「ひとりでは生きられないのも芸のうち」か?・・1  はじめに

このレポートは、あまりに品性がなさ過ぎるから出すまいと思っていたのだけれど、気が変わりました。
わめき続けることにしました。
どうか、やっつけてください。それでやめます。
なんだか、真珠湾攻撃するばかな日本軍みたいな気分です。
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内田樹氏の近刊に対する感想というか批判です。
僕ほどではないかもしれないけど、この人の言うこともそうとう愚劣です。
まず、他者に対する畏れというものがない。自分の書いたものが自分のねらいどおり伝わると思っている。こう書けば他者が感心する、と決めてかかっている。そういう予定調和の言説空間に身を置いて読者をたぶらかすのが「愛」だと思っている。
「愛」とは、なれなれしさのことなのか。
そうやって善男善女をたらしこむのがいちばんいい商売になるのだろうが、そんな言い方をされて悲鳴をあげている読者もいる。それが世の中というものでしょう。そういう読者を切り捨て置き去りにしてゆくのがいい社会をつくることだと思っているのだろうか。この世の中は、「愛」にあふれた善男善女でなければ住み着いてはいけないのだろうか。
あなたなしでは生きてゆけない」・・・・・・これが、愛を語るこの本の決めぜりふです。
まったく、笑わせてくれる。あんたが生きてゆけようと生きてゆけまいと、他人様の知ったこっちゃないだろう。それは、他人なんか俺が生きてゆくためにだけ存在しているのだ、と言っているのと同じなのですよ。
僕は、自分なんか生きていてもしょうがない人間だと思っているから、そんなことは、とてもじゃないがよう言わない。
僕には「あなたなしでは生きてゆけない」と訴える資格はない。もしそんなことを言って「おまえなんかさっさと死んじまえ」と言い返されたら、「その通りでした、ごめんなさい」とうなだれるだけです。きっとそうです。もう100パーセントそうするだけだろうという自信があります。
あなたなしでは生きてゆけない」なんて、それがどんなに傲慢で恥知らずな言い草か、どうしてわからないのだろう。頭悪いのかなあ。
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人に道を訪ねるとか、人間というのは、何かにつけて「あなたなしでは生きてゆけない」という態度をとってしまう生きものではあるが、「あなたなしでは生きてゆけない」と思うことの不可能性を負っている存在でもある。
それは、「あなた」のことを「問う」態度であって、「私」を「教える」態度ではない。
そのとき「私」は、すでに「あなた」によって生かされているのです。
道に迷って生きていてもしょうがない自分が、生かされているのです。「あなた」の存在そのものが、すでに「私」を生かしているのです。「私」が知りたいのは、「あなた」のこと(知識)であって、道に迷っている「私」のことではない。そして「あなた」を知ることによって、「私」は「生きてゆく」ことができる。
実際問題として、その人を見つけて道を聞いてみようと思った時点で、すでに道に迷っていることの不安は半分以上消えてしまっているのです。つまりそのとき、「道に迷っている自分」に対する関心が消えて、ひたすら「あなた」に関心を向けている。
たとえば、「私」は「あなた」を見て、「人間て素晴らしいなあ」と思う。そのとき「私」は、「あなた」を見てうっとりしてしまっているから、自分のことなんか忘れている。
「私」が気づくことができる自分なんか、「腹が減っている自分」とか「息苦しい自分」とか「痛がっている自分」とか「寒がっている自分」とか、「道に迷っている自分」とか、何かを考えたがったりしたがったり欲しがったりしている「欲求不満の自分」とか、とにかくそういう「生きていてもしょうがない自分」ばかりです。
そういう空腹や息苦しさや寒さを訴えてくる生きていてもしょうがない「欲求不満の自分」が、食い物という「あなた」、空気という「あなた」、セーターという「あなた」と出会って、消えてゆく。
「あなた」と出会うとは、「あなた」ばかりを感じて、自分に対する意識が消えてゆくことです。
したがって、「あなた」と出会って、「あなたなしでは生きてゆけない自分」を思うことは、論理的に不可能なのです。
それは、飯を食いながら、飯を食わないと生きてゆけない、と思っているのと同じくらい倒錯した意識なのです。
「あなた」が存在すると気づくことは、「私」が消えてしまうことなのです。
「意識はつねに何かについての意識である」・・・・・・これは、現象学の定理です。すなわち、意識は二つのことを同時に意識することはできない、ということです。
であれば、「あなた」に対する愛が深い人ほど「あなたなしでは生きていけない自分」など忘れている、ということになります。
あなたなしでは生きてゆけない」なんて、ようするに薄汚いナルシズムをさらけ出しているだけの言い草なのです。
つまり内田氏のいう「私の他者に対する始原の遅れ」なんて、口先だけのただの知識で、実感なんか何もともなっていない、ということです。実感がともなっていないから、そのことに照らし合わせてそれがどんなに愚劣な言い草かということにまるで気づかない。
他者に対して「始原の遅れ」を実感するということなら、内田氏より僕のほうがはるかに身銭を払って生きてきた。
「始原の遅れ」を実感していないから、そうやって何の後ろめたさもなく他人をたらしこむことばかりしていられるのだ。
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上手に書いて他人をたらしこむのも芸のうち、というところでしょうか。彼は、自分の生き方も他人もこの社会も、テクニックだけでなんとかできると思っている。
この社会は、りこうな人のアドバイスを受けてつくられてゆくものでしょうか。僕は、スピノザのいうとおり、歴史に「原因」などというものはなく「結果」があるだけだと思っている。誰も歴史をつくることはできない。どうすればいいかということを提言されても、興味はない。僕にとっては、社会はどんなふうに動いているのだろうということが気にかかるだけです。
いい社会が来て欲しいとも思わない。そんなあつかましいことは思わないことにしている。そりゃあひどい社会になるのはいやだけど、いい社会だって、信用はしない。そうして、歴史は人間の顔をしているが、歴史が人間の思う通りに動いていた時代などないのだと思っている。
俺が社会をよくしてやる、俺のいう通りにすれば社会はよくなる、というわけですか。
いい社会をめざすことは、はたして正義だろうか。
いい社会が実現したら、人間は万歳なのか。
どんないい社会であろうと、社会が存在するということじたいが、個人にとって袋小路に追いつめられているような気分になってしまうこともあるでしょう。たとえばニートや引きこもりの若者のような、そういう個人は人でなしなのか。生きる資格がないのか。
社会(共同体)が存在することは正義なのか。
歴史がそういうふうに動いていっているのならそれはもう承服するしかないことだとは思うが、社会(共同体)が存在するべき必然性は果たしてあるのだろうか、とも考えてしまう。
また、この本の前半では、労働の意義ということをさかんに強調しているが、労働に意義があるのかどうかということについては、人類の誰もまだ最終的な解答を示すことができていない問題です。
「労働の意義は、他者と労働の成果を分かち合うことにある」といわれてもねえ、いまいちぴんとこない。
若者がこう言って、あなたは否定できますか。
働かないで遊んで暮らしたいと思って何が悪い、そんなひまがあったら彼女とエッチしていたいと思って何が悪い、ボケーっと昼寝していたいと思って何が悪い・・・・・・と。
人間ほど怠惰な生き物もいない、といっている哲学者だっているじゃないですか。
誰だってそうやって生きていたい部分はあるでしょう。
そうやって生きていける立場の人がそうやって生きてゆこうとすることは、たぶん自然なことです。そういう人に、働け、という権利は誰にもない。働かないと年取ってから困るよ、といったって、年取るまでその人が生きているのを保証してやることなんか誰もできない。
年取ったら取ったなりにうまくやっていくかもしれない。いちいち他人に指図されるいわれはない。うまくやってゆける人はうまくやっていくし、うまくやっていけない人はうまくやっていけない。それだけのこと、それも人生、これも人生、みんな「自分」というたったひとつの人生しか生きられないのだもの。どう生きようと勝手だし、うまくやっていけない人の人生にも、うまくやっていけた人には体験できないその人だけの味わいがある。
どういう人生がよくて、どう生きればいいなどということは、誰にもいえない。誰の人生だろうと、「自分」以上でも以下でも以外でもない。
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すべての人間は、明日死ぬかもしれない存在です。生きているということは死んでいないということであり、次の瞬間死んでしまう可能性を持って存在している、ということです。そういう人間に対して、いいから黙って働け、とどうしていえるのか。
内田氏のいう通り働き始めた人間が明日死んでしまい、その葬式に出席したあなたは、彼も意義ある最後の一日を送れてよかった、と平然としていうのか。
あなたは、この生の最後の一日を、働いて過ごすのと、彼女とエッチして過ごすのとどちらを選ぶ?
人が他者に対してとるべき態度、とることのできる態度。
内田氏は、他者のために生きなさい、という。
しかし僕のようなだめ人間は、そんなことはようしない。
僕は、自分勝手な人間であるし、他者を畏れてもいる。出会った人に反応すること、それ以上のことは何もできない。
他者のために生きるとは、他者よりも自分のほうが先行して存在していると思っているものの態度です。
他者は、何もしてくれなくても、存在そのものにおいてすでに私を生かしている。そのことに深く気づくなら、私が「返礼」するものも何もない。
私は、他者のために生きない。すでに他者によって生かされている。私は、他者に「返礼」しない。他者に「反応」する。「反応」を表現する。それは、他者に生かされている態度です。私が他者のためにできることは何もない。なぜなら他者は、私に先行して存在している。
他者のために生きるだなんて、そんな恩着せがましくおためごかしなことはいうもんじゃない。私は、すでに他者によって生かされている。私が他者のために生きることは、根源的に不可能なのだ。
「始原の遅れ」、内田氏はこのことを深く思い知っていない。
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「私」と「他者」のあいだには決定的な裂け目がある、その裂け目をはさんで「出会う」から、ひとは驚きもすればときめきもするのだ。
「裂け目」があるからこそ、内田氏のように人をたらしこもうとするものもいれば、驚きときめくものもいるし、僕のように途方に暮れたりうんざりしてしまったりする人間もいる。
愛や善意があればそれでいいとも思わないし、そんなスローガンに奉仕して生きていかねばならない義務など誰にもない。
他者に反応することは、他者をたらしこむことじゃない。愛することでもない。出会っているという「今ここ」の事態に、驚きときめくことだ。
愛したって無駄なのだ。自分が愛しているからといって、相手も自分を愛することを要求する権利なんか誰にもないし、愛し合う必要もない。
ただもう他者の存在に反応し、反応を表現することができればいいだけだ。
他者に反応することは、能動でも受動でもない。きちんと反応すれば、表現せずにいられなくなる。表現してしまう。表現することが、反応することだ。
人と人は反応し合うのであって、愛し合うのではない、と僕は思っている。
人と人のあいだには、決定的な裂け目が横たわっている。その裂け目をはさんで出会うのであり、誰もそれを越えることはできない。
相手のもとに届けるものなど何もない。相手から届けられるものも何もない。ただもう反応し合っているだけ、そうやって抱きしめ合えればいいだけでしょう。
「ひとりでは生きられないのも芸のうち」というが、この世のもっとも純粋で深い「出会いのときめき」は、太平洋を泳ぐ一匹のウミガメが他のウミガメと出会ったときに体験される。
誰もが、悠久のときの中の一瞬としてこの世に現れた存在です。そういう存在どうしが出会うことの奇跡、それは、太平洋の中でウミガメどうしが出会うことと同じでしょう。
他者の存在に深く気づくということ、そういう「出会いのときめき」をひとつの「奇跡」として体験するためにこそ、ひとりぼっちであるという気分は大切であろうと思えます。
「ひとりぼっちになれるのも芸のうち」なのだ。
自分が愛に溢れた人間だということをひけらかして、何がうれしいのか。僕は、誰も愛さない。誰からも愛されていない。愛する前に、反応してしまっている。愛される前に、他者の存在そのものに、すでに反応してしまっている。
だから、「愛」なんか知らない。
僕は、他者から何ものも受け取らないし、何も与えない。
僕のすることも言葉も、すべて「反応」であって、「愛」ではない。
僕は、他者の表情や身振りや言葉に反応することはできるが、他者の心なんか知らない。そしてそのとき他者に見とれて自分を忘れているから、自分の心も知らない。
ゆえに、「愛」なんか知らない。