女たちよ、立ち上がれ

衆議院解散総選挙はいつあるのか?

どうやら秋になるらしいが、自民党が負けるというおもしろいことはけっきょく起きそうもないらしい。

僕は政治オンチだから、政策がどうのということなどよくわからない。そして選挙に行くことが義務だとも権利だとも思っていない。それはひとつの「祭り(フェス)」であり、おもしろくなければ行く甲斐がない。

この愚劣で醜悪な政治体制がひっくり返ればおもしろいのに、と思って選挙に行く。

今どきの大人なんかろくな生きものじゃないし、その上に立っている政治家や資本家はさらにろくでもないに決まっている。だから、こんなひどい世の中になってしまった。

そりゃあ、ひどい世の中ではないと思っている人たちもたくさんいる。この社会システムから甘い汁をすすっている大人たちはいるし、若者や子供たちは今の状況が当たり前だと思っていて、人々がもっと純情だった時代のことなど知らない。昔は魅力的な大人がもっとたくさんいた。それはたしかにそうなのだ。僕はこんなにも長く生きてきて自分が魅力的であった時期なんかどこにもないけど、それでも昔の大人たちは今ほどのすれっからしではなかった。

現在の若者たちが社会に出て最初に体験するのは「大人たちに対する幻滅」である。そうしてそこでうまくやってゆく若者もいれば流されてゆく者もいるし、さっさとドロップアウトしてゆく者たちも少なくない。せっかく一流会社に入ったのにすぐ辞めるとか、ニートになるとかフリーターになるとか。

抵抗しないからできないからいけないのだとか、そんな醜い大人たちと手を組んで上手くやっている者たちこそ元凶だとか、いろいろ意見はあるが、みんな当たっているのだろう。

われわれもう、この停滞した状況から抜け出せないのだろうか。

高度経済成長で、人の心が金のために歪んでしまったのだろうか。お金に罪はないのだけれど、現在のように高度に発達した文明社会のシステムは、それを扱う人の心が歪んでゆくようにできているのかもしれない。

しかし、なんといっても普遍的な人の心においては、この世界や他者は輝いているのだ。生きていれば、だれにだってときにはおもしろいこともときめくこともある。そうやって人は流されてゆく。

人が時代に流されてゆくのを責めることはできない。それでも世界や他者は輝いているのだ。いつの時代もだれの中にも、ときめく心は息づいている。

その「ときめく」心を結集できなければ新しい時代はあらわれてこない。革命が起きないこの国においては、人々の怒りや不満を結集して盛り上がるということはない。そうではなく、たとえば中世の「踊念仏」とか幕末の「ええじゃないか騒動」のように、「祭りの賑わい=ときめき」によって盛り上がってくるのが伝統なのだ。

 

現在の政治状況において、野党は、多くの人が選挙に行くための「祭りの賑わい」を組織することができているだろうか?

立憲民主党と国民民主党の合流劇のあのもたつきぶりは、多くの国民に幻滅を与えてしまった。どちらがいいとか悪いという以前に、どっちもどっちだという印象で、かえって国民の視線を政治から遠ざけてしまった。このままでは投票率も上がらないし、けっきょくむざむざと自民党に勝たせてしまうことだろう。どちらの党の党首も、人々のあいだに「祭りの賑わい=ときめき」をもたらすだけのセックスアピール(魅力)があまりにもなさすぎる。

この国には選挙に行かない有権者が半数いる。彼らにとって選挙とは人気投票のお祭りであり、候補者にセックスアピール(魅力)がなければ選挙には行かない。政策がどうのというのはその次の問題だし、「正しい政策」よりも新しい時代を夢見させてくれる「魅力的な政策」を望んでいる。

僕だって、素人が知ったかぶりして政治のことを語るのは、あまり好きではない。人をこの世界に縛り付ける正義・正論を押し付けられるのはいやだ。人類滅亡ほどめでたいことはないのであり、人の心はつねにこの世界の外の「異次元の世界」を夢見ている。心はそこに向かってときめいているのであり、そうやって「この時代の滅亡」の果てに「新しい時代」が生まれてくる。人類滅亡を夢見る心が人類史の進化発展をもたらしたのであって、しゃらくさい正義・正論の「未来の計画」によってではない。

こんな愚劣で醜悪な世界など滅ぼしてしまえ、という心意気、すなわち「もう死んでもいい」という勢いがなくて、どうして「新しい時代」を迎えられようか。べつに大げさなことではない。たとえば若い娘のミニスカートには「もう死んでもいい」という勢いがあり、その勢いとともにこの世の「祭り」が生まれてくる。

「流行」とは「祭りの賑わい」のこと。若い娘が競ってミニスカートを穿き出すように、選挙に行くことが「まちの景色」になり「時代の景色」になることができるだろうか。それは、「もう死んでもいい」という勢いで「新しい時代」に飛び込んでゆくことであり、処女が処女喪失を体験するのと同じ勢いだ。その勢いは「処女=思春期の少女」がもっとも豊かにそなえているし、その「処女性」はすべての女の中に宿っている。また、それこそが男も含めた人間性の原点というか本質にほかならない。そうやって「滅亡」を抱きすくめるようにして人類の歴史は進化発展してきた。

「処女=思春期の少女」の中にこそ、人間性の本質がもっとも深く豊かに宿っている。人類の歴史が最初に祀り上げたリーダーは、おそらく「処女=思春期の少女」だった。

そういう「もう死んでもいい」という勢いの「処女性」が、山本太郎にはあるが、枝野幸男玉木雄一郎にはない。男であろうと女であろうと、そういう「処女性」を持たない者がリーダーになっても「祭りの賑わい」は生まれてこない。

 

立憲民主党と国民民主党はもう、くっついても離れても、これ以上支持率=人気が上がることはないだろう。両方とも党首に「華=セックスアピール」がなさすぎる。それでは女たちの支持は得られないし、女たちの支持のない野党は政権交代できない。

この国では、女たちが立ち上がらなければ、投票率は上がらない。

10年前に民主党が政権を奪ったときは、鳩山由紀夫菅直人の二枚看板がそれなりに女たちから支持されていたし、「新しい時代に漕ぎ出そう」というメッセージもあった。まあ、枝野幸男立憲民主党を立ち上げたときにも、その雰囲気はあった。

しかし菅直人枝野幸男も、今やすっかりメッキがはがれてしまって、そうした政治家としての心意気が見えてこない。また、玉木雄一郎なんかただの目立ちたがり屋のおっちょこちょいだということは、とっくに見透かされている。

現在のこの国は右傾化している、などといわれ、玉木雄一郎の国民民主党はその風潮に乗ろうとして「保守」とか「中道」を唱えながら、逆にどんどん支持率を落としていった。そんな看板は自民党だけで飽和状態なのだから、そこに寄っていっても国民の関心は得られない。

世界的には、「左翼」とか「社会民主主義」という言葉でも人々に一定のアピールをするようになってきている。またこの国の民衆社会はもともとそういうかたちであったわけで、無主・無縁の見知らぬ者どうしが他愛なくときめき合い助け合ってゆく「祭りの賑わい」の関係の文化をつくってきたのであり、まさしくそれは「社会民主主義」の根本精神なのだ。この国の民衆社会にはそういう集団性の土壌があるわけで、だから国民民主党の中途半端な保守右傾化が幻滅されている。

この国の民衆社会の伝統は、「中道保守」ではない。無意識的には、「社会民主制」あるいは「共産制」を目指している。まあ、すべての世界の民衆が、といってもよい。そこにこそ人類の究極の理想と人間性の本質がある。

女は、けっして保守的な存在ではない。新しい時代に漕ぎ出す心意気は、女の方がずっとラディカルにそなえている。その「もう死んでもいい」勢いが女の中の「処女性」であり、そこからたとえば70年代のミニスカートの流行とか、2000年代のヤマンバギャルの登場などの革命的なムーブメントが起きてきた。90年代にバブルがはじけた後に「人類滅亡」をテーマにしたマンガやアニメが次々に生まれてきたのだが、その流行を先導していたのも、やっぱり少女マンガだった。

女の中の「処女性」が、新しい時代を切りひらく。大昔にさかのぼれば、人類史のもっとも大きな転換点のひとつである「農業」を最初に始めたのも、おそらく女たちだった。それは女たちの、「他愛なくときめき合い助け合う共同作業」と「新しい時代を夢見る心」によって生まれてきた。

 

女たちが立ち上がらなければ、新しい時代は生まれてこない。革命が起きないこの国で新しい時代が生まれてくる原動力はだれもが他愛なくときめき合う「祭りの賑わい」にあり、そうやって戦後復興が起きてきたのだし、バブル崩壊以降は、その関係性を失って社会が分断され、しだいに衰退してきてしまった。それは、支配者層の戦略だったのかもしれない。そうしてまんまとそれに乗せられた者たちのレイシズムヘイトスピーチが一挙に噴出してきた。

今や世界的にアンチ・レイシズムの機運が盛り上がってきていて、それはとても大切でよろこばしいことだが、新しい時代を迎えるためには、同時にレイシズムを置き去りにするくらいの他愛なくときめき合う「祭りの賑わい」が必要になる。

とくに「神の裁き」のないこの国の民衆社会においては、「神の裁き」すなわち「正義」を叫ぶだけでは大きなムーブメントにならない。けっきょく今どきの右翼も左翼も、「正義」を叫んでいるだけだから、広く民衆を巻き込むということができない。戦後左翼の失敗はそこにあるし、右翼だってどれほど声高に「男系男子」の正当性を叫んでも民衆の賛同を得ることはできていない。

ようやく右翼がわがもの顔で闊歩する時代が陰りを見せはじめ、今度は左翼が復権するかといえばおそらくそうでもなく、どちらもだめだということにこの国の民衆は気付きはじめているのではないだろうか。

いろんな分野で「パラダイムシフト(チェンジ)」という言葉が叫ばれて久しい。もはや右翼か左翼かというカテゴライズにあまり意味はないし、「保守」といっても民衆はピンと来ていない。

「新しい時代」はどのようにしてやってくるのだろう。時代がやってくることは、時代が滅びることだ。世界の滅亡は、世界の誕生だ。

この世界は、ひとつのパラドックスだ。

生きることは、死んでゆくことだ。

正義なんかどうでもいいし、正義なんかどうでもいいことが正義だ。

思想によっては「新しい時代」は生まれてこない。この国において「新しい時代」を切りひらくのは思想ではなく「心映え」すなわち「祭りの賑わい」であり、それは「もう死んでもいい」という勢いの女の中の「処女性」とともに生まれてくる。

女が立ち上がることこそ希望なのだ。しかしそれは、世にいうフェミニズムとは違う。女は、女のために戦うのではない。女とは男に幻滅しつつ男を赦している存在であり、あくまでも人と人がときめき合い助け合う「新しい時代」のために戦う。彼女らは、生きてある「今ここ」に幻滅している。だからこそ身をひるがえして「新しい時代」に飛び込んでゆくことができる。

 

2月に京都市長選がある。そこで立候補した福山和人という人には共産党とれいわ新選組が推薦しているのだが、それ以上に多くの市民が後押しをしているということで全国的な注目にもなっている。とくに家庭の主婦を中心とした女たちの「つなぐ京都2020」というチームによる連携が、これまで以上に盛り上がっているらしい。

4選を目指す現職の市長は国の支配階級と結託して市の政治を推し進めてきた人であり、自民党公明党はもちろんのこと、なぜか立憲民主党や国民民主党も推薦を決めている。

共産党が強い土地柄の京都では、このような対決の構図になることが多く、それによって現市長はこれまでの選挙を悠々と勝ち抜いてきたわけだが、「市民=町衆」が立ち上がった今回ばかりは安閑としていられないのだとか。

京都は、世界でもっとも美しい町のひとつとして認知されている。そうして今や世界中からたくさんの観光客が押し寄せてきて大変な賑わいになっているが、それによって地元住民の暮らしの安全が脅かされるという、さまざまな「観光公害」も生まれてきている。一見繁栄しているように見えるが、じっさいには外部のさまざまなグローバル企業が入り込んできて京都の美や富を食い散らかしている。そのために一部の利権を得ている者たちだけが潤う政治がなされていて、住民福祉の予算はどんどん削られ、伝統的な小規模家内商工業の倒産も続いている。そうして路線バス等の交通網が混乱するし、住宅街や寺の前に平気で大きなホテルが建てられてゆく。

「京都」という「まち」が壊されていっている……1200年続いた京都の「まち」が100年後にもあるかどうかはもうわからない……そういう住民の声に押されて福山和人という人が立候補した。

現在の市長はさらに観光事業を拡大させようとしており、そうやって「観光」という名のもとに、京都の伝統である「町衆」の文化と暮らしが壊されようとしている。

というわけでこの選挙は、いわば「階級闘争」のようになってきている。だから共産党が支持したし、れいわ新選組もそこに加わった。

 

「まち」とは何だろう……時代は今、そういう問題をもう一度ちゃんと考えるべき時期に来ているのかもしれない。

人間がこの世に生きて暮らしているということの基本は、「家族」でも「国家」でもなく、「まち」なのだ。

京都の市長選挙は、われわれに「まちとは何か?」ということを考えさせてくれる。

福山和人氏の応援プラカードに「まちこわし・許しまへん」と大きく書かれたものがあった。たしかにそうだ、京都の人たちがそれを自覚しているのはさすがだと思う。金に目がくらんでうかうかしていると、壊れてしまってからはじめて気づく。そうやって日本中の駅前の「まち」の風景が、「開発」の名のもとにいつの間にかみな同じようになり、個性=伝統を失ってしまった。あとから気づいても、もう取り返しがつかない。われわれは、高度経済成長によって「まち」の自覚を奪われてしまった。

支配者にとっては、民衆が「まち」の自覚を持たないほうが都合がよいわけで、そのために民衆社会を分断し、そうやって個々の意識をもっとも大きい集団としての「国家」と最小の集団である「家族」に向けさせる。

「国家」も「家族」も、その集団は人と人の関係に順位と秩序がつくられている。それに対して「まち」は、どこからともなく人が集まってきて他愛なくときめき合い助け合う「無主・無縁」の混沌とした集団であり、そこにこそ「まち」のいとなみのダイナミズムがあるわけだが、そうやって民衆が自立した集団性の精神を持つことは、支配者にとってはきっと都合の悪いことにちがいない。

京都は、そうした「町衆」の集団性の文化の伝統を持っている。天皇家のお膝元の「まち」であったからそれが赦されてきたというか、民衆が天皇との直接的な関係を持つということは、すなわち権力社会から自立した集団性の文化を持つということなのだ。

たとえば明治維新の際には、国としての京都市よりも先に「町衆」が自分たちで小学校をつくっていったし、日本で最初の路面電車を走らせたのも民間の事業で、市の所有になったのは10数年後だった。

また、平安時代の朝廷内の権力社会で流行していた御霊信仰(=悪霊退散)の行事を引き受けた「町衆」が、それを人と人がときめき合い助け合う場としての「祇園祭」へと美しく昇華していった。

 

京都の「町衆」は、権力社会から自立した集団性の文化を伝統として持っている。そうして「町衆」の集団性の本質は、どこからともなく集まってきた者たちが「無主・無縁」の関係のまま他愛なくときめき合い助け合う「祭りの賑わい」にある。

京都の人付き合いの関係は冷たくややこしい、などといわれるが、それは、どんなに近しい間柄でもなれなれしくしないで「無主・無縁」の平等の関係を保とうとすることにあり、それによってより豊かにときめき合い助け合う関係になれることを知っているからだ。

したがって京都の「町衆」の集団性は「共産制」との親和性を持っており、この国でもっとも共産党に対する拒否反応が薄い土地柄になっている。

今回の京都市長選の福山和人という候補は、共産党員ではない。あくまで市民(=町衆)が押し立てた候補者であり、それを共産党とれいわ新選組が支持したというかたちになっている。彼は「これまでお上のもとでなされてきたトップダウンの京都の<まち>の運営を、この国ではじめて小学校をつくり町に路面電車を走らせたときの、他愛なくときめき合い助け合う<町衆>の集団性のもとに取り戻そう」と訴えて立候補した。

彼と彼を支持して盛り上がっている「町衆」たちは、はたして既得権益を離すまいとする権力者たちに勝てるだろうか?

「町衆」の側がが勝つためには、投票率を上げて浮動票を集めなければならない。

投票率が上がるとき、人々は「新しい時代」を夢見ている。それは、「まち」における「祭りの賑わい」が生まれているということであり、「新しい時代を夢見る心」は「処女」のもとにもっとも深く豊かに宿っている。「新しい時代」は、「女の中の処女性」とともに生まれてくる。「まち」のダイナミズムの源泉は「女の中の処女性」にあり、女たちが立ち上がることによって投票率が上がる。

今回の市長選は、はたして京都の「町衆」の伝統は残されているか、と試されている。京都の「町衆」によっていち早く小学校が建てられたのも、とうぜん子供を守り育てたいという女たちの願いが中心にあったはずだが、それは「新しい時代を夢見る」という「女の中の処女性」の発露でもあったにちがいない。

「新しい時代を夢見る」ということは、「未来を計画する」ということではなく、「もう死んでもいいという勢いでみんなして他愛なくときめき合い助け合う」という「今ここ」の「祭りの賑わい」のことだ。それが「処女性」であり、だから「処女=思春期の少女」は「大人になんかなりたくない」というのだし、人類の歴史はその勢いによって世界のあちこちで「まち」が生まれ、進化発展してきた。

「女の中の処女性」こそ、人類普遍の「まち」の歴史と未来の問題でもある。

 

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