今どきの無常観・神道と天皇(152)

原始人は、「宇宙」というものなど知らなかった。星や月だって、地球の天井で光っているものだという風にしか考えていなかっただろう。それは、「未来」という時間に対する意識も希薄だったことを意味する。彼らは、あくまで「今ここ」と向き合いながら生きていた。
人類の知能も脳の大きさも、数万年前の原始時代とほとんど変わっていない。であれば、原始人は宇宙や未来のことを考えなかったそのぶんだけ、現代人よりもずっと「今ここ」に対する反応が豊かだったことを意味する。かれらは、五年十年先のことはもちろん、明日のことすらもむやみに思い煩ったり計画したりすることもなかった。
人類の知能を進化させたのは、未来に対する計画性にあったのではない、「今ここ」に対する反応の豊かさなのだ。二本の足で立ち上がったばかりの人類だって、猿よりも弱い猿で、明日も生きてある保証などなかったのであり、ひたすら「今ここ」をけんめいに生きていた。そうして「今ここ」に対する思いを豊かにしながら、「わからない」「なんだろう?」という好奇心が芽生えていった。子供はそうやって生きているのであり、彼らの好奇心と吸収力は、大人よりもはるかに豊かだ。
「今ここ」の向こうは「わからない」、そして「なんだろう?」と思う。現代人のような、宇宙や海とか山の向こうに対する知識を持っていることよりも、原始的な「わからない」「なんだろう?」という好奇心のほうがずっと知能の発達を促す。
まあ人は、大人になると、知識は増えても、そうした好奇心からはじまる思考を失ってゆく。そうやって「今ここ」に対する反応(=ときめき)を鈍磨させながら認知症になっていったりする。
現代人は、知識が豊富だからこそ認知症になってしまう。知識は学問のことだけではない、庶民だって生きてきた分だけ庶民なりの知識をあれこれ抱え込んでしまっている。知識があれば生きられるし、明日も生きてあることを保証してくれる。
明日のことも海の向こうのことも他人の心もわからないはずなのに、現代人はわかっているつもりになって生きている。しかし同時にわれわれは、それらのことを「わからない」こととして生きている部分もある。無意識というか心の底ではそういう気分があって、明日のことなど忘れて「今ここ」にのめり込んでいったりする。それが無常感だ。
「住めば都」という。無常感があるからそういう気分になる。
明日のことも山の向こうの土地のこともわからない……そういう気分なしに人の心が豊かにはたらくことはない。

人の心がわかるから人にときめくのではない。そのとき、心の底に「この世の中の人間は目の前のあなたひとりだ」という気分があるから、「ときめく」ということが起きる。それはつまり、いつ死ぬかもわからない猿よりも弱い猿だった人類の歴史の無意識として、心の底に「もう死んでもいい」という勢いがはたらいているからで、そうやってときめいている。
明日も生きてあることを勘定に入れないで生きるということ、無常感は、人類の歴史の無意識なのだ。
人は、「わからない」という嘆きを生きている。そこから派生する「なんだろう?」という好奇心から、言葉が生まれてきた。そのとき人類は、その言葉=音声にわからないはずの心が宿っている、と思った。
人の心はわからない。そういう嘆きがあるからこそ、その言葉や姿に心が宿っていることを感じ、ときめいてゆく。それは、わからないことがわかる、という体験かもしれない。しかし「わかる」ことによって、そこからさらなる「わからない」という嘆きが生まれ、「なんだろう?」と問うてゆく。そうやって、おしゃべりの花が咲く。
「わからない」という嘆き、「なんだろう?」という好奇心、そして「わかる」というときめき、この無限の繰り返しが生きるといういとなみかもしれない。
「言葉にできないほど美しい」と感じることは、ひとまず「わからない」という嘆きからの解放であり、「わからない」という嘆きを抱きすくめてゆく体験でもある。人の心の動きは、「わからない」という嘆きからはじまり、「わからない」という嘆きに着地する。
人は、「わからない」という嘆きを生きている。明日のことはわからないという思いが、明日などない、という無常感になる。そしてそれは、原初以来の歴史の無意識でもある。そうやって「今ここ」のほかには何もないと納得することは、死を受け入れてゆくことでもある。

「この生の明日には死が待っているだけだ」というのが、中世の人々が無常を語るときの常套句だった。そうやって彼らは「消えてゆく」ということを抱きすくめていった。
人はなぜ「何もない」ということを思うのだろう。水平線を眺めても、青い空を見上げても、その向こうは「何もない」……という思いが疼いている。この宇宙は無から生じて無に還ってゆくのだろうし、人の心だって、この宇宙に存在するものの本能として、「無=消えてゆくこと」に引き寄せられるようにできている。
「消えてゆく」心地は快感だ。女のオルガスムスはそういうものらしいし、子供だって「かくれんぼ」をして楽しんでいる。
音とか光というのは、科学的にはひとまず「物質=存在」であるのだろうが、人の心には、現れて消えてゆく、すなわち無から生じて無に還ってゆく現象として映っている。だから音や光が、普遍的に人の心を魅了している。
人類は、音や光に魅了されながら知能を進化させてきた。
言葉の起源は、「人の声=音」に魅了される体験だった。そしてその「声=音」に「輝き」を感じる体験だった。
そうして現代社会こそ音や光の文化がいつの時代にも増して花盛りになっており、そのひとつの達成として、そのバーチャルな映像や声でコンサートをするという超モダンなイベントがあらわれてきた。それは、人として「消えてゆく=何もない」ことを抱きすくめてゆく「無常感」なのだ。日本人は「無常感」の気分が濃いから、そんなイベントをいち早く発想してしまう。
まあ表立って意識することはないにしても現代人だって体ごと無常感に浸されているのであり、それはもう日本人の抜きがたい生理のようなものかもしれない。


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