心とは、拒否反応という現象である。
美しい、と感動する心の動きは、醜いことに対する拒否反応の上に成り立っている。しかしそれは、美と醜を「差異化」しているのではない。世の中には醜いものもあれば美しいものもある、と納得しているのではない。その美しいものがこの世界のすべてだ、と納得している。世界がそれだけになり、この生が「いまここ」だけになってしまう体験を「感動」という。
それは、非日常に連れてゆかれる心である。それは、日常に対する拒否反応がなければ起きない。心は、そのようにして動く。
住みにくいところに住み着いてゆくほどに心が豊かに動く、そのようにして人類は、地球の隅々まで拡散していった。
裸の木に桜の花が満開になってゆけば「美しい」と感動するだろう。そうやって心が揺さぶられる。その違和感が感動である。
それが裸の木であったとき、心はそのことを受け入れていた。それをあたりまえのこと(日常)として生きていた。
しかし花が咲けば、その日常が破られ、新しい世界(非日常)に迷い込んだような心地になる。
人は、どんなに住みにくい地に住み着いても、その現実を受け入れてしまう。それは、「いまここ」でこの生を完結させてしまおうとする衝動を持っているからだ。ほかにもっと住みよいところがあるのではないか、となんか思わない。
一日一日が新しい世界(非日常)であるかのような感動は、明日も生きてあることができるかどうかわからないような住みにくい地に住み着いているからこそ体験される。原初の人類は、そのようにして世界の隅々まで拡散していった。
人間は、生きてあることに「嘆き」を抱えているから、新しく世界が生起したことに大きく心が動いてしまう。そして、その「いまここ」をこの世界のすべてだと思ってしまう。
美しく咲き誇った桜の花を見れば、人はもう、「世界はここで完結している」と思ってしまう。つまり、その瞬間だけは、人間の属性としての「死の恐怖」から解放されている、ということだ。
感動とは、この生が「いまここ」で完結する体験である。もうそれだけでいい、それ以外の何もいらない、それ以外の何も知らない、という体験である。人間は死を知ってしまった存在だから、そうした「感動」とか「ときめき」という体験がなければ生きられないのだ。
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子供は、ほかにもっとよい親がいるとわかっていても、自分の親をすべてだと受け入れてゆく。誰だって、自分以外の人間の人生を生きることはできない。自分が自分であることを受け入れて生きてゆくしかない。
目の前のコップを見ているとき、コップのまわりの景色はぼやけている。コップを見ること、つまり視覚がコップに焦点を合わせてゆくことは、コップがこの世界のすべてだと認識することでもある。われわれはもう、目の前のそれがこの世界のすべてだと、瞬間瞬間を認識しながら生きている。われわれはそれを、「さっき見ていたものと違う」と認識するのではない。違うからこそ、まったく新しい体験として認識し、これが世界のすべてだと納得してゆく。比べたりなんかしない。世界は、瞬間瞬間を生起し、瞬間瞬間が世界のすべてなのだ、意識の根源においては。
そこに世界が存在すると認識し、その世界が世界のすべてだと認識する。これが、コップを見る、という行為である。
だからネアンデルタール人は、住みにくいところだといって住むのをやめにしてほかを探すということなどしなかった。つまり、子供はほかの親を探すということなどしない、ということ。
自分がいやだからといって、ほかの存在になんかなれない。新しい自分も、自分でしかないことには変わりない。
死を知ってしまった人の心は、この生やこの世界が「いまここ」で完結してゆく体験に憑依してしまうようにできている。そのようにして原初の人類は、地球の隅々まで拡散していったのだ。
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意識は、「これが世界のすべてだ」と認識する。そのとき、「自分」という認識は消えている。意識は、二つのことを同時に意識することはできない。つねに何かひとつに焦点を合わせている。焦点を合わせることを、「認識する」という。それは、ほかのものや、「さっきまで認識していたもの」が消えてしまう体験である。それらが消えて新しい世界が生起することの落差の大きさ豊かさとして、われわれは「感動」という体験をする。
住みにくい地に住み着いてゆけば、感動があるのだ。だから人類は、住みにくいところ住みにくいところへと拡散し、とうとう地球の隅々まで拡散していった。
心は、嘆きの上に感動する。嘆きの深さのぶんだけ感動する。
人類は、住みやすい新天地を求めて拡散していったのではない。人間の行動は、そんな経済原理だけでは説明がつかないのだ。
経済原理でしか考えられない人間ばかりが人類学を考えているのだもの、彼らにネアンデルタールのことがわかるはずがない。東大教授だろうと世界的権威だろうと、みんなそうさ。
そこが住みよかったのではない、感動があったから拡散していったのだ。感動は、住みにくさを嘆いているものこそが体験するのだ。
生きてあることを嘆いているものこそが、感動を体験するのだ。
したがって、住みよい社会をつくろうなどというスローガンを振り回されても困る。住みにくいところ住みにくいところへと拡散していったのが、人間の根源的な習性なのだ。そしてそのもっとも住みにくい氷河期の北ヨーロッパに住み着いていったネアンデルタールの末裔である現在の北ヨーロッパ人が、何はともあれ人類のもっとも高度な文明にたどり着いたのだ。
その事実を、どう考えるのか、ということ。人間の歴史は、「明日の住みよい社会をつくろう」などというスローガンだけではすまないのだ。
誰だって住みにくいところなど住みたくはないが、それでもそこが住みにくいところであってもひとまず受け入れてしまうのが人間である。そうしてそこでこそ、豊かな感動を体験してゆく。
人類の歴史は、この生に対する「嘆き」によってつくられてきた。なんのかのといっても、人類の文化の基礎は、そのころ世界でもっとも「嘆き」を深くして生きていたネアンデルタールによって築かれたのだ。
現代社会においても、われわれが感動という体験をするとすれば、それはこの生に対する「拒否反応=嘆き」がわれわれの中にも息づいているからだ。
意識とは、拒否反応である。
生命とは、生命に対する拒否反応である。
人間は、よりよい社会よりよい人生を築こうとする存在ではない。どんなに嘆かわしい現実もひとまずこれが世界のすべてだと受け入れてゆく存在である。なぜなら、この生に対する拒否反応を持っているからだ。
この生は、素晴らしいものでなければならないわけではない。素晴らしいものにしようと努力すれば、素晴らしいものだと自覚することができるかもしれない。しかしそれは、この世界や他者にときめいているのとは別のことだ。この生を素晴らしいと自覚することと、この世界や他者にときめいてゆくことは両立しない。この世界や他者にときめいてゆくことは、この生に対する「嘆き」の上で起こっている。
もっとも深く嘆くものが、もっとも深く感動している。この生はすばらしいと自覚しているあなたがどれほどみずからの感性を自慢しようと、それはもうそうなのだ。もっとも深く感動しているのは、あなたではない。あなたのその薄っぺらな感動はたんなる観念的な形式であって、根源的な心で起こっていることではない。
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人間は、自分を生かそうとなんかしていない。自分=生命のことなんか忘れて世界や他者のときめいてしまう存在であり、そういう生命に対する拒否反応がわれわれを生かしている。
この生=身体は、世界を認識すること、すなわち世界との関係の上に成り立っている。世界を認識することは、意識において「この生=身体=自分」が消えてゆく体験としてもたらされる。したがって、この生はすばらしいと自覚している心の上で、世界や他者に対する感動が起きていることは原理的に成り立たない。
まあそれでも人は、程度の差こそあれ「感動」という体験をしているのだが、しかしそれは、誰もがこの生に対する「嘆き」を抱えている存在だからだ。
なんのかのといっても、誰だって「感動」という体験をよりどころにして生きている。物質的繁栄も人と仲良くすることも、それが第一義というわけにはいかない。この世界や他者にときめいてゆく心の動きを失ったら生きられない。
言いかえれば、だからこそ、ときめいてもいないくせにときめいているつもりになって生きている人もたくさんいる。内田樹先生や上野千鶴子さんのように。
この生に対する「嘆き」のないところでは「感動」は生まれない。
この生に対する「拒否反応」が人を生かしている。命のはたらきとは、命に対する「拒否反応」である。
感動とは、「拒否反応」である。生きてゆくことを拒否して「いまここ」でこの生を完結してしまう体験である。
美しいものは、この生を「いまここ」で完結させてくれる。それは、この生に対する拒否反応なのだ。
抱きしめ合えば、寒さなんか忘れてしまうだろう。寒いと思うことがこの生だとすれば、それを忘れてしまおうとすることは、この生に対する拒否反応である。
この生に対する拒否反応が、人を「いまここ」のこの瞬間に立たせてくれる。それが、「感動」という体験である。
感動とは、この生を忘れてしまうことだ。この生を素晴らしいと思うことではない。
この生を「いまここ」で完結させる体験が人を生かしている。「生きようとする衝動」によってではない。そんな衝動など、生き物の根源にははたらいていない。
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