世の政治オタクが正義ぶって裁くれいわローテーション…その2
2 弱小政党の必死の抵抗としての…
そのアイデアは、憲法や選挙制度や議会制民主主義に反している、と知ったかぶりした世の政治オタクのインテリやインフルエンサーたちが言う。
それは、現在のこの国の状況における正義であり正論であり、確かにそうかもしれない。
しかし彼らの上から目線のその言い方のなんと胡散臭くうっとうしいことか。
しかし、現在のこの国の選挙制度や議会制度は健全に機能しているといえるのか?
現在の自民党議員の異常な多さや自民党政治の暴走のことなどを考えれば、それはすっかり停滞し歪んでしまっているという意見も多い。
だったらそんな状況=情況を生み出している政権与党や官僚たちの勢力に対する抵抗もあっていいだろう。
また今では、多くの野党勢力もまた抵抗を止めて無難な右寄りのポジションを取ろうとしており、彼らは左派的なにおいがあると民衆に支持されない、と思い込んでいるらしい。そしてそれだけでなく、民衆の側に立って抵抗しようとしているれいわ新選組をはじめとする勢力を排除し始めている。
そうやって今や大政翼賛会的な政治状況になってきているのだが、しかし何度も言うが、この国の民衆社会の伝統は反権力の反国家主義であり、権力社会や国家を置き去りにして民衆社会独自の集団運営の作法を構築してきたのだ。
正義ぶって知ったかぶりして、何が正しいか間違っているかは俺が決めてやる、お前らは俺に従え、といわんばかりに上から目線でれいわ新選組を叩くネット界隈のインフルエンサーたちの下品な態度のなんとうっとうしいことか。
何はともあれれいわ新選組は生きられない弱いものに寄り添って状況に抵抗しようとしている政党なのだから、まあ生暖かく見守ってやればいいではないか。
まあ知ったかぶりしたがる連中にとって山本太郎やれいわ新選組は叩きやすいし、自分の優越性を確認しようとしてつい叩きたくなってしまうのだろう。
彼らにとってれいわ新選組は政党として未熟だし、それを支持する政治的な意識が低い純粋素朴な民衆も政治に参加する資格がないということらしい。
だから、素朴な民衆すなわち山本太郎いうところの有象無象による市民運動を組織しようとしているれいわ新組が目障りになる。
彼らには、政治は政治意識の高いものたちによってなされるものだ、という思いがあるらしい。そのうっとうしさ。
というわけで選挙に行かない無党派層が増えているのも、インテリであろうとあるまいと彼ら政治オタクがのさばっていることの騒々しさもあるのかもしれない。
では、民主主義とは何なのか?
無知でおバカな民衆は政治に参加してはいけないのか?投票してもいけないのか?
野党は、この停滞して抑圧的な政治状況に抵抗したらいけないのか?国会で審議拒否や牛歩をしたらいけないのか?
野党としてこのひどい状況=情況を嘆くなら、市民運動としてのデモや暴動は否定できないだろう。
まあれいわ新選組は、そういうおバカな民衆=有象無象の市民運動を組織しようとしている。
今や選挙が二世三世議員の既得権益の場になっているこの状況において、名もない市民が永田町の政治に参加してゆくためには、そういうシステムの穴をこじ開けてゆくしかないのだろう。
この硬直化し澱んでしまった議会制民主主義システムにおいて、選挙で選ばれたものは有能か?選ばれなかったものは無能か?百万票と一票は、どちらが重いのか?
お偉い権力者や知識人は、ほんとうに民衆よりも賢いのか?
ドストエフスキーは、「哲学者が発見するどんなに高度な真理も、すでに民衆の無意識の中に宿っている」といった。
つまり、変なインテリの知ったかぶりした屁理屈よりも、名もなくおバカな民衆の無意識の方がずっと高度に哲学的なのだ。
そういう意味で民主主義の政治とは民衆の無意識を掬い上げてゆくことにあり、そこに人類の理想の未来があるのではないだろうか。