。
しかし古事記においては、そういうかたちの固有の名を持った神はいない。語尾に「……の神(かみ)」とか「……の命(みこと)」をつけて、はじめて神の名になる。もともと「スサノヲ」という言葉はあったが、それは神の名でもなんでもなかった。「スサノヲノミコト」ということによって、はじめて神の名になった。
「天照らす」という言葉は、神の名よりも先に存在した。だから「天照大神アマテラスオオミカミ)」といわなければ神の名にならなかった。
「かみ」という言葉は、今でも「神」の固有名でもなんでもない。語源としての「かみ」は「気づく」こと、大げさにいえば、自分という存在がこの宇宙の森羅万象に溶けてゆく心地のことを「かみ」といった。自分と森羅万象との合一、すなわち「かみ合う」こと、それを「かみ」といった。
仏教でいう「仏」がこの宇宙の森羅万象だとすれば、自分を捨てて「仏」に帰依していった「神」は、宇宙の森羅万象に溶けていった存在だといえる。古代の日本列島の住民は、そのようにして「かみ」の神道を生み出していった。彼らが仏教の「神」という字を「かみ」と読んだことには、漢字から平仮名を生み出したような、きわめて日本的でアクロバティックな「アレンジ=デフォルメ」というか「イメージの飛躍」がなされている。
なぜ「アレンジ=デフォルメ」しなければならなかったかといえば、宗教の歴史を歩んでこなかったから、宗教に対する「拒否反応」があったからだ。

神道の「神(かみ)」は、仏教伝来以前の遠い昔から語り継がれてきたのではなく、そのころにみんなで問い合い語り合いながら生み出されていったのだ。
神道が開祖も教義も戒律もなく非宗教的であるということは、宗教に対する「拒否反応」から生まれてきたことを意味する。
仏教伝来以前の日本列島に神などいなかった。良くも悪くも、昔も今も、宗教がちゃんと機能していない風土なのだ。宗教に対する拒否反応が息づいている風土なのだ。そのとき大和朝廷の権力者たちは仏教による救済を切に願った。が、民衆にはむしろ拒否反応があった。そうして、仏教に対するカウンターカルチャーとしての神道を生み出していった。
生きるとは何か?死とは何か?人とは何か?世界とは何か?……そんなことはもう、原始時代からずっと人類は考え続けてきたのであり、原始人と現代人のどちらの知能が高いかという比較など無意味であるし、それは、大人と子供や若者とどちらが深くもの考えているかと問うのと同じだけ無意味だ。
人それぞれだ、というだけのこと。そして、「生きられないこの世のもっとも弱いもの」こそ、もっとも深く考えている。考えるとは「生きられなさを生きる」ということだ。人はそういう生き方をしてしまう生きものであり、そこにこそ「人間性の自然」がある。
「拒否反応」は大事だ。そこに人間的な知能の本質・自然があり、それこそが「進化」の契機になる。そうやって万物は移ろい流れてゆく。
歴史=伝統は「拒否反応」とともに受け継がれてゆくということ、今どきの知ったかぶりのインテリのように、ただまるごとコピペして受け売りしているだけでは知能も思考も進化発展しないのだ。

起源としての神道は、民衆のあいだから生まれてきた。したがって神道の本領は、「鎮守の森」にある。「夜店」や「盆踊り」にある。そういう「祭りの賑わい」とともに神道が生まれてきた。
神道が宗教になってしまったり、民衆を支配するための道具になってしまったら、もはや神道ではない。
神道は、6世紀の中ごろの仏教伝来のときに、仏教に対するもうひとつの宗教のようなものとして生まれてきた。それは、宗教のようではあっても、宗教ではなかった。
神道には、開祖も教義も救済もない。宗教ではないのだから、そんなものは必要なかった。
誰かひとりがはじめたのではない。いつの間にかなんとなくそのようなかたちなっていったというだけのこと。
ベースになる神道の「場」は最初からあった。どこからともなく人が集まってきて賑わう「お祭り広場」、そこで神道が生まれてきた。そういう「祭りの広場」は、弥生時代からあった。
神社の建物はあとから建てられていったともいわれているが、その広場には遠いところからやってくる人も大勢いるのだから、「ランドマーク」になる建物は必要だったし、何日も続くのなら、みんなの食料や寝床も確保しないといけない。そうしてそこに市(いち)が立ち、数日の賑わいが生まれたりもする。ようするに、夜店の賑わいだ。
そこは、集落ではないが、ひとつの町になっていた。

日本列島の歴史で最初にあらわれてきたカリスマは、呪術師ではなく、「祭りの広場」における歌や踊りの名手だったのではないだろうか。
魏志倭人伝」の卑弥呼は呪術師ということになっているが、それが真実だという証拠はない。ただ、「祭りの広場」における歌や踊りの名手としてのカリスマはいたのかもしれない。そのカリスマが、やがて天皇(おほきみ)という存在になっていった。
日本列島の呪術は、仏教伝来以降に生まれてきた。日本列島オリジナルの呪術などというものはなく、ほとんどすべて大陸からの借り物で、奈良時代以降に呪術が本格化してきたといっても、陰陽道密教のまねごとだった。そしてそういうことに夢中になっていたのは権力社会ばかりで、民衆による土着の呪術というようなものはなかった。やがて民衆社会も、共同体の制度性が持つそうした呪術性に侵蝕されてゆくとしても、それは古代以前の歴史ではなかった。
呪術とはようするに未来という時間を支配しようとするものだが、それは日本列島の無常観の伝統と矛盾する。縄文以来の日本列島の住民は「今ここの向こうは何もない」と思い定めて生きてきたのであれば、その呪術性に対する拒否反応として神道が生まれてきたともいえる。彼らは、「今ここ」の「けがれ」を洗い流して生きることに切だったし、そこにこそ「祭り」のダイナミズムがあった。
まあ彼らは、権力者のように未来に対するあくなき欲望をたぎらせる以前に、「今ここ」に他愛なく豊かにときめきながら生きていた。
仏教伝来に際して蘇我氏物部氏が争ったという話など、おそらく嘘だ。そのとき、仏教に対する親密さにおいて権力者と民衆のあいだに温度差があった、というだけのこと。民衆には仏教に対する忌避の感慨があり、だから神道が生まれてきた。彼らは、仏教を受け入れつつ、仏教を忌避していた。

今でも神社は、「祭りの広場」としての性格を持っている。神社が神道の神を祀ることは、あとから生まれてきたにすぎない。
神社が祀る神を「祭神」という。最初に祭りがあった。神を祀ることが先にあったのなら、「祭」という字を被せる必要はない。
「祭り」のシンボルとして神が祀り上げられていった。仏教伝来とともに、そういうことが列島中に伝播していった。それぞれの地域でそれぞれ独自の「神」をイメージしてゆき、その神の名がその土地の名になったりもしていった。
祀り上げる神を共有していれば、祭りもなおさらに盛り上がる。祭りを盛り上げるための神だから、「祭神」という。
南紀地方が起源だといわれる「スサノヲ」は荒ぶる神だ。荒海と大雨に悩まされ続ける土地のものにとっては、疫病神だともいえる。一般的には、それを神社に祀ってその災厄を鎮めようとした、などといわれているわけだが、そんなことをしても災厄が鎮まるはずもないことは、土地のものがいちばんよく知っている。台風で海が荒れたり大雨が降ったりすることは、来るときは来る。それはもう避けられない。神社に祀ってあるから船を出しても大丈夫、というわけにはいかない。大切なことは、そうした災厄に対してどう対応するかということであり、鎮めようとしても鎮まらないときは鎮まらないし、鎮まるときは鎮まる。
いちばん大切なことは災厄を受け入れ対応すること、ここは災厄のある土地だと自覚すること、そういう暮らしの作法を共有してゆくよりどころとして「スサノヲ」が祀り上げられていったのであって、おそらく鎮めるためだったのではない。仏教伝来以前は、そんな「呪術」など存在しなかった。
「呪術」でなんとかなると信じていたのなら、「祭り」に夢中になることはない。災厄が来たら、もうしょうがない。来たら来たときのことだ、と思い定めるその「覚悟」のよりどころとして、そうした災厄の象徴である「スサノヲ」を祀り上げていった。
べつに祀り上げたからといって災厄が鎮まるとも思っていなかったからこそ、心は「今ここ」に憑依しながら、「祭り」がいやでも盛り上がる。
それは、みずからのこの生が自然に溶けて消えてゆくという生命観や世界観であり、自然を「呪術」によって支配しようとしていったのではない。

もちろん後世には仏教や陰陽道の影響を受けつつ「鎮魂」とか「除霊」というような観念が生まれてきたわけだが、少なくとも起源としての神道においては、そうした呪術的な機能はなかったし、日本列島の住民の意識の基底においては、その災厄を肯定し受け入れている。
神道においては、妖怪や悪霊それ自体が「祭神」として祀り上げられる。本気で「鎮魂」や「除霊」をするためなら、そんなことはありえないわけで、それができる神を祀り上げないことにはつじつまが合わない。
神道の「神(かみ)」は、森羅万象を支配する存在ではなく、森羅万象それ自体なのだ。妖怪や悪霊だろうと、森羅万象それ自体として肯定し受け入れている。つまりその「祭神」は、自我の欲望を実現してくれる存在としてではなく、自我が森羅万象に溶けてゆく体験の上に成り立っている。
古代の仏教と神道の対比は、自我の肥大化とともに起きてくる死の恐怖を飼い慣らしながら森羅万象を支配して生き延びようとする権力者と、死との親密な関係を結びながら自我が森羅万象に溶けて消えてゆくことのカタルシスとともに生きていた民衆との対比でもある。
われわれが日本列島の「伝統」について考える際には、そういう対比はひとまず頭に入れておく必要があるのではないだろうか。権力者の意識と民衆の意識を混同してしまっているから、縄文時代からすでに宗教があったかのような倒錯した問題設定になってくる。