死んでゆく人の尊厳・ネアンデルタール人論223

じつは、僕の親しい友人がガンになって、余命半年と宣告されている。あちこちに転移してしまってすでに手の施しようがないのだとか。
しかし彼は、少しもうろたえることなく、「仕方ないさ。見るべきものはすべて見た。もういいよ」という。
そのすがすがしさは、一種の解放感だろうか。その心境をちゃんと見届けたいし引き継ぎたいとも思うのだが、情けないことに、なんだか雲をつかむような心地のほうが先に立つばかりだ。
「花に嵐のたとえあり、さよならだけが人生だ」という井伏鱒二漢詩訳が好きだといっていた。
いずれにせよ、死んでゆく人は美しい。
われわれは、この生に閉じ込められている。それは、この生に支配されている、ということだ。生きたくなくても、すでに生きてしまっている。この社会の支配したがるものであれ、支配されてしまうものであれ、けっきょく誰もがこの生に支配されて存在している。そういう「嘆き」を共有しながら「人の世」をつくっている。だからこそその「嘆き」から解き放たれる「ときめき」が体験できるのであり、べつに「支配=被支配」の密着した関係に潜り込んで世界に対する警戒・緊張から解き放たれたいのではない。人と人の関係に、そんな「一体感」の「恍惚」などいらない。そんな警戒・緊張などないところでこそ、世界は輝いている。
ときめきとは、遠い憧れのこと。
世界は輝いているから人は生きてしまう。世界に対して警戒・緊張しながら生き延びようとしているのではない。人は、「生きられない弱いもの」として、心の底に「もう死んでもいい」という無防備な感慨を抱いている。その感慨とともに世界は輝いて立ちあらわれる。
「もう死んでもいい」とはつまり、人はかんたんに「もう生きられない」と思ってしまう、ということだ。
「腹が減って死にそう」などという。まあ愉快ではないだろうが、「死にそう」というほど大げさなことでもない。「死ぬほど好きだ」とか「死ぬほど嫌いだ」とか「死にたいほど情けない」とか「死んでも忘れない」とか、すぐそんな言い方をしてしまうほどに、われわれは「死」に対する親密な感慨を心の底に持っている。
彼はおそらく、人間性の自然としてのその無意識を汲み上げることができたのだろう。
はたして僕は……?

「死んでゆく人」は、どうしてあんなにもわれわれの心を揺さぶるのだろう。われわれは「死んでゆくこと」に対する「遠い憧れ」を抱いて生きている。
腹が減ることは「生きられない=死んでゆく」状態であり、そこで飯を食うということが起きる。息苦しくなれば、息を吸うというはたらきが起きる。この生は、「生きられない=死んでゆく」状態において、もっとも活性化する。われわれは「生きられない=死んでゆく」状態を生きている。
原初の人類は、二本の足で立ち上がるという「生きられない=死んでゆく」姿勢を常態化していった。その危険で不安定な姿勢は猿よりも弱い猿になってしまうことだったが、そこでこそ活性化する命のはたらきや心のはたらきがあった。
「生きられなさを生きる」ことは、人の本能のようなものだ。
とすれば、「死んでゆく人」こそ究極の生を生きている存在であり、われわれはそこに人としての尊厳を見ている。だから、「死んでゆく人」をなんとかして生かそうとする。「死んでゆく人」がそれでもまだ生きていることは、生き残っているものの希望になる。むやみな延命治療は無意味だといわれても、それでも「生きていてくれるだけでいい」と思ってしまう。心のどこかしらで、その「死んでゆく」状態に人としての尊厳を見ている。ことにこの国では天国とか極楽浄土といった宗教的世界観が薄いから、どうしてもそうなってしまう。天国や極楽浄土よりも、「死んでゆく」状態の「生と死のはざま」こそ大事なのだ。だから、むやみな延命治療ばかりさかんになって、「脳死」の合意がいまいち根付かない。
命のはたらきは、「生と死のはざま」にある。
この生は、「生と死のはざま」において、もっとも活性化する。
われわれの心は、「生と死のはざま」に立ってときめき感動している。
心=意識のはたらきは、身体と環境世界のはざまの「非存在」の場で生成している。
人間は意識のはたらきを意識する存在であり、心は「非存在」の場に引き寄せられてゆく。心のどこかしらで、「生と死のはざま」、すなわち生でも死でもない場を意識している。まあ、そこに飛び込んでゆくことによって、快楽=官能というものを体験する。いや、難しいことじゃない。それが「われを忘れて」ということであり、そうやって自分も自分の身体も忘れてときめき感動している。心の中に、そういう自分も自分の身体も存在しない「非存在」の場がある。
人の心にとってこの世界は、身体と環境世界だけで成り立っているのではない。そのはざまの「非存在」の世界がある。心は、そこに引き寄せられてゆくというか、飛び込んでゆき、そこにおいて自分も自分の身体も忘れてときめき感動している。
「われを忘れて」ときめき感動しているのだから、「われ」を失う「脳死」だけで「すべておしまい」と片付けてもらっては困る。日本人には、そういう気分がある。
自分がなくなるとか自分を持っていないということは、必ずしも不幸なことだか愚かなことだとはいえない。人は、そうやってときめき感動している。

人の心は、この生からはぐれてしまっている。そういう嘆きを共有しながら、ときめき合ってゆく。そういう嘆きを置き去りにしながら「自分」とか「幸せ」というようなものに執着していたら、ときめき合う関係にはなれない。
人は、自分なんか投げ出してときめいてゆくのだし、そういうタッチを失っているものがときめかれることもない。
まあ、ときめきとか感動というのは自分を忘れることなのだから、他愛ない心模様なのだ。他愛ない映画や音楽や小説やマンガにときめき感動する体験はありうるし、他愛ない会話で人と人がより親密になっていったりもする。
「自分」を見せびらかし押し付け合う関係にときめきはない。ときめき合う関係は「生まれる」のであって「つくる」のではない。この生は、何ごとにせよ「つくる」ことができるほどたしかなものでも安定したものでもない。
幸せに満足している人や自分に執着している人たちは、この生というか自分という存在が安定してたしかなものだと信じているか信じたいのだろうが、そういう予定調和の生に居座っていたら「ときめきが生まれてくる」という体験はない。
「ときめき」は、途方に暮れている心のもとに「不意の出来事」としてやってくる。
われわれは、この生の中に投げ出されて途方に暮れている。この生は望んだものではないし、永遠に続くわけでもない。空腹や息苦しさだけでなく、あらゆることに「もう生きられない」という事態がついてまわっている。たとえば、わからないこととか何かを失うことだって、「もう生きられない」と途方に暮れる体験にほかならない。この世界はわからないことだらけだし、この生の残り時間はどんどんなくなってゆく。われわれは、「もう生きられない」という事態にせかされて生きている。そうやって、おそらく死ぬまで途方に暮れている。
人は、途方に暮れている存在だからこそ、「何だろう?」と問う。世界は不思議に満ちているし、この生そのものがわからないことだらけだ。われわれは、「もう生きられない」と途方に暮れて生きているしかない。おそらく人間なんてそんなもので、何もかもわかったつもりになって、そういう「嘆き」や「問い」を失ったものから順番にときめきを失ってゆく。
ときめき感動することは自分を忘れた他愛ない体験であり、それは、本格的な学者や芸術家であれ無知な下層の庶民であれ、途方に暮れている「生きられないこの世のもっとも弱く愚かなもの」という場に立てる者によって体験されている。