三浦瑠麗といういけ好かない女と天皇制の問題

1・三浦瑠麗という名の勝ち組の政治オタク

彼女は、おしゃべり上手な政治オタクになることによって勝ち組の女になることを目指した。

彼女にとって政治的な知識は勝ち組になるための道具にすぎなかったわけで、政治に対する純粋でひたむきな探究心はなかったらしい。

まあ、彼女だけでなく、今どきの政治オタクのインフルエンサーたちのほとんどは勝ち組の人生であることが第一義的な目的になっている。

 

勝ち組の人生はそんなに大事か?

僕が小学校6年のときに伊勢から九州博多に転校したとき、仲良くなった友達から人生の目的とか社会の仕組みなどを聞かされ、ひどく驚かされた。

その時僕は、人生の目的とか社会のしくみのことなど、まったく考えたことがなかったからだ。

 

あの頃の田舎の子供は、そんなことは考えなかった。

この国の戦後復興が軌道に乗り始めて都市に田舎の人々が流入してくるようになり、都市の発展が進んでくると、子供までもが人生設計や社会の仕組みを考えるようになってくる。それは、人々が資本主義や近代合理主義の価値観に洗脳されていった、ということを意味する。

そしてそういう価値観にうまく乗った者が勝ち組になってゆき、乗れなかったものたちはとうぜん負け組になるしかない。

 

で、この流れは現在まで続いており、バブルがはじけて不景気になった現在において極まったともいえる。

不景気だから、のほほんとしていたら、ふるい落とされてしまう。そうやって勝ち組と負け組の対照が際立ってきた。

勝ち組であろうと懸命に頑張るものと、べつに負け組でもいいやとのほほんと生きているもの。

 

まあこの国の文化の伝統には「敗者の美学」が流れているから、敗者であっても取り立てて不幸だとは思わない。

彼らはのんきに「俺たちバカだから」とか「負け組でも別にいいよ」などと会話しながら、年収200万円以下の非正規社員でも自分は中流だと思っている。

とはいえ中流だと思うことは、さらにその下の下流を差別している意識でもある。

また、日本人であるというそのことだけで、自分はまっとうな中流の市民であるという自覚にもなっている。

 

べつにこのままでもいいや…という意識。それはそれでほほえましい意識であるのだが、同時に無自覚な差別意識にもなっている。

 

そしてそういう若者に対して年長者たちは「無気力だ」と批判し、がんばって勝ち組になった者たちも彼らを徹底的にさげすんでいる。

勝ち組になることは負け組を軽蔑することだし、負け組もまた何らかの軽蔑する対象を持っている。軽蔑する対象を持って、「負け組でもいいや」と安心する。そうやって、いつの間にか差別意識が蔓延する世の中になってしまった。

 

 

2三浦瑠麗といういけ好かない女は…

三浦瑠麗はおそらく、勝ち組になろうと必死に頑張ってきたのだろう。

国際政治学者を名乗るのも、そのためなのだろう。本格的に国際政治を研究している学者からすればただのお嬢ちゃんのお遊びでしかなくても、世の中の政治家や庶民が相手ならいくらでもだますことができる。そうやって彼女は、永田町政治やマスコミ界隈をうまく泳ぎながら勝ち組としてのし上がっていった。

 

そして今、こんなにも叩かれるのは、勝ち組であることを世の中にアピールし過ぎたからだろう。

なんといっても、「敗者の美学」」は、この国の伝統であると同時に、人類普遍の美意識でもある。

誰にとっても勝ち組であるのはうらやましいことであるのだが、同時に胡散臭いとも感じている。

まあ、スノッブを絵に描いたような女だった。

べつに勝ち組であってもいいのだが、ほんとのお嬢様や本格的な研究者はそのことに無自覚だし、いささかの引け目を持っていたりする。

なぜなら、社会的な身分が何であれ、人間は存在そのものにおいて不幸で悲劇的な敗者なのだから。

そこには、金持ちも貧乏人もかしこいもバカもない。

 

三浦瑠麗はいけ好かない女だという感想と、いやいや知的で洗練された美女だと持ち上げるのと、いったいどちらが健全な反応だろうか?

たぶん彼女は、いけ好かない女になってでも勝ち組になりたかったし、いけ好かない勝ち組の女を見てもいけ好かない女だとは思わなかったのだろう。

われわれのような負け組のノンポリのものたちは、勝ち組であることや政治のことをよく知っていることを自慢する人間はなんだかいけ好かないなあ、と思う。

 

日本列島の民衆社会の伝統は、負け組のノンポリであることにあり、その上に立って集団性や人と人の関係性の文化を育ててきた。

ひろゆきであれ三浦瑠璃であれホリエモンであれ、どうしてこんないけ好かない人間ばかりがのさばる世の中になってしまったのだろう。

いけ好かなくても勝ち組であれば魅力的なのか?だとすれば、われわれ民衆の人を見る感性だって地に落ちてしまっている。

 

右翼でも左翼でもどっちでもいいから、もっと素敵な人が登場してきてほしいと思う。

 

三浦瑠麗やひろゆきには、勝ち組であることが自分の存在理由で、負け組を淘汰してゆくことが自然の摂理だと思っているらしい。

それに対して負け組でもべつにかまわないと言いながら、もっと下の層を差別してゆく者たちがいる。

 

これは、日本語の「かみ」」という言葉の問題でもある。

まあもともとのやまとことばとしての「かみ」は、西洋のような自然の摂理をつかさどる存在というような意味ではなく、自然の摂理それ自体のことを言った。

しかし現在のように西洋の近代合理主義に洗脳されている時代においては、日本語の「かみ」もまた自然の摂理を支配する存在であるかのように解釈されている。

 

そして因果なことに、この国では人間だって「かみ」になれる。

だから三浦瑠麗もひろゆきも、勝ち組になることは「かみ」になることだと思った。いけ好かない人間になってでも「かみ」になりたいと思った。

というか、「いけ好かない」と思う美意識=感性そのものをさっぱりと捨てて、ひたすら勝ち組になることを目指してきたらしい。

まあ勝ち組になることを目指すことは、負け組なんか人間じゃないという差別意識でもあり、その差別意識が彼らの言動や振る舞いのいやらしさになっている。

 

彼らは、いけ好かない人間を見てもいけ好かないとは思わないし、自分のことを「いけ好かない」と思う負け組のやつらはみんなひがみ根性なのだ、と思っている。

でも、勝ち組の人たちだって、多くがあの二人のことを「いけ好かない」と思っている。

なぜならこの国の美意識の伝統においては勝ち組であることを自慢するのははしたないことだという伝統があり、それは、勝ち組であろうと負け組であろうと人間は存在そのものにおいて不幸な負け組であるという認識が基本になっているからだ。

そういうセンチメンタリズムがこの国の文化の規定に流れている。

 

そしてこの国の民衆のセンチメンタリズムは、高度に哲学的な実存意識でもある。

 

3・三浦瑠麗と没落日本という泥船

三浦瑠麗やひろゆきのようないけ好かない人間がなぜもてはやされるのか。それはきっと、現在のこの社会が病んでいるからだろう。

この国には、人間が神になれる精神風土がある。

つまり、現在のこの国は三浦瑠麗やひろゆきが「かみ」になってしまう状況があるということだ。

もちろん彼らは「かみ」というほどの人間でもないが、この国ではこの世のもっとももてはやされる人が「かみ」になるわけだから、彼らだって「かみ」になることを目指しているのだろう。

 

そして現在のこの国では勝ち組の人間であることが「かみ」であることの条件であるかのような風潮があるわけだが、それはきわめて近代合理主義的思考であるに違いない。

そうやって彼らは、負け組のものたちを裁き、さげすんでいる。

 

しかし、もともと世界中どこの国の伝説においても、神やメシアは負け組の代表である乞食のような格好で現れると相場が決まっている。つまりその人は、異次元の世界からの使者なのだ。

同様に負け組とは世界の外に立つ存在であり、その異次元性が崇高さになっているわけで、この世界にへばりついて勝ち誇っている者が「かみ」であるものか。

 

三浦瑠麗は、若いころに書いたレポートというか論文の中で、日本が世界に貢献することは日本の「生き様」や「伝統」や「理想」を世界に提示することだ、というような意味のことを言っている。

まあ内容は、とても学者とは思えないような屁理屈で、彼女はこの国の「生きざま」や「伝統」や「理想」そのものを何もわかっていないと思える。

わかっていたら、勝ち組であることを自慢なんかしないし、現在の醜悪な老人たちが支配し腐敗しきった自民党にすり寄ってゆくことなんかしない。

 

お前には美意識というものはないのか、といいたくなる。

ほんとにセンスのいい女なら、勝ち組であることを自慢なんかしないし、あんな醜悪な老人たちと付き合うこと耐えられない。

 

センスが悪すぎるのだ。

センスがいいとは、世間的な善悪とか損得とか美醜とかの価値観を超えて、原始的で普遍的な拒否反応という直感を身体化して持っているということだ。

かんたんに言えば、うまいものが食いたいというのではなく、まずいものは食いたくないという拒否反応のことだ。

 

たとえば一流の研究者は、そうやって「これは違う、これは違う」という拒否反応を繰り返しながらどこまでも深く探求してゆくのであり、三浦瑠麗にはそういう拒否反応がなかった。

腹が減ってがつがつしていれば、何を食ってもうまい。三浦瑠麗もまた、世間的な善悪とか損得とか美醜とかの価値観に飢えてがつがつしているから、「勝ち組はエライ」といういちばん俗っぽい価値観に飛びついてしまった。

 

 

4・三浦瑠璃という女神の失墜と天皇制の問題

やまとことばの「かみ」とは神を認識することであり、神を認識することが「かみになる」ことだった。

つまり、古事記という物語は、われわれの祖先は「かみ」だった、と語っているわけで、そうやって「かみ」を認識することによってわれわれもまた「かみ」の末裔になる、ということだ。

古代の民衆は、その無意識においてそういう理屈を共有していたのだ。

だから誰も「かみ」になろうとは思わなかったが、魅力的な人間が登場するとみんなして「かみ」と祀り上げた。

 

日本列島の伝統においては、人間が「かみ」になる。

しかしそれは、「かみ」になろうとするな、「かみ」を知るものになれ、ということであり、だから「鰯の頭も信心から」という。

「かみを知る」ことを、「かみ」といったのだ。

そして「鰯の頭も信心から」ということはまた、「生きられないこの世のもっとも弱いもの」の中に「かみ」を見ることができるか、という命題を含んでおり、そこにこの国のセンチメンタリズムの伝統の源泉がある。

 

「かみ」になろうとするな、「かみ」」を知るものになれ、ということ。

この国の文化の伝統においては、勝ち組=「かみ」になろうとするのははしたないことなのだ。

そうやってわれわれは、三浦瑠璃やひろゆきのことをいけ好かない人間だと思っているし、それはまた天皇制の問題でもある。

 

天皇は「かみ」になろうとはしていない、われわれ民衆が勝手に「かみ」と祀り上げているだけなのだ。

そして天皇は、この世の外の存在、すなわち「生きられないこの世のもっとも弱いもの」の身代わりとして存在しているわけで、だからこそ「かみ」として祀り上げられてきたのだ。

つまり天皇制は、日本人のセンチメンタリズムのよりどころなのだ。

天皇には戸籍もないし自分の人生を選択する自由もない。天皇とは究極の負け組であり、そこにこそ天皇の崇高さと「かみ」であることのゆえんがあ

 

一部の左翼のあいだでは、天皇制こそ差別の温床であるという認識があるらしいが、もともと天皇は、誰もが平等な原始共産制の社会における差別しないことのよりどころとして祀り上げられていたのだ。

だから原初の天皇は、まず乞食とか遊女とか旅芸人とか身体障碍者などの社会から落ちこぼれたものたちから祀り上げられ、それが一般の民衆のあいだに広がっていったのだ。

この国の天皇は最初から社会の外の存在だったし、今なおそういう存在であることによって祀り上げられているのだ。

 

天皇は、差別される負け組のものたちの心のよりどころであり、そうやって「かみ」として祀り上げられてきたのだ。

だから、ウチナンチューに差別されている沖縄やアイヌの人々は天皇が好きなのだろう。

まあ天皇主義の右翼に差別主義やミソジニーの人間が多いのが現実であるわけだが、それは明治以降の国家神道からくるものであって、日本列島一万年の伝統ではない。

 

ほんらい差別をしないことのよりどころであった天皇制が、なぜ差別の温床になってしまったのか、そのからくりが問題なのだ。

とにかく天皇は勝ち組の三浦瑠璃やひろゆきの味方でもないだろうし、安倍晋三百田尚樹櫻井よしこ杉田水脈天皇に好かれているという話も聞いたことがない。

 

日本列島の民衆社会には差別しないという伝統があるし、この社会にへばりついて勝ち組であることを自慢したがる人間やコスパ主義に走りたがるこすっからい人間を「いけ好かない奴だ」と思う伝統もある。

 

やまとことばの「かみ」という言葉のもっとも重要な意味は「この世界の外」ということにあり、そうやって天皇が「かみ」として祀り上げられてきたのだ。

天皇はこの社会から置き去りにされている負け組のものたちの味方であり、たとえば「天皇家御用達」の起源は、武士や百姓ではないもの、すなわちこの社会の制度の外に置かれた存在としての職人や行商人や旅芸人や旅の僧や娼婦や乞食たちに列島中を漂泊できる自由と人権を与えるためのものだったのだ。

 

明治以前の天皇はもちろん勝ち組の権力社会に幽閉された身ではあったのだが、社会の構造として天皇が負け組のものたちの味方として機能しているという部分もあったわけで、天皇が日本列島に存在するということは、社会制度の外の「無主・無縁」の領域が担保されていたということを意味する。

天皇は「かみ」であると同時に「無主・無縁」の負け組の人であり、負け組であるところにこそ普遍的な人間性の真実が息づいているということを象徴しているのだ。

 

「世間」というこの社会のしがらみに縛られた存在である民衆は、天皇と同じようにそうしたしがらみから解き放たれている者をリーダーとして祀り上げてきた。

三浦瑠麗がなぜいけ好かない女かといえば、裸一貫の「無主・無縁」の場に立つことなく、逆に権力社会にべったりへばりつきながら「かみ」のふりをしてきたからだ。

この国の伝統において「かみ」とは世間のしがらみから解き放たれている存在であり、

だから「人は死んだら神になる」というのだ。

 

世間のしがらみの外に立てば、差別なんかないだろう。

世間のしがらみに縛られへばりついているから、勝ち組にあこがれ、勝ち組であることを自慢したがる。

しかしこの国の民衆は、世間のしがらみに縛られつつも、世間のしがらみを憂い、世間のしがらみから解き放たれている存在にあこがれてきた。

だから三浦瑠麗やひろゆきのようにこの社会に寄生して勝ち組であろうとすることにあくせくしている人間は、けっきょくいけ好かない奴だ、と嫌われることになる。