まれびと論・46 古代人の信仰のかたち

折口氏が「春の祭り」がいちばん最初にあったと考える根拠は、おそらく彼が説く「市」の起源と関係しているのだろう、と思います。
原初の市は、祭りの場だった。
「全集ノート編・第二巻」で、次のように説明しています。
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山姥が里にやってくるのは、冬の市がたつときである。ところによると山姥でなくて、山人が出てくる。元来この冬の市は、鎮魂の祭りである。すなわち、里の鎮魂の祭りに山姥が出てきて舞を舞うのである。山人すなわち山の神人と、里の人が出会うのが市で、これが日本の「市」の起源である。それゆえ、市はたいてい山の裾にあって、ただの平地にはない。そこで山のものと里のものを交換するのである。
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ここでの「冬」は、冬が終わろうとしている「初春」のころです。
では、交換の品としての「山のもの」とは何か。たぶん山人は、舞を舞っただけなのだろうと思います。山は、そろそろ食料が乏しくなってくるころです。そして里は、何もしない冬の暮らしに飽きてくるころです。だから、山人の来訪は、おおいに歓迎したでしょう。踊ってもらう代わりに、食料を与えてもてなした。
これは、「キャンプ」体験です。
里では、野宿をするということをほとんどしない。しかし山をさすらって狩りをしている人々は、いつも野宿をしている。そうして寒さをしのぐために焚き火をし、酒を飲んで歌ったり踊ったりしている。そうやって身についた歌や踊りを披露しにやって来る。
たぶんこういうことは、縄文時代からやっているはずです。ただそれが、折口氏がいうように冬の一回だけになっていったのは、時代とともに農耕栽培する里の暮らしが忙しくなっていったり、里だけの祭りが充実していったからでしょう。
それでも、冬の終わりごろになると、何かこの生を離れたところに立っているような心地が起きてくる。何かこの世ならぬものと出会っているような心地がしてくる。
そういう「出会い」の気分を視覚化するかたちで山人の来訪が習慣化されていったのでしょう。その体験によって里の者たちは、この一年間の生きるいとなみの穢れがすっかり洗い流されてゆくようなカタルシスを体験した。
すなわち、折口氏の「まれびと論」がいうような「常世信仰」だの「神や貴人に対するもてなし」だのを持ち出してくるまでもなく、日本列島ではすでに大昔からそうした「まれびとの文化」を持っていた、ということです。
「まれびとの文化」は「神や貴人」をもてなしたところから始まっているのではない。そうやって「山人」をもてなすというところからでも、すでに始まっている。また「まれびとの文化」である日本列島における「市」の起源は、「交換」ではなく「もてなす」という行為にあったらしい。
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そして折口氏によれば、もうひとつの「市」の起源として、山人が山から下りてきて村はずれに「春のおとづれ」をことほぐ木の苗を置き、村びとがそれと引き換えに食い物を渡すということもあったのだとか。
たしかに、日本列島の信仰に、「木」は重要な役割をしています。天皇家の「右近の橘・左近の桜」とか、民衆が門口に門松を立てるとか、木はめでたいものであるという習俗がある。
木は、「たて」に伸びてゆく。そういうこととも関係があるのかもしれない。また、家の「柱」に対する信仰もある。それは、「男根信仰」であると同時に、この世界を「天と地」の関係で了解しようとする信仰でもある。
しかし、「市」の歴史は、おそらく折口氏が考えるよりももっと古い。
縄文人だって、交易をしていた。富山県で取れるヒスイの玉が秋田県の遺跡から出てくるとか、天竜川の上流で取れる黒曜石が伊豆の神津島で発見されたりしています。
いやそんなことよりも、もっとも原始的な交易を考えた場合、ただたんに与えて受け取るだけの「異人=他者」を「もてなす=祝福する」という関係があっただけのはずです。この関係から、古代における村どうしや村と山人との「交換」という行為に発展していったのでしょう。日本列島の大昔には、男たちが女たちの小集落を訪ねてゆくという時代があった。おそらく「市」の起源はそこにある。
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縄文時代のいちばん大きな男女の出会いの体験は、秋の終わりにあります。そこで彼らは、雪に閉じ込められるひと冬を一緒に過ごすパートナーを求めあった。
また秋は、男たちにとっては、狩に熱中する季節でもあります。彼らは、猪や鹿などは、脂が乗って肉のうまい秋から冬にかけての季節にしか狩りをしなかった。そういう獲物を手土産にして、女たちの集落を訪ねてゆく。そして女たちは、精一杯のもてなしでこれを迎えた。
つまりそこで、狩の獲物と篤いもてなしが「交換」された。厳密にいえば、「交換」したのではない。どちらも「与える=もらう」という行為をしただけです。
そのとき女たちの集落は、まさしく「市」だった。集落の広場に男たちが持ってきた狩の獲物が並べられ、女たちがそれを料理して祝宴を催す。「市」とは、もともと祝祭の場だったのだ。
「祭り」も「市」も、神に対する信仰から始まったのではない。人と人が「祝福」し合う感慨から生まれてきた。それだけのことだ。
市の起源を説明するとき、折口氏だけでなく研究者はみな、共同体(村)の内と外の境界において発生した、と言いたがるのだが、その起源においては、村そのものが市だった。つまり、市は、共同体の論理が生み出したのではなく、人と人の出会おうとする行動性というか「出会いのときめき」から生まれてきたのだ。共同体が市を生み出したのではなく、はじめに市があった。
あるところで男と女がであってセックスをした・・・・・・それじたいがもう、いろんな意味で「交換」という契機をはらむ行為であったはずです。おたがいの足りないものを与えあい、受け取りあったわけだから。
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「いち」の「い」は、声が外に出ていかないで体とぴったりひとつになってゆくような発声です。だから「一(いち)」というし、「いのいちばん」というときの「なにをさておいても」という気分の表象にもなる。
「ち」は、息がとても細く小さくなって出てゆく発声です。だから、「ちぎれる」とか「ちいさい」という。「小さい」「細い」「切断」「集中」などの概念を表す。
語源として考えるなら、「市(いち)」とは、日常から切り離されて「今ここ」で世界もこの生も完結している、という感慨が生まれる祝祭(神=他者との出会い)の場、ということになります。そういうカタルシスを体験する場として、「市」が始まった。もともとは、祝福しもてなそうとする出会いの場であっただけで、たぶん「交換」という意識はなかった。「交換」しようとして市が始まったのではない、市が習慣化していった結果として、「交換」という行為が生まれてきたのだ。
古代や中世にそこが治外法権の場になっていたのは、もともと祝福しもてなす場であったという歴史があったからでしょう。
「善意」の場だった、というのではないですよ。そこで世界が完結しているという、そういう何もかもが終わってしまうカタルシスが生まれる気配を、その場所が漂わせていたからでしょう。そのようにして誰もがその場所を神聖視していた時代があった。
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折口氏は、「市」の発生も「常世の神の来訪」も「春のおとづれ」をことほぐ行事だったといっているのだが、そうじゃないのです。
日本列島の祭りや信仰は、世界がここで終わる、という感慨から生まれてきた。人びとはそういう感慨で他者=異人をもてなしたのであり、それが「まれびとの文化」なのだ。
縄文人にとっては、秋の終わりの出会いのときめきと冬の終わりの名残惜しさこそ、もっとも大きく心が動く季節だった。とにかく彼らは、そういう暮らしを一万年近く続けてきたのであり、であればその余韻はとうぜんその後の時代にも受け継がれていったはずです。
この「終わり」のカタルシスにこそ、日本列島の住民のもっともたしかに他者と出会い神と出会う体験があった。そこから信仰=祭りのかたちがつくられていったのだ。
人びとは、一年の終わりを「冬」にした。それは、「春」が待ち焦がれる季節ではなかったことを意味する。冬の終わりに、人生(=命)が終わってしまったような気分になったからだ。古代人は、終わって生まれ変わってゆく気分を、秋の終わりと冬の終わりに体験していた。秋の終わりから冬にかけての季節こそ、彼らの心がもっとも昂揚する季節だった。
春になって苗床作りから田植えと続いてきた一連の農作業が、六月に入って雨が降るようになると、米作りがひとまず軌道に乗ったことのカタルシスをおぼえる。そこで人々は「神今食(しんこんじき)」という新嘗祭に似た祭りをする。これを折口氏は、はるか昔に沖縄から移住してきた村びとによる二期作の習慣の名残を示す「二度の秋祭り」だという。なんだかわざとらしいこじつけです。古代や中世に沖縄から村ごと移住してきたということなどあるはずがないし、そんな証拠もいっさいない。そんな先祖の記憶だけで意味もなく祭りが続けられてゆくことなどあるはずがない。祭りは、「今ここ」の暮らしを癒すために繰り返されてゆくのだ。
米作りの農民にとって六月の雨がどんなにほっとする「恵み=おとづれ」であることか。
日本列島の住民の季節感は、「春のおとづれ」だけがとくべつだというような、そんな単純なものじゃない。
祭りは、終わりのカタルシスとともにある。ここでこの生が完結するという昂揚感とカタルシスが祭りを盛り上げる。研究者たちは、祭りを共同体のシステムとして語ることばかりしている。しかし、それが命のいとなみであるという側面についても考えた方がいいように思えます。

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まれびと論・50 古代人の信仰のかたち

日本列島における稲の栽培は、約5千年前の縄文時代の中期から始まっています。
そのころに、大陸から人が渡ってきて伝えたのでしょうか。
そんなはずがない。そのころ大陸といえども、大海原を航行する船などなかった。「三国志」の時代が弥生時代だから、それよりもさらに3千年も前のことです。
ましてや、朝鮮半島の民間人が丸木舟とたいして変わらない原始的な舟でやってこられるところではなかった。だいいち、彼らは、海の向こうに日本列島があるということを知らなかった。
おそらく、海流に乗って漂着した種が自生してゆき、それを縄文人が栽培するようになったのでしょう。
もちろんそれは陸稲で、水田栽培は弥生時代にあくまで大陸から伝わったのだと歴史家は主張しています。しかし、縄文時代からすでに水田らしきものがつくられていたという遺跡も見つかっています。
稲を育てることは、日本列島で独自に発達してきたのだと考えたら、どうしていけないのでしょう。
その水田耕作の稲の種は、中国大陸の揚子江流域のものと同じであるのだとか。朝鮮半島のものとは違うらしい。揚子江から渡ってくるには、種だけが海流に流されてくる以外にはないはずです。
朝鮮半島では、水田のことを「畑」といいます。朝鮮半島から伝わってきたのなら、日本列島でも「畑」といっていたはずです。しかし日本列島では、朝鮮半島とも中国大陸の「でん」とも違う「た」という呼び方を持っていた。それをあとの時代になって、中国大陸の「田」という漢字を当てただけです。
漢字の「田」は、平面の区画を表している。
それに対してやまとことばの「た」は、「立つ」の「た」です。稲が成長して立ってゆくところです。天の恵みを受けながら稲が立ち上がってゆく土地のことを、「た」という。そういう「たて」の世界が描かれている。それはたぶん、縄文人の感性です。
すくなくとも中国大陸とはまったく違う世界観から生まれてきた言葉であるはずです。
この世界に対して、大陸では「横」のスペースがまっさきに頭に浮かぶが、日本列島では、自然に「たて」の世界がイメージされてしまう。
縄文時代から「田」はあったのだから、とうぜんそれを意味する言葉もあったでしょう。そして、稲作に関する用語は、すべてやまとことばです。中国や朝鮮から渡ってきた言葉など何もない。これは、おおいに変です。中国や朝鮮から伝えられたのなら、こんなことはありえないはずです。
「稲(いね)」という言葉にしても、東南アジアの「イネップ」という言葉からきたのだなんていっている歴史家もいるらしいのだが、たとえ似ていても、それはそれで日本列島ならではの感慨から生まれてきた言葉のはずです。
「根」は、「土」でしょう。手塩にかけて育てながら、土の上からすっくと立ち上がっていくのを見守る、その感慨から生まれてきたのではないだろうか。「い」は、「いきおい」「いっき」「いっしん」「いっきょ」「いきる」の「い」。「い」は、「集中」「注目」「親密」を表す。「いとうれし」などとも言います。そういうとくべつな感慨がこめられた「い」ではないでしょうか。
「いね」とは、土の命、生きている土、土の輝き・・・・・・そんなような感慨から生まれてきた言葉ではないでしょうか。
「なえどこ」とか「なえしろ」とか「あぜみち」とか「たうえ」とか、みんなやまとことばだし、「にひなめ」の祭りだって、大陸の模倣であるなら、大陸の言葉の痕跡が残っているでしょう。
「よね」なんてじつに味わい深い言葉で、それが人の名にも地名にも使われているということは、その言葉に対する日本列島の住民の愛着の深さを物語っている。
稲作が日本列島で生まれ育った文化であって、どうしていけないのですか。
天皇家なんか関係ないですよ。縄文時代から引き継がれてきた文化だといいたいのです。
「た」は「立つ」で、土地と天との関係を表している。そして「いね」「よね」の「ね」は、「土」に対する感慨の深さによる。
日本列島の住民のよろこびの根源も、「穢れ」の根源も、「土」にあった。この国の歴史がいかに「土」との深い関係に結ばれてあるかということを考えたとき、「海の彼方にある常世の国」という信仰を根源に据えようとする分析など、まったくたわごととしか思えない。
「土」は、「天」との関係において存在している。そして「いね」は、天と地が出会い結ばれることの「かたしろ(表象)」として育てられていた。「いね」が順調に生育するとき、「土」もまた祝福されている。
日本列島の土の上に暮らす人びとは、天の祝福を「いね」に託した。そして、祝福されてあることの喜びが「よね」という言葉になった。

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まれびと論・47 天を仰ぎ、地を見つめる信仰

きりがないと思いながら、どうしても古代人の信仰のかたちにこだわってしまいます。折口氏とは、ここで決着をつけなければならない。
古代人にとっての「神」とはどんな対象だったのか。折口氏はたぶん、すでにそこのところで躓いてしまっているから「語源」の説明もいいかげんなのだ。
「まれびとの文化」は神(=天皇)や貴人をもてなしたところから始まっている、という説明は、どうしても許せない。この国の根源である文化が、まず権力社会でつくられ、そこから下りてきたのだという言い方は、絶対許せない。
文化というのは、権力社会でつくられるものなのか。
文化は、知識人がつくり、民衆に与えてやるものなのか。
「国文学の発生・まれびとの意義」という論稿には、そういう反吐が出そうなほどいやらしい言い方をしている部分がたくさんある。
古代人がどういう思いで生き、どういう神を信仰し、どういう文化を育ててきたかという問題は、権力社会の問題に過ぎないのか。民衆はただ、何の工夫もなくそれをちょうだいしてきただけなのか。
権力社会のそういう神や貴人のもてなし方だって、民衆によって育てられてきた文化の上に成り立っているのだということ、そこのところがわかっていないあなたの思考は決定的に愚劣で傲慢だ、と折口氏に言いたい。
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南紀熊野は、海辺の地域なのに、どうして「熊」というのか。
うしろに山があったからではない。
海辺の地方では「神」のことを「くま」といっていたからです。そして、やがて奈良盆地でも「くま」という言い方が併用されるようになっていったのは、そのころ海辺の暮らしを捨てて奈良盆地に流れ込んでいった人がたくさんいたからでしょう。であればその時代は、古事記が編纂された飛鳥時代以前のことになります。折口氏は、平安時代になってから海辺から内陸部に人が流れ込んでいったのだといっているが、そうじゃないのです。大和朝廷は、もともと奈良盆地に住んでいた人たちが、海辺から流れ込んできた人たちを吸収しながら成立拡大していったのです。その奈良盆地に住んでいた人びとを「アマツカミ」、海辺からやって来た人を「クニツカミ」に象徴させながら、古事記の物語が出来上がっていった。
「クニツカミ」の代表であるあの恐ろしい「スサノオノミコト」は、もともと南紀熊野の神だった、といわれている。
「くまの」の「く」は、緊張の音韻。「く」と発声するとき、体が収縮するような心地をともなっている。
「ま」は、口の中に息がやわらかく満ちてゆく発声で、「安定」もしくは「停滞」の感慨が表象される。
「くま」は、恐怖で体が固まってしまうさま。
そして「の」は、「連続」を意味する。だから、「春の風」というように接続詞として使われる。「のう」と呼びかけるときは、相手と自分を接続しようとしている。「野(の)」とは、平地が続いている場所。で、これが土ではなく水であれば、「海」になる。
「くまの」とは、「怖い海」という意味です。怖いから、海が神だったのだ。
なのに多くの研究者は、「神の海」という解釈で思考停止して、それを海辺の人の海に対する愛着であるかのように言う。
そして折口氏もまた、海辺に住む古代人の海への親しみが海の彼方の理想郷である「常世の国」に対する信仰を深めていった、といっているが、いい気なものです。海辺の人にとっての海はとても怖いところであり、そこから「スサノオ」の神がイメージされていったのです。
南紀熊野は、ちょっと沖に漕ぎ出せば、そこはもう太平洋の荒波です。そういう海を前にして、どうして「常世」の楽土などに憧れていられよう。
海からの収穫しか当てに出来なかったそのころ、その荒波に呑まれて海の底に沈んでいった人がたくさんいたにちがいない。
古事記において、海を渡ってやってきた最初の天皇である神武天皇の兄たちがことごとく海に呑まれて沈んでいった話として語られているのは、そうした海辺からやってきた人たちの体験談をもとにしているのではないだろうか。
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古事記によれば、その神武天皇は、宮崎の高天原(たかまがはら)から瀬戸内海を通ってやってきたことになっているが、大阪の河内平野で奈良盆地の豪族にいったん追い払われて南紀熊野まで迂回してゆき、そこから山の中を行軍しながら奈良盆地に入っていったのだとか。
熊野から吉野にかけての山中は、鬱蒼とした杉林です。一行は、たちまち方角がわからなくなってしまった。そこで、サッカー日本代表のシンボルであるあの「ヤタガラス」が現れ、道案内をしてくれた、という物語の展開です。
「ま」という音韻は、横に広がる地面や人間関係の安定・充足(もしくは停滞・固着)が表象されています。それに対して「ヤタガラス」の「た」という音韻は、たてに安定するさまの表象です。「た」と発声するとき、体の中を息が垂直に降りてゆく心地がする。だから、「立つ」という。
「や」は、息が遠くまで抜けてゆく心地の発声で、はるかに遠いさまを表象している。
「ヤタガラス」の「ヤタ」は、目の上の高いところ、天空という意味。「ヤタガラス」とは、真上の空に現れたカラスのことです。鬱蒼とした杉林だから、真上でなければ見えない。そういう「たて」に遠い方向のことを「やた」という。
「田」は、太陽の光や雨などの「天」とつながってはじめて安定する土地のこと。稲の「たて」への成長も表されているのかもしれない。いずれにせよ、そういう意味で、もう「た」としかいいようがない。
広い平原も地平線を見ることもなかった日本列島では、「たて」の世界が見つけ出されていった。「よこ」に広がってゆこうとする欲望など持ちようがない国土だった。「横」への広がりを断念して、「天」との関係に安心立命をめざした。そういう意味で、歴史のはじめに「ヤタガラス」があらわれたことは、象徴的です。日本列島の住民の「たて」を志向する無意識が、そういう物語をつくらせたのかもしれない。
したがって、天の「天照大神」に対する信仰は、必然的な帰結であろうと思えます。
「天地のへだたり」という。この国には、「よこ」のへだたりはない。「よこ」は、「床(とこ)」として、つねにコンパクトに限定される。「よこ」の「よ」は、消失を表す。その向こうは何もない「ここ」が、「よこ」です。そうやって「よこ=平面」が限定されるから、「立つ」ことができる。「よこ=平面」を限定しながら、「天」との関係を模索してゆくのが、この国の信仰のかたちだった。
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直立二足歩行は、みずからが存在する「床(とこ)」を小さく限定して「たて」の安定を目指す姿勢です。そういう意味で、日本文化は、「よこ」の広がりを志向する大陸の文化よりも根源的であるといえます。
人間は、「たて」にこの身体を安定させようとする本能的な衝動を持っている。そういう姿勢の究極のかたちとして、畳の上に座るというイメージが生まれてきた。
椅子に座るのは、いつでも立ち上がることのできる姿勢です。しかし畳の上に座る姿勢は、もうそこで世界が完結してしまっている。いつ死んでもかまわない、という姿勢です。だから、正座して切腹した。
胸・原・性器などの急所を外に晒す直立二足歩行は、他者に対して攻撃されてもかまわない、という覚悟を示す姿勢であり、畳に座ることも同じです。人格はそこで完結し、「たて」に消えてゆく。
それに対して西洋のテーブルマナーは、攻撃する意志がないことを示すために、つねに手をテーブルの上に置いておかなければならない。人格が拡大してゆく人たちの文化です。
人格が拡大すること、すなわち「よこ」の広がりを志向する海の彼方の「常世の国」に対する信仰、それは、みずからの世界を小さく「たて」に限定してゆこうとするこの国の信仰のかたちと矛盾している。
日本列島の信仰は、海の彼方に思いを馳せることを断念し、空を仰ぎ地を見つめるところから始まっている。

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まれびと論・48 「かみ」のかたち

われわれにとって、欧米でのクリスマスの意義、というようなことにはあまり興味がない。目の前でクリスマスツリーが飾られてお祝いがなされていることに、めでたさを感じているだけです。
そのとき、神は、目の前にいる。ヨーロッパという遠いところにいる神がどんな存在であるかということなど、たいした問題じゃない。そんなことを考える前に、われわれはすでにクリスマスツリーを前にして「神」と出会っているのだ。
欧米人に、神やイエス・キリストがどうとかといわれても、われわれの知ったことではない。われわれにはわれわれの、神との出会いの流儀がある。この国の伝統においては、目の前に存在するものはすべて「神のかたち」だと思っているから、クリスマスツリーにもおおいにめでたさを感じるわけで、欧米人が「ほんとうの神もイエス・キリストの意義も知らないくせに」といおうと、そんなことはよけいなお世話なのです。
何はともあれわれわれは、それを「神」として迎えているのだ。やつらが日本の祭りを目の前にしても、ただのおもしろい見世物だとしか思っていないじゃないか。
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日本列島では、遠くの神に憧れたりはしない。すでに「今ここ」で出会っている。
神は、目の前に存在する。もしくは天上に存在する。
天上に向かって礼拝するのにスペースは要らない。天上は、目の前のものに礼拝するよりももっとスペースを必要としない。
日本列島の住民は、目の前に見えているものか、スペースを必要としない天上しか信じない。
ご来光を拝むことはしても、水平線を拝むことはしない。その朝日も、やがて天上に達する。
日本列島における礼拝は、限定されたスペースで行われる。
神は「今ここ」に存在するという意識で礼拝しているのであって、他界の神など信じていない。
「他界」ではなく、「今ここ」において、神と人間との決定的な「間=裂け目」」が横たわっている。その「間=裂け目」をはさんで、われわれは神と出会っている。
神は、やってこない。なぜなら、われわれはすでに神とともに存在しているからだ。
人と神とのあいだには、絶対的な「裂け目=間」が横たわっている。だから、人は神を畏怖する。神は、遠い憧れではない。今ここで出会いつつ、決定的に「不在」である対象なのだ。
目の前に見えている山や森や池や海や太陽や星や月、それじたいが神の「かたち」であると同時に「神」そのものではない。
この世界に山が存在することは、とても不思議なことだ。そういう感慨で、畏怖しながら山の「かたち」として現れた神と出会う。
畏怖して、身体が収縮し、消滅してゆく心地がする。そしてそのあとに「身体の輪郭」という神との「裂け目=間(ま)」が生まれる。私の身体が「輪郭」だけを残して「不在」になること、それが神と出会うという体験です。そして神もまた、山の「輪郭=かたち」を持ちながら、「不在」の対象として現れている。
山の「かたち」は「神」であるが、山が「神」であるわけではない。山の「かたち」は「神」であるが、山そのものは「神」ではない。
「神」は「不在」である。その「かたち=輪郭」を現すだけだ。
「不在」だからこそ、「すでに出会っている」のだ。
われわれは、身体の輪郭という「間」を「他者=神」とのあいだに感じている。そして「他者=神」もまた、「輪郭=かたち」として現れる。そういう神と人との「間」の表象として、家の門口や神社の鳥居にしめ縄飾りをしつらえる。それは、神と出会うためのものではなく、すでに神と出会っていることのカタルシスを表している。
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日本列島の歴史は、はじめに、海を前にして畏怖する体験があった。この体験の上に他者との関係が生まれ、信仰のかたちがつくられてきた。
そのとき縄文人は、「よこ」に広がってゆくことを断念して、空を仰ぎ、地を見つめた。はるか遠い水平線を眺めながら、あの向こうには行けない、と断念した。日本列島の住民には、「断念する」という心の動きが歴史的に深くしみ込んでいる。だから、他者を前にしても、「私」は「あなた」のことがわからない、という思いに浸される。わからない、という態度をとろうとする。その断念の表象として、「間(ま)」がイメージされていった。
意識はつねに「今ここ」に立ち尽くして、「よこ」に広がってゆかない。広がってゆくことを断念して、天を仰ぎ、地を見つめる。
「私(=この身体)」と「世界」とのあいだには「間(ま)=裂け目」が存在している、という認識を持つとき、一緒に暮らす男女は、その「間=裂け目」があいまいになってゆくことにいらだったり、不安を覚えたりする。
その「間=裂け目」がたしかに存在するのは、知らないものどうしの「出会い」の場においてしかない。こうして縄文時代の男女は、知らないものどうしの「出会い」の場に立ちつづけることを選択していった。
この国の「まれびとの文化」は、そこから始まっている。
「まれびと」の「ま」は、充足して安らいでいるさま。「出会いの場」という、人がもっとも安らぎ充足できる「間(ま)」においてあらわれる人のことを「まれびと」という。あるいは、そういう安らぎや充足やときめきを与えてくれる人のことを「まれびと」という。
「あれ」と「これ」の「間(ま)」にあるから、「まれ」という。折口氏の言うような「唯一」という意味ではない。
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「私」と「他者」とのあいだには、「間=裂け目」が存在している。他者の心の中などわからない。しかし一緒に暮らせば、なんだかわかったような気になって鬱陶しくなり、しだいに関係が穢れてゆく。
「出会いの場」においては、「わからない」ということそれじたいが安らぎになり、ときめきになる。その「間=裂け目」をはさんで一体化を希求し合うこと、そういう根源的な不可能性の中で出会っている「不在」の対象が「まれびと」なのだ。
遠く離れていれば、「間=裂け目」は存在しない。だから、遠く離れている他者=神のことは「まれびと」とはいわない。そして、一緒に暮らせば、「間=裂け目」があいまいになっている。
「間」は、「出会いの場」においてのみ止揚される。「間」は、そこで生まれる。
「出会っている」という身振り、これが、古代の日本列島における暮らしの流儀であり、信仰のかたちだった。
生きてあることは、すでに他者や世界と出会っていることであり、遠く離れている人を待つことでも、「海の彼方にある常世の国」に対する憧れを持つことでもない。
縄文時代、誰も海の向こうに行くことはできなかったし、誰もやってこなかった。そういう伝統の上にこの国の歴史があるのだ。
この国では、何者をも待ち焦がれたりはしなかった。すでに出会っている「不在」の他者=神が「まれびと」なのだ。
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朝起きて、家族どうしで「おはよう」とあいさつを交わす。これだって、ひとつの「出会い」の体験です。彼らは、どこからやって来たのでもない。それでも、誰もが新しく生まれ変わって出会ったような気分になれるのが朝の目覚めであり、そういう人間の普遍的な身振りを生活のすみずみまでゆきわたらせてゆこうとしたのが「まれびとの文化」です。
日本列島では、家族どうしでさえ、「同伴者」ではなく、「出会い」の対象としての「まれびと」だった。
地平線の向こうから得体の知れない「他者=異人」がいつもやってくる大陸では、みずからのアイデンティティを守るために、「同伴者」という「仲間」や「神」が必要だった。そうして共同体が生まれ、規範がつくられ、「公共心」が育っていった。彼らにとっては、「他者=異人」との出会いよりも、「同伴者」との結束=共同性がだいいちだった。
しかしこの国では「公共心」は育たなかったし、縄文人は、1万年近く共同体を持たない暮らしを続けていた。それは、水平線の向こうから人がやってくるということがない地域だったから、そういう「他者=異人」に対して自分たちのアイデンティティを守らねばならない体験をしなかったからだ。
この国ではむしろ、「出会い」そのものが止揚されていった。
われわれは、「同伴者」を持たない。いったん「同伴者」を持たない存在となって「神=他者」と出会おうとするのがこの国の信仰のかたちであり、生活の流儀だった。
氷河期が明けた1万2千年前に、縄文人は、この狭い日本列島に置き去りにされてしまった。日本列島では、「個」はつねに置き去りにされてある。置き去りにされてあることの「嘆き」を携えて、「神=他者」と「出会う」のだ。
われわれは、遠いところにいる神に憧れたりはしない。そんな発想が生まれてくるような歴史を生きてこなかった。われわれは「すでに出会っている」神を意識する。「遠くの親戚より近くの他人」というではないか。「すでに出会っている」対象しか信じない。置き去りにされてあるものにとっては、「遠くの常世の神」よりも、「近くの鰯の頭」との「出会い」こそが大切だった。
古代の日本列島の住民は、「常世の神」に憧れてなどいなかった。「今ここ」の「出会い」が果たされている神が信仰されていった。置き去りにされてあるものには、限定された空間しか存在しない。そうやってこの国では、「出会いの場」という限定された「床(とこ)」が信じられていったのであり、それが「まれびとの文化」の起源なのだ。