2008-03-01から1ヶ月間の記事一覧

さくっと」生まれ変わる

近ごろの若者のあいだで、「さくっと」という言葉をよく耳にします。さくっと片付ける、とか、さくっと言い切る、とか、さくっと晴れている、とか、すっきりと小気味よいさまをいうのでしょうか。 清潔な響きの言葉だと思います。 「げろげろ」という言葉が…

まれびと論・49 ろくなもんじゃない

折口信夫は、「海の向こうの常世(とこよ)の国から来訪する神がある」という信仰から「まれびと」の文化が生まれてきた、と言っている。 そんな分析などろくなもんじゃない、と僕は言う。 僕のその言い方は、他者を祝福する態度ではない、と誰かが言う。 お…

まれびと論・46 古代人の信仰のかたち

折口氏が「春の祭り」がいちばん最初にあったと考える根拠は、おそらく彼が説く「市」の起源と関係しているのだろう、と思います。 原初の市は、祭りの場だった。 「全集ノート編・第二巻」で、次のように説明しています。 ________________…

まれびと論・43 畏怖することのカタルシス

畏怖することは、この国の伝統文化です。 畏怖することは、断念することです。 水平線の向こうは何もないのだと断念することによって、「今ここ」が確かになる。 あの山の向こうは何もないのだと断念することによって、「今ここ」が確かになる。 すべてを断…

まれびと論・42 別れの身振り

日本列島では、きちんと終わらなければ、何も始まらない。その代わり「終わりよければすべて良し」などとも言う。つまらないスピーチでも、最後にひとこと名せりふを吐けば、拍手喝采される。 「打ち上げ」は、終わったあとの祝賀会のこと。正確には、「拍ち…

まれびと論・41 古代人の信仰のかたち

川端康成は、「朝(あした)に道を問わば、夕べに死すとも可なり」という言葉が好きだったらしい。小説の中によく出てくるし、そういう揮毫もしばしばしていたのだとか。 もしもその朝に決定的な悟りを得られれば、夕方にはもう死んでしまってもかまわない、…

まれびと論・40 「新嘗」

「新嘗」という言葉の語源の解釈で、ちょっと訂正したいことがあります。 折口氏は、「にひなめ」は、「にへのいみ(贄の忌み)」から転化した、といっています。で、「にへ」とは、高貴な人の食べ物のことであるのだとか。新しく収穫した米を神にお供えして…

まれびと論・39 古代における人の往来と出会いの文化

折口氏は、古代の都が奈良盆地にあったとしても、民衆のほとんどは海辺で暮らしていた、と考えているらしい。 それは、違う。一般の民衆も、ほとんどが内陸部で暮らしていたのです。海辺の平原は、ほとんどが湿地帯だった。 古代に、東海道五十三次のような…

まれびと論・38 「常世信仰」の解体

折口氏の提起する「常世信仰」は、日本列島の住民の暮らしは海辺から始まった、という認識の上に立っています。そして、やがて内陸部で暮らすようになって、もともと来訪する神のイメージであった「まれびと」という言葉が人のことを指して使われるようにも…

まれびと論・37 常世信仰の行方

「まれびと」という言葉は大切だと思っています。 ここまで折口信夫氏にずいぶんいちゃもんをつけてきたけど、ただもうそういう思いゆえのことです。 まだ足りないから、もう少し続けます。 書けるだけは書いてみることが、僕にとっての、せめてもの折口氏に…