なれなれしさは性衝動を衰弱させる・ネアンデルタール人論140

ただなれなれしくじゃれ合っているというだけでは、男と女の関係が順調に機能しているともいえない。
ネアンデルタール人がフリーセックスの社会をつくっていたからといっても、男と女がそんな関係になっていたわけでもあるまい。
性衝動は、なれなれしく密着した関係から生まれてくるのではない。
見ず知らずの男と女のあいだにだってセックスは成り立つ。むしろその関係の方がより豊かな性衝動を生むともいえる。だから「娼婦」という職業が存在している。
世の夫婦は、なれなれしく密着した関係になってゆくことによってだんだんセックスをしなくなってくる。そのなれなれしさが彼らの性衝動を減殺している。そうやって浮気したりするようにもなるし、まあ夫婦でも恋人どうしでも、慣れ親しむにつれてセックスのやり方がだんだんエスカレートしてくるのは性衝動の減退を埋めようとしているのであって、べつに性衝動が豊かになってきたことの証しだとはいえない。最初のころは、ただもう裸で抱きしめ合っているだけで込み上げてくる衝動があった。
SMとかの変態的なセックスなんか、セックスをし過ぎた男か、もともと性衝動が希薄な男たちの趣味だろう。それは、性衝動を取り戻すための技巧であって、性衝動がさかんだからではない。
性衝動がさかんなら、ただ抱きしめ合うだけでスムーズに勃起する。
娼婦と客が世の夫婦や恋人どうし以上にエスカレートした技巧のセックスをしているかといえば、そうともいえない。もっとかんたんなやり方で取引が成り立っている場合も多い。現在はフェラチオだけで射精させてやるシステムのフーゾク営業があるし、江戸時代には「夜鷹」などと呼ばれ、河原とかに出没してそそくさと性処理をさせてくれる私娼もいた。
人のセックスは、根源的には、「他者の身体に対するどうしようもない懐かしさ」という、その「遠い憧れ」の上に成り立っている。なれなれしい関係になると、避けがたく性衝動が減退してくる。
慣れ親しんだ関係よりも、はじめて出会った男女のその「出会いのときめき」において、もっとも豊かな性衝動が生まれてくる。そうやって群れからはぐれ出てきたものどうしが新しい土地で新しい集団をつくってゆくということの果てしない繰り返しとともに、人類は地球の隅々まで拡散していった。拡散すればするほど住みにくい土地になっていったが、拡散すればするほどより豊かな性衝動が生まれてきた。
人類拡散のエネルギーが生まれてくる契機は、生き延びるために住みよい土地を目指すという衣食住の目的ではなく、「性衝動=出会いのときめき」にあった。


平和で豊かな社会になれば衣食住が充実してくるが、そのぶん「性衝動=出会いのときめき」が減衰してゆく。そうやって男と女の関係が不調になってゆく。そこにこの国の現在が抱えている停滞と病理のひとつがあるわけで、それはもう、男と女の関係というだけでなく、根源的な人と人の関係の問題でもあるのだ。
内田樹は「現在は男と女の関係が絶好調に機能している」といったが、そんなことはないわけで、この人の男と女の関係に対する思想や哲学や現状認識、すなわちその知性や感性のなんと貧しいことか。
人と人は、ただなれなれしく密着した関係になればそれでいいというものでもない。もちろんそんなことは内田樹だって知っているのだろうが、それはただ観念的に知っているというだけで、彼の説く論理はつねにどうしようもない人に対するなれなれしさの上に成り立っている。だから「現在の男と女の関係は絶好調に機能している」などという乱暴なことを平気で言い出してくるのだし、彼の家族賛歌のひとつに「母親は無条件にわが子をほめている存在であり、それによって人の自尊感情が保たれる」といったりしている。「自尊感情」っていったいなんなのだという話だが、この人は、そうやってなれなれしさという「一体感」が欲しくてたまらないのだ。彼がいとなむ「凱風館」とかいう私塾では、「なんでも聞いてきなさい、すべて私が教えてやる」という雰囲気なのだとか。そのなれなれしさと思い上がりはいったいなんなのか。「師の教えは絶対である」というのが、彼の年来のモットーなのだ。しかし小学校の教室じゃあるまいし、一流大学の研究室では師と弟子が一緒になって「わからない」という問題を共有して問い合い白熱した議論を続けているわけで、そこからノーベル賞の受賞者が生まれてきたりする。それに比べて、三流のお前がお山の大将の上意下達の私塾で一体どんな「発見」や「ときめき」が生まれてくるのか。そこには、ただの予定調和にすぎないなれなれしさの一体感の関係があるだけで、「白熱した議論」なんか何もない。彼は、自分の著作で他人を批判することは盛んにしているが、その批判された相手から「だったら公の場で論争しようじゃないか」と挑まれると、論争なんか建設的じゃないというような屁理屈を並べていつも逃げている。
批判がいけないというわけではないが、批判するかぎりには論争を挑まれることは覚悟しておけよ、というのが言論人のあたり前のたしなみというものだろう。「もう死んでもいい」という覚悟で論争してみせなさいよ。それは、「出会いのときめき」の上に成り立った体験でもある。なのに彼はもう「なれなれしさ=一体感」の塹壕というか巣穴に閉じこもったまま、けっして出てこようとはしない。まあ、一種の自閉症なのだろう。どうしてそこまで仲間内以外の人間に対して警戒心や緊張感を持たねばならないのか。人間性の自然は、「異質な他者」に対する「遠い憧れ」ともに無防備になっていることにある。それが、「問う」という「知性」のはたらきの本質でもある。


ネアンデルタール人のフリーセックスの社会は、なれなれしく密着した関係の上に成り立っていたわけではないし、そんな関係が原始人の普遍的な生態だったのでもない。
人と人の関係をつくっている人間性の基礎は、「他者の身体に対するどうしようもない懐かしさ」を「遠い憧れ」として抱いていることにある。その「他愛ないときめき」と「水のように淡く遠い関係意識」こそが原始人の他者に対する心模様だったわけで、ネアンデルタール人はその関係を果てまで身につけていった人々だった。そしてその後の人類の歴史、すなわち文明社会の歴史は、時代が進むにつれて人と人の関係がなれなれしく密着したものになってきた。
現代社会は、人と人の関係がよそよそしく遠いものになっているのではない。そんな関係で家族や学校や会社や町や村や国家という共同体がいとなめるはずはない。なれなれしく密着した関係になってゆくことによってそうした集団が生まれてきたのであり、その結果として「遠い憧れ」ととも「ときめく」という心模様を失い、関係が混乱したり停滞・衰弱したりしているだけだ。他人に対してよそよそしいとか自閉的なものほど、他人に対するなれなれしさも過剰に持っており、そのなれなれしさが他人や世界に対する警戒心や緊張感になり、自閉的にもなっている。
現代人は、自意識が強すぎて、原始人のような無防備にときめいてゆくということができない。
無防備であれば、他者との関係はなれなれしくならない。なれなれしくしなくてもすでに「遠い憧れ」とともにときめいているし、遠い関係に立たないとときめくことはできない。
警戒心や緊張感が強いから、なれなれしくしないと安心できないのだ。
自閉症的な人ほど、他人に対してなれなれしい。もともと人に嫌われやすいところがあるから、いざ仲良くできそうな相手と出会うと、必要以上になれなれしくしようとしてゆく。それはきっと、世間に対する警戒心や緊張感の裏返しなのだろう。「オタク」といわれる人たちの集団には、そういうところがある。彼らは、仲間どうしが集まると、どうしてあんなにも声高にはしゃぎ合うのか。ふだんは他人から逃げてばかりいるらしいが、仲間どうしの場では打って変わってそういう態度になる。まあ「オタク」たちだけでなく、現代社会の全般的な傾向でもある。彼らは、そのもっともラディカルな体現者である、ということだろうか。
それは、原始人=ネアンデルタール人とは対極の心模様にほかならない。彼らの他者に対する「無防備で他愛ないときめき」は、「他者の身体に対するどうしようもない懐かしさ」という「遠い憧れ」から生まれてきた。
彼らの人と人の関係は「離合集散」とともにあった。それが人間性の基礎としての原始性だった。そうやって彼らはフリーセックスの社会をいとなんでいた。
彼らの心は誰もが「もう死んでもいい」というかたちで「孤立」しており、むやみに仲良しの「仲間」などつくらなかったし、「美男美女」という価値意識もなかった。「もう死んでもいい」ということ、すなわちその死に対する親密な感慨とともに心はすでにこの世界や他者から別れはぐれてしまっており、そこからそれらの対象に「遠い憧れ」を向けながら他愛なくときめいていった。
人や世界に対する警戒心や緊張感を抱き続けることは現代社会を生き延びるためのもっとも有効な方策のひとつであり、それによって仲間どうしのネットワークをつくろうとする意欲も旺盛になるが、それによってその人の知性や感性が輝くわけでも、セックスアピールをそなえた魅力的な人間になれるわけでもない。そのルサンチマンともに、やがて認知症やインポテンツになってゆく。
まあ内田樹の読者だって、彼が繰り返す「他人が悪い」だの「世の中が悪い」だのという自閉症的な自慢話に感心しながらそんな立場に居直っているなんて、人間としてとても不自然なことだ。彼らのネットワークにおいては、みんなして「自分だけは正しい」とか「自分は生き延びる能力と資格がある」と思いたがっていて、教祖様の内田樹がそのお墨付きを与えてくれているらしい。彼らは、人や世界に対する警戒心や緊張感を共有しながらネットワークをつくっている。彼らは、やさしい人間のふりをしながら、じつは人や世界に対する「無防備で他愛ないときめき」がひどく欠落している。そうやって怒りや憎しみを組織しているあなたたちは、人としてちっとも魅力的ではない。われわれに必要なのは、自分の正当性に満足することではなく、自分を忘れて世界の輝きにときめいてゆくことにある。
自意識過剰のあなたたちは、自分に満足することはあっても、自分を忘れてゆく契機を持っていないし、自分を忘れてゆくことのカタルシス(浄化作用)を体験していない。


そりゃあこの世の中で出会う相手はそろいもそろってろくでもない人間ばかりでうんざりさせられるが、それでもみんな自分よりはましな存在で、ましてやなんの利害関係もともなわない見ず知らずの相手であるのなら、つい、いつの間にかときめいてしまっている。人間なんて、そんなものではないのか。人類の二本の足で立っている姿勢は、「自分なんかこの世の最低の存在だ」という感慨の上に成り立っている。人はそこからこの世界の輝きにときめいてゆく。
内田樹の言い草も、今どきの大人たちの下品な顔つきも、ほんとにうっとうしい。
われわれは愚かな生きられない存在で、あなたたちは正しく生きるに値する存在だが、しかしあなたたちに人としての魅力やセックスアピールはない。あなたたちの存在が、生きられないわれわれを慰めることはない。われわれに必要なのは、自分は生き延びるに値する存在だと思い込む「自尊感情」ではなく、自分など忘れて世界の輝きに深く豊かに他愛なくときめいてゆく「カタルシス(浄化作用)」にある。
まったく、「現代社会の男と女の関係は絶好調に機能している」だなんて、何いってるんだか。ネアンデルタール人の半分も人にときめく心を持っていないくせに、自意識過剰の薄汚いインポおやじがよくいうよ。
また彼は「家族は家族であることの意味や意義(価値)の上に成り立っている」というが、家族なんて人間性の自然の上に成り立った集団でもなんでもなく、ただの愚かな習俗にすぎない。しかしそれでも夫婦や親子のときめき合う関係はどこかしらではたらいているわけで、その関係に支えられて家族という不自然な集団が成り立っている。
人は愚かな選択をする生きもので、「もう死んでもいい」という勢い、すなわち人類滅亡に向かって生きることによって心が華やぎ、命のはたらきが活性化する。生き延びようとする欲望(=自意識)の強い正義のがわにいるものたちの知性や感性や命のはたらきの、なんとみすぼらしいことか。
人類は、愚かな選択をしながら歴史を歩んできたのであり、皮肉なことにそれによって爆発的な進化発展がもたらされた。
まあ生きものは生きられなさを生きることのその「あがき」によって進化してきたのであって、生き延びようとしてきたのではない。生き延びることができる安全・安定を目指すのなら、人類は拡散しなかったし、キリンの首は長くならなかった。生き延びることができるものだけが生き残って進化してきたのではなく、生きられなさの中でもがき続けているものたちが子孫を増やしながら進化してきたのだ。キリンの進化史のはじめにおいては、生きられない首の短いキリンがたくさんの子孫を増やしてゆき、生きられる首の長いキリンはむしろ淘汰されていった。つまり、みんなの首が長くいったのであって、首の長いものだけが生き残ってきたのではないということ。それはもう、最新の数学的なシュミレーションの研究によってそういう数値が出ているのだとか。そして人類の進化史においても、拡散して生きられなさを生きるものたちがたくさんセックスをしてたくさん子孫を増やしながら進化してきたのだ。だから人類の生き延びる能力としての視覚や聴覚などは今なお退化し続けている。退化してしまっているからこそ、心地よい視覚としての美術や心地よい聴覚としての音楽を体験できる。その感覚にイメージを加味してゆくことができる。イメージを加味しないと視覚や聴覚として完結しない。
「セックスだけが人生じゃない」などと。セックスを甘く見るようなことをいうものではない。それは、人と人の関係の本質にかかわる問題なのだ。
人は、内田樹が語るような妙な道徳論で生きているのではないし、生き延びようとする欲望で生きているのでもない。人類存続の正義なんかどうでもいい。そんな正義が人の生を豊かにしているのでもない。
「生きられないこの世のもっとも弱いもの」が身にまとっている「悲劇性=かなしみ=死に対する親密さ」こそこの世のもっとも美しいものであり、人類滅亡に向かうところでこそ、人の心も命のはたらきももっとも深く豊かに輝く。
セックスは「もう死んでもいい」という勢いでするものであって、生き延びることが大事の内田樹がインポおやじになってゆくのは生きものとしての必然なのだ。生き延びることが大事だなどといっていたら、セックスのポテンシャルも世界の輝きに対するときめきも、どんどん衰弱してゆく。