どうでもいいや・ネアンデルタール人論223

今どきは、自意識過剰の人間がたくさんいて、うんざりしてしまう。
というか、年をとると他人の自意識過剰のさまに敏感になってくるらしいのだが、若いときからすでに敏感な人は、そうやってこの先もずっとひといちばい傷ついたり幻滅したりして生きていかなければならないのだとしたら、大変だなあとも思う。
僕なんか、若いころは他人の気持に対してほとんど無頓着だったが、世の中は過剰な自意識が人を追いつめるのだということが、このごろようやく少しわかってきた。
人に対しては、できるだけ他愛ない心と態度で接した方がいい。賢いふりをしたり正義ぶったり、そんなところを見せびらかそうとしないほうがいい。見せびらかさなくても相手は気づいてくれるし、その見せびらかそうとする自意識が幻滅される。気づいてもらえないから見せびらかさねばならなくなるのだし、気づいてもらえないということは、あなたはあなたが思うほど賢いわけでもやさしいわけでも正しいわけでもないということだ。
あなたがほんとに賢くてやさしいのなら、それは、他愛なく振る舞っていても、自然ににじみ出る。
私のことを賢くやさしく正しい人間だと思えと強制するなんて、サディズムだ。
そりゃあ誰だって自分のことは気になってしまうが、自分は正しいとか、自分は賢いとか、感性が豊かだとか、優しいとか、自分は美しく魅力的だとか、そんなふうに自分で自分を評価・確認しようとする欲望ばかり募らせている人がいる。そうやってやたら自分を見せびらかしたがる人は、それと同じだけ人を見下したり裁いたり攻撃して罰しようとする衝動も強い。見せびらかして成功しているあいだは、そんなサディスティックな衝動は隠されたままだが、失敗すればたちまち正体をあらわす。また、とにかく自分を守ろうとして世の中や他人に対する警戒心がとても強くなってしまっている自閉的な人もいて、そんな人も、他人を見下したり裁いたり攻撃して罰しようとする衝動を驚くほど激しく隠し持っていたりする。
他人や世の中を警戒するところからサディズムが肥大化してくる。警戒しているから、他人や世の中を攻撃し破壊しようとしたり支配しようとしたりする。
そこのところで少なくともネアンデルタール人は無防備に他愛なくときめき合っていたし、島国であるこの国にも、そういう流儀の人と人の関係の歴史風土がある。

古代メソポタミアの都市はすべて「城砦」に囲まれていたが、この国の古代大和朝廷の都にそんなものはなく、きわめて無防備だった。平安時代の都の入り口である羅生門(羅城門)は浮浪者のたまり場になっていたといわれている。つまり、都市の入り口や境界などあってないようなものだったということ。一方メソポタミアの城塞都市の門は、武装した門番ががいて、つねに厳重に警戒されていた。そうやって境界を強固に持っていたからこそその都市の面積はせいぜい数キロ四方の規模だったが、日本列島の「大和」という古代都市は、いつのまにか奈良盆地をはみ出して無際限に広がっていった。そうして朝廷の場所も、めまぐるしく都市内のあちこちに移っていった。
メソポタミアの都市の王宮の場所は不変だった。彼らは「境界」で「結束」し、外部に対する警戒心と憎悪(=敵対心)を共有していった。そしてその「結束」の生態が、結果的にその後の歴史の停滞を招いた。
いったん城砦で囲んでしまえば、それ以上は大きくなりにくい。人の心だって、自分大事の自意識で凝り固まってしまえば、移ろってゆくこともときめいてゆくこともなく停滞してしまう。
心が移ろってゆくとは、心が自分の外に向かって開け放たれてあるということだ。メソポタミア文明を生み出したアラブ世界の人々は、だからこそそういう開放的な歴史を生きることができなくなっていってしまった。彼らの生きる流儀は、自分の境界内に閉じこもるということにある。世界中に離散していったユダヤ人だって、ユダヤ教をけっして手放さないというかたちで、つねに自分の境界内に閉じこもる歴史を歩んできた。ユダヤ人は頭がよくて、大金持ちや学者や芸術家もたくさんいるが、そうした成功から取り残されたユダヤ人には心を病む人が多く、まただからユダヤ人の精神分析医もたくさんいる。
人は「自分」という意識を持ってしまうが、「自分」の価値に執着するということとはまた別で、原始人にはそんな自意識はなかったし、この国の歴史風土にもない。
この生はいたたまれない。それを思うなら、この生や自分に閉じこもっていることなんかできない。そうやって人類は、地球の隅々まで拡散していった。ネアンデルタール人は、人としてこの生のいたたまれなさを受け入れながらとうとう氷河期の北ヨーロッパまで拡散していった人々だった。
それに対して古代メソポタミア文明の人々は、境界をつくって結束しながら自分たちのテリトリーに閉じこもる、というかたちで人類最初の都市国家を生み出していった。

自分に閉じこもるから、人の心に鈍感になり、サディズムが肥大化する。ミーイズムはサディズムの別名であり、それは、人に対する関心が薄くなることではなく、攻撃しようとしたり支配しようとしたりするかたちでとても関心が高まり執着してゆくのであり、その、自分の外部に対する怨恨や憎悪や警戒の上に成り立っている。その怨恨や憎悪や警戒は、人に対するなれなれしさであり、人の気持ちがわからないからどんどんなれなれしくなってゆく。そういう密着した関係に自分を置かないと不安になってしまう強迫観念なのだ。ミーイズムの強いものほど、人に対してなれなれしい。人の心に対する想像力が希薄で、人の心までも自分の物差しで測ってわかったつもりになっている。そうして、自分の物差しに合わないと、とたんに怒り出す。彼らにとって他者はみな自分と同じでなければならない。そうでないと不安だし、赦せない。
人の心に敏感なものは、逆にそういうなれなれしく密着した関係を嫌う。他愛なくときめき合っているものたちは、なれなれしく密着した関係にはならない。「ときめき」は「遠い憧れ」であり、なれなれしく密着した関係においては起きない。
人類は、なれなれしく密着した関係をつくりながら進化発展してきたのか?
そうではないだろう。集団からはぐれ、地球の隅々まで拡散しながら進化発展してきたのではないのか。
集団のひとりひとりの関係がなれなれしく密着して「結束」してくると、どうしてもそこからはぐれてしまうものが出てくる。人類拡散は、そのはぐれた心を携えたものたちが新しい土地で出会ってときめき合ってゆくことの果てしない繰り返しだった。
人と人は、集団の「結束=制度性」からはぐれた心を共有しながらときめき合ってゆく。だから、「道ならぬ恋」ほど激しく燃え上がってゆくのだろうか。
誰だって「共同体の制度性=結束」からはぐれた心を持っている。よい社会をつくればみんなが幸せになるとはかぎらない。人の心は、どうしてもはぐれていってしまう。「よい社会」など、原理的にありえないのだ。

この生=この存在は、「環境世界の一部であらねばならないと同時に環境世界の一部であってはならない」という不条理の上に成り立っている。われわれ生き物の「環境世界の一部でありたい」という願いは、死ぬまでかなえられない。その「願い」が「ときめく」という心を生むのであって、環境世界の一部になっているという自覚とともに結束している関係の中で生成しているのではない。誰もがそういう「幸せ」に浸っていられるわけではない。誰の心にもそこからはぐれていってしまう心が息づいている。われわれは、環境世界の一部でありたいと願いつつ、心はしらずしらず環境世界からはぐれてゆくのであり、そこでこそ「ときめく」という体験をしている。
その「はぐれる」という喪失感を水源にして「ときめき=感動」が生まれてくる。
どんなに「よりよい未来の社会をつくろう」と扇動されても、「どうでもいいや」と思ってしまう心がどこかで疼いている。
どんなに「よりよい未来の社会をつくろう」と盛り上がっていても、じつは誰の中にもある「どうでもいいや」という心に付け込まれ扇動されているだけかもしれない。人は、しんそこからそんなふうに思い込むことなんかできないし、それが人間として不自然だともいえない。あんがいそういういいかげんなものたちのほうが、ずっと豊かにときめき合って生きていたりする。
幸せになりたいというのは、幸せであらねばならないという強迫観念であり、この社会の制度性や時代からそれを埋め込まれているだけのことだ。そうやって時代に踊らされているだけのこと。
「どうでもいいや」と思って、なぜいけないのか。あなたたちのその強迫観念に従わねばならない義理がわれわれにはあるのか。従わねば「この社会の一部」にしてもらえないのは承知しているが、それでもわれわれの心は避けがたくはぐれていってしまう。
われわれは、他愛なくときめき感動する体験がないと生きられない。というか、いつの間にか他愛なくときめき感動してしまっている。
われながら情けないと思うけど、「未来に対する計画性」なんかうまく持つことができない。「どうでもいいや」という気分から逃れられない。