処女と無常感・神道と天皇(153)

この世の政治経済は、人にとっても共同体にとっても「生き延びる」ためのシステムとして機能している。
とすれば、日本列島の住民の心の底に「無常感」が流れているということは、日本列島の歴史は政治経済とは別の何かによって動いてきたということを意味している、
原初の人類が二本の足で立ち上がったことだって生き延びるためではなく、むしろ生き延びることに不利な姿勢だったのであり、それでも立ち上がった。まあ、それによって人と人が豊かにときめき合うダイナミズムが生まれてきたのだ。人は、そういう体験がなければ生きられない。
「ときめき合う」という人情の交わり、それが人を生かしているのであり、それとともに歴史が動いてきた。人類の歴史を考えるとき、政治経済のことよりも、じつはそのことのほうがずっと大きな問題なのだ。少なくとも原始時代の歴史は、そうやって他愛なくときめき合うことによって一年中発情しながら圧倒的な繁殖力を獲得し、どんな住みにくい土地も厭わずに地球の隅々まで拡散していった。
つまり人類は、生き延びることよりも、「今ここ」でときめき合う体験があればいいという「無常感」によって歴史を歩んできたのだ。
人類拡散は、どこからともなく集まってきたものたちが他愛なくときめき合いながら新しい土地に住み着いてゆくということの果てしない繰り返しとして実現していった。
無常感とは、「今ここ」に憑依してゆく「遊び心」であって、生き延びることを目的にした政治経済の問題とは逆立している。

人と人がときめき合う関係は、見知らぬものどうしのあいだにおいて、もっとも豊かに生まれてくる。だから思春期の子供は、家族から離れて見知らぬものどうしの恋や友情の世界に飛び込んでゆく。
家族や集団の絆とか結束というようなことをいってもしょうがない、見知らぬものどうしこそ、もっとも豊かにときめき合うのだ。
政治経済は、集団の結束とか合意事項(=規範)の上に動いているし、まあ生き延びるためには邪魔者は排除した方がいいのであり、そこから人と人が他愛なくときめき合う関係の賑わいは生まれてこない。そこにおいては生き延びるという利害関係で結束はしても、ときめき合い連携してゆくことのダイナミズムは生まれてこない。
政治経済による利害関係の結束はつねに邪魔者を排除するという力がはたららいているのだから、最終的にはひとりが生き残るように動いてゆくわけで、したがってその集団は必ず崩壊する。そうやってひとりまたは少数に権力や富が集中してゆく。
民主主義の世の中になっても、政治経済が中心で動いているかぎり、それは邪魔者を排除ししながら利益を追求してゆく運動性なのだから、「階層」はどうしても生まれてくるし、その集団はいずれ瓦解する。
どんなに高度な政治経済のシステムを構築しても、その本質において集団を衰弱させる性格を持っており、ときめき合い連携してゆく集団性が機能していなければ維持できない。つまり、ときめき合い連携してゆく集団性の文化こそが歴史を動かしてきたのだ。
人と人の関係だって、政治経済的な利害関係よりも、最終的にはときめき合う「情」によってこそ活性化する。
人類の集団性の中心は、政治経済ではなく、ときめき合う「情」にある。
そして、「今ここ」をすべてとしてときめき合う関係は、「無常感」を共有してゆくことの上に成り立っている。

司馬遼太郎は、三内丸山遺跡のことを「食糧豊富な縄文時代まほろばだった」といったが、縄文中期にあっさりと放棄されてしまっている。それに対して、縄文以来今なお人が住み続けている貧しい山あいの村は日本中にいくらでもある。
三内丸山遺跡は、経済的な理由だけで維持されていたからこそ、消滅してしまった。それは、人と人が他愛なくときめき合う縄文人の集団性にそぐわない土地=集団だったことを意味する。そこは、栗林などが整備されて食糧生産は安定していたが、集団が大きくなりすぎて、縄文的な他愛なくときめき合う関係性が壊れていったらしい。
集落が存続し発展してゆくのは、けっきょく人と人の関係の文化の問題であって、政治経済の問題ではない。どんなに住みにくくても、人と人の関係の文化を守り育てながら住み続けてきた村がある。
弥生時代奈良盆地の集落を大きくさせたのは、政治経済の制度ではない。大きくなったことの結果として、農業が発達し、大和朝廷が生まれてきたにすぎない。
たとえば、古代人はなぜ険しい熊野古道を往還していたのか。もともとその山の中のあちこちに集落があり、それぞれ固有の「祭り」を持っていたわけで、後世にはその「祭り」に沿うように寺や神社が建てられていった。吉野の桜とか、那智の滝とか、幾重にも重なる山並みとか、山あいを流れる吉野川とか、古代以前はそんな景観を祀り上げながら「祭り」が催されていた。日本人は旅が好きだから、そんな景観や「祭り」を見に行ったり、見に行って住み着いてしまったりしていた。人と人が他愛なくときめき合う場である「祭り」は、そこに住み着いてゆくきっかけになる。
それにまあ、吉野・熊野には温泉が湧くところもたくさんあり、湯治に出かけていたということもある。
古代以降に熊野古道のあちこちに寺や神社が建てられていったといっても、もともとそこに多くの人を引き寄せる「祭り」の場があったのだ。そしてそれは、「信仰」でもなんでもなく、ただもう人と人が他愛なくときめき合うイベントだった。
人の生は、生を超えてゆこうとする。そうやって、住みにくくても住み着いてしまう。人と人が他愛なくときめき合う関係があれば、住み着いてゆくことができる。そしてそのとき人と人は、「神聖なもの=超越的なもの」に対する遠い憧れを共有している。
熊野古道は、「信仰」の道だったのではない。人々は、神よりももっと「神聖なもの=超越的なもの」に引き寄せられて、そこに分け入っていった。日本列島では、この生やこの世界を支配する存在の神ではなく、この生やこの世界を超えた「非存在」の「神聖なもの=超越的なもの」を祀り上げていた。

日本列島の伝統の集団性は「祭りの賑わい」の上に成り立っており、「祀り上げる」という心映えの歴史を歩んできた。
他者を祀り上げるとは、ときめき合う、ということ。弥生時代奈良盆地においては、そういう関係の集団だった。であれば、やがて祭りの象徴的な存在をみんなして祀り上げるようになってくる。それによって祭りがなおいっそう盛り上がってくる。
その祀り上げられる対象は、男か、女か。
祭りの中心は歌と踊りであり、とうぜん女が祀り上げられる。
日本列島はもともと女を祀り上げる伝統がある。だから古事記ではアマテラスという女神を天皇の祖先として祀り上げていった。
縄文時代の集落は、ほとんどが数十人程度だった。彼らは、大きな集団を組織する「政治」に興味がなかった。また、稲作等の農業のことを知っていたのに本格的のそれに取り組むことをしなかったのは、余剰の食料を生産するという「経済」の意識も極めて薄かったことを意味している。しかしそのかわり、漆塗りを覚えたりアクセサリーや衣装や土器をつくったりすることにはとても熱心だった。それらは政治経済とは別の娯楽・芸術の文化であり、「祭りの賑わい」を基礎にした社会だった。そして戦後社会だってそれによって復興しはじめたのであれば、日本列島はもう、縄文時代から現在まで、女を祀り上げる歴史を歩んできたことになる。
政治や経済のことは、基本的に男のほうが能力にまさっていることが多い。いっぽう文化・芸能のことは、女のほうが熱心になる。大きな集落も戦争もなかった縄文社会は、文化・芸能の上に成り立っていた。男たちは、狩りをしながら山道を旅していた。そして狩りをしたといっても、獲物の肉に脂が乗っている秋しかしなかったのだから、それは経済活動ではなかった。
縄文社会は、山間地のあちこちに女子供だけの集落があり、男たちはその集落の女たちを訪ね歩いて旅をした。つまり、女を祀り上げることも、男たちの仕事だった。ツマドイ婚の伝統は、縄文時代からすでにはじまっていた、ということ。そのとき女たちは、江戸時代の旅籠の娼婦の飯盛り女のような存在だった。古代からあちこちの山間地に娼婦の里があったともいわれているし、そういう伝統とともに日本列島の旅の文化が育っていった。
また、政治経済の意識が希薄であれば呪術も必要としないのであり、縄文社会から宗教が生まれてくることなどありえない。日本列島は、あくまで宗教とは無縁の純粋な「祭り=娯楽」の文化とともに、女を祀り上げる歴史を歩んできた。縄文時代はフリーセックスの社会であったし、中世の白拍子や江戸吉原の花魁等々の娼婦を女神のように祀り上げていた。そういう伝統があるから、現在の、裸で抱き合うことをしても最後の一線はだめ、というようなややこしいルールのフーゾクシステムが成り立っている。
古代や中世の巫女は娼婦でもあり、それが洗練発展して芸者文化になった。

日本文化とは、女を祀り上げる文化だ。
平安朝の女流文学が「あはれ・はかなし」の美意識の上に成り立っていたように、「無常感」といっても、もともと女の感慨だった。
女は死ぬことを怖がらない。それだけでも、女から学ぶことがある。女は、自然の摂理をよく心得、それを受け入れることができる。そして縄文時代は政治経済の意識が薄く戦争もなかったのであれば、男が優位に立てる場はなかった。漆の精製とか、籠や布を編むこととか、土器をつくることとか、農業栽培とか、すべて女がリードしていた。まあ、女は旅に疲れた男の世話をし、男は女を祀り上げていった。
女は男を許しているが、けっして男を祀り上げているのではない。むしろ、男に幻滅している。幻滅しつつ、許している。許しつつ「献身する」ということを本能として持っている。日本列島の男たちは、女に置き去りにされながら、女のそうした本質に気づいていった。
この生は、いたたまれない。まるで刑罰のようだ。われわれは先験的に罪を負って存在している、という原罪意識がある。人は、許されたい存在であって、祀り上げられたいのではない。だから西洋人は神に懺悔をするし、日本列島では、最初からすべてを許している「かみ=女神」を祀り上げる。
というわけで女性原理の上に成り立った日本列島の「かみ」は、人に何も要求しない。それは、「無関心」と背中合わせのことだが、ただもう一方的に許してくれている。そうやって「見て見ぬふり」をしている。見て見ぬふりをしながら許してゆくことの快感というのはたしかにあるし、日本列島の伝統においてはそれが人と人の関係の作法(たしなみ)のひとつにもなっている。

「承認願望」という。「承認される」とは、どういうことだろうか。神の裁きを受けて「善」だと承認されることだろうか。もちろん、人から認められたいとかちやほやされたいということもあるだろう。
しかし日本列島においては、他者を承認することはしても、承認されたいとは願わない。すでに承認されているのなら、そんな願いを持つ必要なんかない。許すことはしても、許しを乞うことはしない。ひとまず「かみ」によって「すでに許されている」社会なのだ。まあそれを「甘えの構造」などともいわれるが、とにかくそうやって世界や他者の輝きにときめき祝福することはしても、そのとき自分に対する意識は消えている。その自意識の薄さで歴史を歩んできた。
人は先験的に罪を負った存在なのだから、「許しを乞う」資格はない。しかしだからこそ「許されてある」ことに対する想いもひとしお身にしみるし、「許したい」という想いもいっそう募る。
日本列島には、「懺悔の文化」はない。「他者を許す文化」なのだから、その必要がない。
戦争に対する深い反省はあっても、懺悔し謝ることはとても下手な民族なのだ。そうやって、現在の中国・朝鮮との関係がぎくしゃくしてしまっている。
謝るのが上手な国がそのぶん深く反省しているかどうかは分かったものではない。
こんなことをいっても世界に通用するはずもないが、人は根源において「許す」存在なのだから、謝る必要はない。しかし、深く嘆き反省しないといけない。ごめんですむなら警察はいらない、謝るくらいなら腹を切れ、ということ。
日本列島には、「承認願望」の伝統はない。それは、人と人が他愛なくときめき合い許し合っていることを前提にした文化だからだし、みずからの存在を深く嘆いてゆく文化だからだ。許されたいと願う前にみずからの存在を深く嘆け、ということ。そして、女こそがそういうメンタリティをより確かにそなえているのであり、とりわけ思春期の少女は、この世でもっともみずからの存在を深く嘆いているもののひとりだ。そうやって古代以前の奈良盆地においては、「巫女」という「処女=思春期の少女」を祀り上げていた。
自分を忘れた「無私」の境地。それは、「処女=思春期の少女」の表情や姿にこそもっとも確かに宿っている。とりわけ彼女らが舞い踊る表情や姿を前にしたときの弥生時代奈良盆地の民衆は、ひれ伏したいような心地になっていった。それこそがこの世のもっとも神聖なものであり、そんな感慨から巫女が生まれ、巫女が天皇になっていった。
なんのかのといっても、現在だってAKBや初音ミクが祀り上げられている世の中ではないか。そこのところを右翼の大人たちは何もわかっていないし、日本列島の真の「伝統」は若者たちにこそ引き継がれている。
政治経済のオタクたちがあれこれ偉そうに裁いていることなんかどうでもいい、「この世のすべてを許しているもの」こそもっとも神聖な存在なのだ。
政治経済は、生き延びるために人や世界を「裁く」こと、すなわちそういう「ルール=規範=制度」の上に成り立っている。それに対して「すべてを許す」ことは、それらのいっさいを忘れて「今ここ」に憑依してゆく「無常感」から生まれてくる心映えにほかならない。
「許す」ことは、「裁く」ことではない。その態度は、自分を忘れて呆けているものにこそ宿っている。まあ基本的に天皇だってそういう存在であり、そこにこそ天皇の神聖=神性がある。
舞い踊ることの本質は、「忘我の境地」というか、「呆ける」ことにある。そのときこそ人はこの世のすべてを許しているのであり、一遍の「念仏踊り」はそうやって生まれてきたのだし、それが「能」に昇華されていった。そういう伝統を、ここでは「神道天皇」というモチーフで考えている。