女の中の無常感・神道と天皇(155)

秋葉原通り魔事件の加藤君は、どんな娘を彼女にしたいのかと男友達に問われ、「巫女姿が似合う子がいい」と答えたのだとか。それは日本列島の伝統を考える上でとても示唆的で、ここでは、天皇の起源は「巫女」である、という問題設定で思考実験を続けている。
神武東征がどうのこうのという大和朝廷が残した文書にそんな記述があるはずもないが、日本列島の縄文時代から現在までの歴史を検証すれば、僕としては巫女が起源だとしか思えない。
「処女崇拝」の文化の土地柄なのだし、日本列島の先史時代は政治経済や宗教の問題では動いていなかった。
何も考えなかったのではない。多くの人がただもう素直に切実に「神聖なもの」を祀り上げていたのであり、だからこそ他愛なく豊かにときめき合う集団のダイナミズムが生まれてきた。
弥生時代奈良盆地人口爆発が起きたのは、べつに神武天皇が九州からやってきて支配したからではなく、どこからともなくたくさんの人がやってきて無主・無縁の祭りの賑わいが起きていったからだし、そのとき人々は、もともと湿地帯だった奈良盆地の土地が干上がってゆくその「清浄=神聖」な気配を祀り上げてゆく心を共有していた。
神武天皇が偉大であろうとなかろうと支配秩序によって人口爆発が起きることなどありえないのであり、どんな社会であろうと「無主・無縁の混沌」という情況が加わっていなければ人口爆発は起きてこない。
この国の終戦直後の人口爆発だってそれなりに「無主・無縁の混沌」の状況があったし、アメリカもまた、戦争によって国ごとひとかたまりにされていたことからの解放感があったからベビーブームが起きたのだろう。
国体護持だのなんだのとナショナリズムを煽っている社会で人口が増えてゆくことはない。
弥生時代から古墳時代にかけての奈良盆地人口爆発が起きたということは、そこが無主・無縁の混沌とした社会だったことを意味するのであり、神武東征があったということなどありえないし、さらには「騎馬民族」が征服したということもさらにあるはずがない。
そこには支配者などいなかったし、階級すらもない原始的な社会だった。しかし原始的でありながら、それなりに民衆自治の洗練した集団性が機能していた。
民衆自治の集団性は、たとえ文明制度が発達した現在においてもなお、それなりに日本的な精神風土として引き継がれている伝統なのだ。
日本列島の常識は世界では通用しない。だから、国としての外交交渉が上手にできない。「人は根源において他者を許している存在である」という民衆自治の思想が国家としての態度にも影響を及ぼしている。そんな思想など世界では通用しないのに、どうしてもそういう「甘え」をぬぐいきれないまま交渉してしまう。しかし弥生時代奈良盆地においては、そういう原始的な、許し合う集団性が機能していた。

「許す」とはどういうことだろう。
女は、男に幻滅しつつ男を許している。
女にとって男は気味悪い生きものであり、しかしその「気味悪い」と思う関係の「遠さ」があるから許すことができる。男のような気味悪い生きものに、どうして自分の体を触らせることができるのかといえば、その「遠さ=異次元性」に向かって許しているのだ。
人と人は、近しい関係ほどより豊かにときめき合うというわけではない。したがって、家族・親族がそのまま拡大して大きな集団になってゆくのではない。見知らぬものどうしが集まってきて、はじめて都市集落へと膨らんでゆくのであり、その契機は政治経済の利害関係ではなく、ときめき合う関係こそが第一義的にはたらいている。
まあ家族や親族よりも、見知らぬものどうしのほうがもっと純粋なときめき合う関係になれる。言い換えれば家族だって、「肉親」としてのなれなれしさでもたれ合ったり裁き合ったりするよりも、人と人としての淡い関係性がなければうまく機能しない。
遠く淡い関係のほうが、より純粋に深くときめき合うのだ。
なれなれしく裁き合う関係の集団は、けっして大きくならない。現在のこの国の「少子化」「人口減少」の問題だって、核家族化の状況によって社会全体の人と人の関係がなれなれしく裁き合うかたちになってしまっていることにも一因がある。
タイトな核家族だって、ひとりひとりが「孤児の心」を持っていたほうがよい。
人は、「孤児の心」で「旅」をする。そうして見知らぬ人と出会い、ときめいてゆく。
「孤児の心」とは「旅心」であり、それが日本列島の伝統の人と人の関係性になっている。
日本列島の男は、旅人として女と出会う。そして女は、遠い目で男を許している。そうやって「見合い結婚」の習俗が定着してきたのだが、現在においてはそういう関係性が失われつつあるらしい。
日本列島の民衆の伝統的な精神風土は女によってリードされてきたのであれば、他者を裁くメンタリティが希薄なところがある。まあ、そうやって妙な政治家や官僚にのさばられてしまっているのだろう。暴動が起きてもおかしくない状況なのに起きないし、妙な政治家と結託している経済人もいれば、妙な政治家にすり寄ってゆこうとしている知識人や民衆もたくさんいる。
この国のマジョリティは政治に関心がない無党派層であり、無党派層であるがゆえに権力者の暴走を許してしまう。お上の支配に従順なのが民衆の伝統であり、お上がちゃんと自覚してくれないとこの国の民主主義は成り立たないし、民衆がちゃんとカウンターカルチャーとしての民衆だけの文化=伝統を持っていないとお上も民主主義を自覚しない。
誰もが伝統とは何かと問いながら、伝統が見えにくくなっている。

何はともあれ、人と人が裁き合うことなんかこの国の伝統でもなんでもないのであり、なのに今どきは右翼ほどそういうことをしたがる。それは、戦後の近代合理主義の洗礼によってみんながそういうことをしたがる世の中になったからであり、彼らこそ、誰よりもそのような時代風潮に踊らされているものたちなのだ。まあ今の時代、右翼は商売になるし。
ほんとうにこの国の伝統を身体化しているのなら、むやみに人を裁くようなことはしない。
ほんとうに無常ということを知っているのなら、生き延びることが目的の政治や経済なんかに熱中したりはしない。
天皇に象徴されるこの国の伝統は「すべてを許す」ことにある。そしてそれは、女の本能でもある。今どきは女たちも近代合理主義の観念に汚染されて人を裁くことの秩序志向に傾きがちだったりもするが、本能的には、男やわが子に対して「すべてを許して献身してゆく」タッチをそなえているのであり、その無常感、それはもう縄文時代以来の伝統なのだ。
女が本能的にそなえている「献身性」こそこの国の歴史における人と人の関係や集団性の基礎になってきたのだし、もともと人類はそれによって猿のレベルを超えた大きな集団の「混沌」を生きることができるようになっていったわけで、それはつまり女が人類の歴史をリードしてきたということを意味する。

まあ世界の宗教について語るとき、一神教多神教の対比がよくなされるが、男性原理の上に成り立った「神(ゴッド)」の宗教と「女神」が中心の宗教という分類もできる。そして後者は、前者のカウンターカルチャーとして生まれてきたわけで、文明史における多神教一神教よりも後から生まれてきたのだ。
世界中どこでも多神教は存在するが、それはけっして原始時代の宗教だったのではない。たとえば古代ギリシャ多神教メソポタミアユダヤ教カウンターカルチャーとして生まれてきたのだし、古代の日本列島の仏教と神道の関係も同じであるに違いない。
ヨーロッパのキリスト教だって、カウンターカルチャーとしてのマリア信仰を持っている。
政治や戦争の歴史である文明社会はもちろん男性原理の上に成り立っているのであるが、それでもいつの時代にも女神礼賛のムーブメントが起きてくるし、女神礼賛ができない集団が活性化することはない。
アフリカやアラブの社会のように男性優位が固定化すると、集団の活性化が起きてこない。それに対して中世のフランスは、ジャンヌダルクという女神を祀り上げなげながら国家の危機に打ち勝った。なんのかのといっても欧米社会は、「自由の女神」信仰を底流として持っている。
見知らぬものどうしでも他愛なくときめき合うことができるような戦争のない社会は、女性原理とともに「混沌」を生きることができなければ成り立たない。
日本列島の中世には「幽玄」という概念の世界観・美意識が流通していたが、それは「混沌」の別名でもあった。
男と女のどちらが優位の社会をつくるかというようなことではないが、ともあれ人類の歴史は女が本能的にそなえている「献身性」にリードされて進化発展してきたのであり、そうでなければ猿の集団規模のレベルを超えることはできなかった。
直立二足歩行の起源は、猿型の男性優位社会から女にリードされる社会への移行という体験だった。そして日本列島の精神風土は、そういう原始性の上に成り立っている。
女の愚痴は鬱陶しいかぎりだが、女は、その生きていてもしょうがないという「嘆き」から命や心を活性化させてゆく。生命賛歌は、命も心も停滞させてしまう。なんのかのといっても人と人は、「嘆き」を共有しながらときめき合っているのだし、生き延びるための生命賛歌の論理で人を裁きたがる態度は、女の愚痴よりもっと鬱陶しい。