情の社会、情の政治・神道と天皇(151)

最近は政治スキャンダルが次から次に噴き出してきているが、特徴的なのは、総理大臣以下の当事者たちがまるで反省することなく、言い訳けやしらを切って居直ることばかりを繰り返してしていることにある。
日本列島にはみそぎをすれば許されるという伝統があるのだが、彼らにそういうつもりはさらさらないというか、そういうことができなくなってしまっている。既得の地位や権益を守りたいということ以上に、「守らねばならない」という強迫観念がある。
欧米には自分が間違っていても絶対に謝ってはならないという習慣があるが、この国もそうなってきているのだろうか。それは、人と人が「裁き合う」社会で「許し合う」社会ではない、ということを意味する。
「裁き合う」のは「神の裁き」が機能している社会だからで、「許し合う」のは「人情」の世界の話だ。
日本列島の「かみ」は、「隠れている」から、裁かない。「隠れている」とは「存在しない」ということ、そのことが「かみ」であることの証しになっている。「存在しない」のだから、何もしない。そうやって「裁かない=赦す」ことが「かみ」であることの証しで、日本列島の歴史は神道とともにそういう社会の構造を伝統として守ってきたのだが、今それが崩れようとしているのだろうか。
西洋の「神=ゴッド」が「実」の世界の「存在」であるのに対して、日本列島の「かみ」は「虚」の世界の「非存在」として祀り上げられてきた。そういうことを今どきの右翼も多くの歴史家も、まるでわかっていない。僕としては、そこがなんとももどかしい。
慰安婦問題はなかったというのと、スキャンダルはなかったと居直るのは同じ思考回路なのだろう。そういう歴史修正主義というのは単純にいって潔さがなさすぎるし、それは日本列島の伝統ではない。彼らは伝統というものが何もわかっていないし、彼らほど伝統を踏み外しているものたちもいない。

スキャンダルの当事者たちには、認めればこの社会から抹殺されてしまうのではないかという強迫観念がある。しかし、もともと人の心はこの社会の外の「異次元の世界」で遊んでいるのだから、抹殺されてもいいのだ。この国では、潔く「消えてゆく」タッチを持っているものが生き残るのであり、変な悪あがきをすると幻滅される。
「異次元の世界」に向かって「消えてゆく」ことこそ快楽としての人の心のダイナミズムであり、命のはたらきは死との親密な関係において活性化する。そういうタッチを持っていないから、何がなんでもしらを切って逃げきろうとする。何がなんでも生き延びようとする。それは、この国の伝統ではない。
つまり、今どきは「人情」の世界を生きるタッチが失われつつあるのだろうか。民衆社会が殺伐としてきているから、権力社会もそうなってくる。たぶん、バブル経済の繁栄と崩壊を体験した大人たちが人情を忘れ、現実的な思考しかできなくなってしまった。
戦争にせよ、経済の繁栄にせよ、多くの人が時代という現実に洗脳されてしまう。そうして、「異次元の世界」に遊ぶ心を失ってしまう。それは、人情の機微がわからなくなる、ということだ。
人と人は、「虚」の世界で遊ぶ心を共有しながらときめき合い連携していゆく。たがいに正義・正論で裁き合うのではなく、許し合うことによってときめき合い連携してゆく。それは、命は死との親密な関係において活性化する、ということ、「もう死んでもいい」という勢いでときめき合い連携してゆく。民衆社会のそういう「人情」の関係は、文明制度としての権力社会の集団性のコンセプトとは逆立している。
国家が存在していいのかどうかということはともかく、人類の歴史は、いつかは「情の政治」へと収斂してゆくのだろう。何はともあれ民衆は、「情」の上に成り立った社会を願っている。
大人たちの社会には不潔な右翼がいて、愚鈍な左翼がいる。この先の世の中は、しかし彼らの思うようにはいかないだろう。
今どきの若者たちは大人たちよりもずっと素直でまじめで人情を大切にしているのだし、時代もそんな若者たちの歩調に合わせるように動いてゆくのかもしれない。何はともあれ、安倍晋三麻生太郎もそのうち死んでゆく。大人たちは遠からずみんな死んでゆく。
人が歴史をつくるのではない、歴史が人をつくる。
われわれは、これから先どんな社会になってゆくのだろうと問うことはできても、どんな社会をつくらねばならないかというような問題は存在しない。大人たちに、そんなことを決める資格も権利も能力もない。
民衆には民衆の「情の社会」がある。なんのかのといっても日本列島の歴史はそこからの力がはたらいて動いてきたのだし、ここではそこのところを考えたいのだ。
若者には若者の「情の社会」がある。「かわいい」の文化はそこから生まれてきたのだし、そこにこそ日本列島の伝統が息づいている。