さくっと」生まれ変わる


近ごろの若者のあいだで、「さくっと」という言葉をよく耳にします。さくっと片付ける、とか、さくっと言い切る、とか、さくっと晴れている、とか、すっきりと小気味よいさまをいうのでしょうか。
清潔な響きの言葉だと思います。
「げろげろ」という言葉が妖怪やおばけの表象だとすれば、「さくっと」は、神を表している。
「さくっと」の「さく」はもちろん「裂く」でしょう。人は、人格が裂けて「神」になる。どんなに自我を拡大していっても、「神」にはなれない。「さくっと」は、人格が裂けて神になれる古代的な心性の表象だと思えます。いや、縄文的、というべきでしょうか。いずれにせよ、われわれが「やまとことば」をつかう民族だということを、あらためて思い知らされます。
大人たちは「努力せよ」とか「成長しろ」とか言う。そうやって段階的に時間をかけて若者をみちびこうとする。人生の問題は、そのようにして解決されてゆくものだと思っている。かれらは、自分たちの現在が若者の未来のかたちであることにして、自分たちの優越性とアイデンティティを確認しようとする。
しかし現代の若者は、それを拒否する。問題は「さくっと」解決されるものだ、と思っている。安直だからではない。それが、日本列島の伝統的な心の動きだからでしょう。
この国では、さくっと人が「かみ」になる、のです。
成長なんかしたくない。努力なんかしたくない。大人になんかなりたくない。彼らは、自我の拡大を嫌がっている。そのささやかな自我のまま、「今ここ」でたちまち「かみ」になる体験があるのだということに気づき始めている。
それは、さくっと人格が裂けることだ。
どんなわがまま娘も、すてきな男と出会ってときめけば、たちまち従順でいじらしいマゾ女になる。
たぶん、引きこもりの若者だって、どこかのスイッチボタンが押されれば、その日のうちに生まれ変わるのです。つまり、ここから成長してゆくのだというような遠い道のりのことを考えるのではなく、「すべては終わった」というカタルシスがあればいいのです。
さくっと人格が裂けて、未来でも過去でもない「今ここ」に立つこと、それはとても難しいことであると同時に、なろうと思わないでも知らない間に気がついたらなっていた、ということでもある。
生きていれば、そういう「かみ」との「出会い」の瞬間がある。
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大人たちが、おまえは成長していない、努力が足りない、と若者にいうとき、そうやって自我を拡大せよ、と迫っている。大人たちは、「自分は正しい」「自分はこれでいい」と思いたがっている。ここまで生きていて、いまさら生き方や思想を変更することはできない。したくない。
これは、残りの人生が少ないから、というだけの問題ではない。むかしの人は「老いては子に従え」といったが、現代の大人たちは、そういうことができない人たちなのです。
なぜでしょうか。
昔は、親から子へと引き継がれてゆく「伝統」というものを共有していた。だから、わりと安心して子供に従うことができたが、現代は、たぶん絶対的な断絶があるのです。伝統を共有していない。
もう、子供は異人種だ、という思いがどこかにある。
彼らにとって、子供に従うことは、自分の人生を否定してしまうことらしい。
だから、そんなことはできない。彼らは、子供に教えを乞うことも、子供から乞われることもない。
その代わり、頑張って自分で研究する。残り少ない人生だからこそ、何とか「これでよかったのだ」と確認したい。カルチャースクールは相変わらず盛況だし、大学に入り直す人もめずらしくない。「生涯学習」なんて、妙なスローガンも幅を利かせている。
禅やらスピリチュアルやら、いろいろと宗教に凝る人も多い。
彼らは、自分の人生や思想が否定されることを、とても怖がっている。話なんかしなくても、子供は自分を否定する存在になってしまっている、ということがなんとなくわかる。表面的に仲のよい親子を演じていても、その世界観が根底的に違ってしまっていることを、どこかで感じている。
現代の大人たちの「生涯学習」なんて、ただの「強迫観念」です。
気取ったおじさんやおばさんが、最近「小乗仏教」に凝っています、なんていっても、底の浅い知識だけで、けっきょくは必死に自分を肯定しようとしているのだな、という強迫観念が透けて見えるばかりです。
彼らのいうことを大雑把にくくってしまえば、どうやら仏教が持つ「輪廻」の世界観にすがろうとしているらしい。ようするに、死んでも生まれ変わりたいわけで、生まれ変わったらやり直したい、とどこかしらで思っている。
つまり、心の隅で、私の人生は間違っていたのではないか、子供の方が正しいのではないかと、すきま風に吹かれて足もとが揺らぐような気分になっている。
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では、なぜそんな断絶が起きてきたのだろう。
大人たちは、戦後の高度経済成長社会を生きてきた人たちです。
太平洋戦争の敗戦を契機にして、この国では、歴史を清算し、伝統を屠り去った。そうして、近代合理主義の理念で邁進してきた。そういうことの反省を、知識人だけじゃなく、世の大人たちみんなが多かれ少なかれ抱え始めている。
そこで、自分のこれまでの生き方や思想と伝統との接点を何とか見つけ出したいと思う。そうやって、自分の人生が正当であったことを、「伝統」の中で確認したい。
大人たちだって、気の毒といえば気の毒です。子供のときからそうやって自我を拡大してゆくことこそ成長だという教育を受けて、そういう生き方しかできないように育てられてきたのですからね。
しかし、伝統を否定して西洋合理主義の価値や規範を追いかけて生きてきた人たちが、その伝統に自分が正しかったことのお墨付きをもらおうとしているのだから、ややこしい話です。
たしかにややこしいのだけれど、西洋の近代合理主義と仏教は、あんがいうまく結びつくものらしい。そうして彼らは、納得し、安心する。免罪符を得たような気分になる。
しかし、仏教は、もともと大陸で生まれたものです。海に囲まれたこの国の底流となっている伝統とは違う。大人たちがそうやって安心を得たとしても、若者との断絶が解消するわけではない。若者を否定する足場をなお固めただけです。
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若者たちによみがえりつつある伝統というのは、大人たちが確認していることとはちょっと違う。
たとえば彼らは、どんな「かみ」も受け入れてしまう。キリスト教の行事だろうと、初詣だろうと、アニメの美少女だろうと、ケータイの絵文字だろうと、マツモトキヨシだろうと、すべてを「かみ」として受け入れてしまうことができる。彼らは「いわしの頭」を信心することができる。
しかし、大人たちはできない。彼らは、「小乗仏教」でなければならないのだ。つまり、相変わらず「価値=規範」にすがろうとしている。
若者たちは、もっといいかげんです。かんたんに何かに引きずられてしまう。だが、そういう節操のなさこそ、この国の伝統なのです。
大人たちは、人間は成長するものだと思っているが、彼らはそうは思っていない。この世界は「さくっと」けりをつけるものだと思っている。
人間が「成長」するものだなんて、自我の拡大をはかろうとする近代合理主義の妄想です。われわれよりも子供の方が、ずっと深く世界を認識している。こちらはだんだん愚かになっていって、その愚かさを知識で補っているだけのことだ。
世界が存在することそれじたいに対する驚きやときめきは、子供しか体験できない。彼らは、そういう日々を生きている。
だから大人は、子供たちに対して、大人になんかならないで欲しいと願っているくらいでちょうどいいのかもしれない。
ところが現代の大人たちは、自分が子供たちの未来の姿であるという確証を欲しがっている。それが、「生涯学習」というムーブメントの奥に隠された無意識であろうと思えます。
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大人になんかなりたくない、という現代の子供たちに「未来」などというものはなく、「いまここ」があるだけだ。「さくっと」という言葉は、「今ここ」の象徴なのだ。
大人たちは、「負うた子=若者」から学ぶことを拒否し、なおも自我の拡大を目指してひたすら「生涯学習」に走る。それが、ときに若者を追いつめ、また大人たちじしんが鬱病認知症になってしまう結果を引き起こしてもいる。
何かを知ったって無駄なのです。「問う=出会う」ことによって、脳は生き生きとはたらくのだ。死に損ないの大人たちが問うことのできる相手はもう、若者しかいないはずです。その若者という「他者」との出会いに驚きときめくことができないのなら、勝手に鬱病でも認知症にでもなってしまえばいい。
死に損ないどうしで肯きあっていたって、堂々巡りを繰り返すばかりでしょう。そういう堂々巡りのはてに、鬱病とか認知症にたどり着く。
彼らは、つねに価値や規範に照らし合わせて自分を肯定して生きてきたが、いずれは誰もが価値や規範から脱落していかなければならない。そのとき、さあどうする。脱落しそうな自分を「生涯学習」で支えきることができるか。思考力も記憶力も衰えて、学習の足取りがおぼつかなくなってくる。学習すればするほど、自分がいかに価値や規範から脱落していっているかがわかってくる。あなたはもう、成長することができない。そうだ、あなたなんか生きている価値のない人間だ、という声がどこかから聞こえてくる。
さあ、どうする?
鬱に沈むか、錯乱するか。
やがて学習を放り出して、誰かにかまってもらうことで、自分を肯定しようとする。まだまだ私に興味をを示してくれる人がいる、と確認すること。それが、最後の砦だ。
そうして、相も変わらず価値や規範でまわりの人間を選別している。しかしそれは、自分を生きている価値のない人間だと選別することでもある。もはや、この堂々巡りを死ぬまで続けるしかないのか。
入院する。
「頑張って」と声をかけられることは、今のあなたは生きている価値のない人間だと宣言されているようなもので、ぎくりとする。
ぎくりとしていないで、その通りですと認めるべきだ。生きている価値があるのは、あなた以外の人間だけなのだ。そう思って、価値も規範もかなぐり捨てて、少しは他人に興味を示せよ。「自分」などというわずらわしいものをいささかも持っていない生まれたばかりの子供のような気分になって、この世界を眺めてみろよ。
あなたの「自分」など、執着しなければならないような価値など何もないのだ。
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現代の大人たちは、自分を消してしまう身振りを持っていない。だからとても目障りで、若い娘から粗大ゴミのように見られるお父さんも出てくる。
それは、あなたが娘を追いつめるようにして育てたからだ。そういうトラウマがなければ、娘だって、そんなことは思わない。
俺はそんなひどいことはしていない、と言ってもしょうがない。自分を肯定するその身振りの存在そのものにおいて、娘を追いつめてきたのだ。
「自分」に対する執着の強い大人に育てられた若者たちは、いつも置き去りにされそうな不安を胸の底に抱えて育ってきた。「わるい子」になったら、置いてけぼりにされてしまう。だから、自分が「いい子」か「わるい子」かということなどよくわからないほどに自我を縮小させてしまうことで生き延びようとしてきた。また、「僕はわるい子だ」とわかってしまう子は不幸だ。「いい子」を演じつづけている子も、幸せとはいえない。彼もまた、演じつづければならないほどに、大人たちが価値や規範に執着していることに気づいてしまったのだ。
いずれにせよ、彼らの自我は、あやうく、もろい。
かんたんに傷ついてしまうし、かんたんにときめいてしまう。
あるいは、どちらに心が動くのもやめてしまった子もいる。
彼らは、自分の心をうまくコントロールできない。自分の心がどのように動いてゆくのかと、後から追いすがっているだけだ。そして、うまくコントロールできないから、ときに動くのをやめてしまいもする。
かんたんに動いてしまう子も、動かない子も、大人たちを怖がっている。大人たちにうんざりしている。彼らは、すでに他者=大人とのあいだに横たわる「裂け目=間」を見てしまった。
自我の強い大人たちは自分を正しく清らかな存在だと思っているが、若者たちは、そういう大人たちから追いつめられている自分の「穢れ」を自覚している。
蛇ににらまれた蛙は、「今ここ」で消えてしまうしか逃れるすべはない。
さくっと消えてしまうしかない。
そうやって今、さくっと「かみ」と「出会う」ことのできる古代の心性がよみがえろうとしている。
「さくっと」は、出会いのときめきのことだ。
引きこもりの若者は、大人たちの教育によってではなく、「まれびと」である「あなた」の笑顔によってさくっと生まれ変わるのだ、たぶん。