まれびと論・49 ろくなもんじゃない

折口信夫は、「海の向こうの常世(とこよ)の国から来訪する神がある」という信仰から「まれびと」の文化が生まれてきた、と言っている。
そんな分析などろくなもんじゃない、と僕は言う。
僕のその言い方は、他者を祝福する態度ではない、と誰かが言う。
おまえは、折口信夫の「まれびと論」のすばらしいところを抽出できないのか、と言う。
その通りです、と僕は答える。そんなふうに読みこなす教養なんか、僕にはない。僕は、「まれびと」の文化の本質を探りたいだけで、その「国文学の発生・まれびとの意義」という論考のどこがすばらしいのかなんて、わからない。ただ、「まれびと」の文化を考える参考にはおおいになる、と思ってこだわってきただけです。刺激されるというか、触発されるというか、そういう意味でありがたい論稿だとは思っている。
だから、あなたたちのように、かるくコメントして「はい終わり」というようなことはしなかった。行けるところまで行こうと思ってここまで書いてきた。
小松和彦氏の「異人論」にしても、内田樹氏の「私家版・ユダヤ文化論」にしても、「くだらないこと書きやがって」と思っただけだけど、それなりの敬意は表したつもりです。
「くだらないこと書きやがって」と思ったらいけないのですか。
僕は、多くのブログ管理人たちのような祝福の仕方もしないし、知識をひけらかすような分析もようしない。彼らのやっていることは、祝福する自分を祝福しているだけだ。祝福できる自分を見せびらかしているだけだ。そうやって祝福されたがっているだけじゃないか。
そういう意味で僕は、祝福することが正義だと主張するつもりはさらさらない。
そんなもの、うすぎたないスケベ根性だ。
あんまり中途半端な祝福ばかりやっていると、底の浅さを見透かされますよ。
見る人は見ている。
まあ、それで俗受けはするでしょう。みんな、自分の人生やこの世界を気持よく納得したがっていますからね。人びとは、幸せや安心を食べて生きている。
しかしそれは、安心を提供しているだけで、真実を差し出しているのではない。いや、真実なんて誰にもわからないが、すくなくともそれは、真実を問おうとする態度ではない。真実は誰にもわからないということを掲げてニュートラルな立場を装いながら、すっきりとわかったようなことを言う。ずいぶん手の込んだ詐術だ。
僕は、分析して納得なんかしていない。縄文時代のことも、ネアンデルタールことも、直立二足歩行の起源のことも、永久に答えられることのない問いを繰り返しているだけだ。
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私は本など読みません、あしからず、と言った人がいるが、読書の快楽をまさぐるフェティシズムは、「問い」を喪失している。こちらだって読んでいないわけでもないが、そういう読書家と出会うと、うんざりしてそう答えたくなるときはある。
僕にとって「国文学の発生・まれびとの意義」を読むことは、楽しい体験でもなんでもない。「そりゃあないよ」と嘆きながら繰り返し読んできた。
生きてあることは、問うことだ、と思う。納得することではない。問うても、答えは返ってこない。問い返されるだけだ。
「とふ」と「こたふ」は対句である、と折口信夫が言っている。
ヴィトゲンシュタインは、他者との関係は「教える=学ぶ」の関係であると言ったそうだが、この国においては、「問い」しかない。「こたふ」は「こ・とふ」、すなわち問い返すこと。
「ごめんください、本日はお日柄もよく、皆さんはお元気ですか」
「はい、おかげさまで。あなた様も、お元気そうで」
「いえいえ、もうとしです。ところで本日は町内会の会費をいただきに上がったのですが、ご都合はよろしいでしょうか」
「よろしかったら、上がってお茶でも飲んでいきませんか」
「お庭の梅は、もう咲きましたか」
梅の花はお好きですか。まだ五分咲きですが、さあ、どうぞどうぞ」
「この陽気なら、すぐ満開になるでしょうな」
「さあ、梅は桜とちがってそう急(せ)くということもしませんからね。どうでしょうか」
もう、えんえんと「問い」が交換されてゆく。
「こたふ」は、「こ・とふ」。「こ」は「親子」とか「小春日和」「小正月」と言うように、従属して反復・模倣されるさま。「こたふ」は、問い返すこと。
小津安二郎の映画の、
「いい天気だなあ」
「ほんと、いいお天気」
「もうすぐ春だなあ」
「もうすぐ春ね」
男と女のこんな会話は、もっと端的にそうした関係を表している。
彼らは、相手に対してではなく、相手と自分との「間(ま)」に向かって問い合っている。そこで、「出会い」という体験をしている。
「教える=学ぶ」の関係は、すでに関係の中にあることによって成立する。
しかし小津映画のふたりは、関係を解体しつつたがいに「間」と向き合っている。ともにその「間」に、ひとつの「問い」として反復の言葉を投げ入れながら、言葉で抱擁し合っている。
彼らは、おたがいを祝福し合ってなどいない。出会っていることの「気分=感慨」を表現し合っている。祝福しているのは、天気ばかりだ。
「とふ」とは、たがいの「間」に言葉を投げ入れること。教えてもらいたいのではない。
その問いが答えられることはない。問い返されるだけだ。
「出会いのときめき」は、関係を結ぶことではなく、関係を欲求すること。そして欲求しつづける身振りとして、果てしなく問いが交換されてゆく。
「いい天気だなあ」と言って口説くことのできる出会いの体験がある。彼らは、出合いつづけるために、関係を結ぶことを回避しあい、関係を欲求し合っている。
相手をほめて口説くのは、二流の男のすることだ。ちまたに溢れているそういう身ぶりの底の浅い分析と同じように。
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この国は、相手をほめて口説くという伝統がない。
「ツマドイ」は、戸のなかの見えない相手に向かって語りかける。したがって、相手をほめるよりも、まわりの景色を描写したりしながら自分の気持を表現してゆくしかない。
「祝う」の「いわ」と「岩」が、なぜ同じ発音なのか。
「い」は、体の一点に力が集中してゆく体感の音韻。だから「いち」というし、岩を前にしたときの圧倒されているような緊張感の表現にもなる。「わ」は、口が開いてゆく動きがもっともあからさまになる発声。「わあ」とよろこんだり、「わっ」と驚いたりする。ゆえに「いわ」は、ひとつのことに向かって心が開いてゆく(よろこぶ)さまや、大きなものに対する驚きの表現になる。
「祝う」という言葉は、自分のよろこびを表現しているのであって、相手のめでたさをほめているのではない。「出会う=祝う」とは、よろこぶ体験であって、相手のすばらしさを冷静に分析してほめる行為ではない。
つまりやまとことば(日本語)は、かっこつけて「分析」するような言葉ではないのですね。そのときのみずからの「反応」を表現する言葉なのです。そういう言葉を使って暮らしているわれわれは、そういう限界と可能性を持っている。
折口氏は、「まれびと」の文化の歴史は、まず「貴人や神を賓客として迎える」習俗として始まった、といっています。祝福してほめるからには、相手のすばらしさ(めでたさや高貴さ)にたいする認識がなければならない、と彼は思っている。じっさい「国文学の発生・まれびとの意義」は、終始こうしたニュアンスの書きざまです。
あえて言います。折口氏は、そういう分析をしてしまう自分の卑しさに気づいていない。
古代のやまとことばに、相手の様子を分析してほめる、というような言葉などなかった。「祝う」という言葉すらみずからの感慨の表現にすぎないのであり、それは、彼らが折口氏のいうような、相手の高貴さやめでたさをあげつらって(分析して)ほめる、というような卑しい心の動きなど持っていなかったことを意味する。
ほめるなら、おたがいが出会っていることの感慨の表現として、その場の眺めをほめていたのだ。「いい天気だなあ」というように。
日本列島における「祝福する」ことは、こざかしく相手を分析してほめることではない、「問う」ことなのだ。
貴人や神の高貴さやめでたさを祝福して「まれびと」の文化が始まったのではない。純粋に人と人が「出会う」ということそれじたいの感慨として始まったのだ。
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「まれびと論」は、ひとまずこれで終わりです。ところでもしも山姥さんが読んでくれていたとしたら、ひとこと付け加えておきたいことがあります。僕のこの試みは、あなたを不愉快にさせたのでしょうか。それが、とても気にかかります。
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ともあれ、折口信夫のまれびと論の語り口がいかに愚劣かということを、ここまで原稿用紙に直して約600枚、提出してみました。
文句があるなら、誰でもいいからかかってこいよ、という気分です。
どいつもこいつも、かっこつけた言葉で文章を飾りながら、知識を競い合っているだけじゃないですか。知識の中で、右往左往しているだけじゃないですか。
小松和彦氏だろうと中沢新一氏だろうと、安っぽいことほざいてるだけじゃないですか。
この人たちを批判することなんか簡単なことで、かかずらわっていたくなかったから、折口信夫に挑戦してみたわけです。
どこまで「人間」について「歴史」について錘をおろしてゆくことができるか、そういう部分で僕は、いったい彼らの誰を信用すればいいのか。誰の後姿も見えずに暗澹とするばかりです。