13歳

安倍晋三というその人の醜悪さ以上に、そのまわりに群がる者たちの恥知らずな意地汚さは、醜悪を通り越して凶悪でさえあると思う。

今の政治状況は、ほんとうにひどい。一部の者が権力を独占してそこに群がってゆく者たちがいて、それが現在の日本人の多くが望むところではないことはたしかなのに、みんな諦めたまま事態は硬直化して変わる気配は一向にやってこない。投票率はどんどん下がって、前回の参議院選挙ではついに50パーセントを割った。

投票率を上げないといけないのだが、そのための有効なアイデアはまだ聞こえてこない。

日本人はもともと国の政治には関心の薄い民族であり、関心を持たせれば投票率が上がるとか、そんなかんたんな問題ではないし、そもそも政治に関心が薄いのはいけないことかという問題がこの国にはある。

国の政治に対する関心の薄さはこの国の伝統であり、それによって洗練してきた集団性も美意識もある。もともと法制度によって支配しようとする文明国家の政治なんて、無主・無縁の関係のままに他愛なくときめき合い助け合うという人間の集団性の本質とは矛盾したものであり、だから民衆の関心が薄くなってしまう。

したがって、政治に無関心であることを否定するべきではない。そのうえで投票率を上げながら民主主義を実現してゆかねばならない。

今どきこの国で投票に行くのは、知ったかぶりの政治オタクか利害関係が絡んで損得勘定をしているかのどちらかがほとんどだろう。現在の政治は、人間の集団性の本質から大きく乖離してしまっている。だから民衆はどんどん無関心になってゆくし、政治とはそういうものだと思えば投票に行く気になんかなれない。つまり、民衆の集団性の本質においては、国家の政治に関心を持って投票に行くということに必然性がないのであり、もし行くとすれば、選挙が祭りのイベントになったときか、困っている人に手を差しのべたいという願いが理由になったときだ。

 

 

山本太郎の全国街宣では、投票率を上げるための方法として、よく「家族や友人とも政治の話をしてください」と訴えたりするが、それははたして有効だろうか?

そんなことをいわれてもこの国の民衆の多くは政治の話なんかしたくないのだし、それはもうこの国の伝統であり、本能のようなものだ。だから、政治の話をしたくなるように説得するための有効な言葉などない。この国の民衆社会の伝統においては、政治の話をしないことがひとつの美徳になっている。

家族とは愛について語り合う場であって、政治の話をする場でない……と反論されて山本太郎は、何と答えるだろうか。

しかし「愛について語り合う場」だからこそ、国のためでも自分のためでもなく、この世の困っているだれかのために選挙に行く、という話は成り立つ。民衆社会には、そういう想像力が育つ空気がある。

この国の民衆社会の基本的な関係性=集団性は、「無主・無縁」の「原始共産制」にあり、それが、どこからともなく人が集まってきて村人もよそ者もやくざも浮浪者も分け隔てなく他愛なくときめき合う「鎮守の森の祭り」の伝統なのだ。

家族や友人と政治の話をしないことを否定するべきではない。この国の家族や友人関係をはじめとする民衆社会は、政治権力に閉じ込められてあるがゆえに、心は政治=現実世界の外の「異次元の世界」に対する「遠いあこがれ」を紡いでいる。そうやって祭りや芸能・芸術や物づくりの技術等の文化を洗練させてきた。そしてそれはまた、人類普遍の、あの山の向こうやあの水平線の向こうやあの空の向こうなどの「異次元の世界」に対する「遠いあこがれ」であり、人類史を進化発展させてきた「進取の気性」でもある。

日本人は政治の話をしないがゆえに「進取の気性=好奇心」が旺盛なのだし、その心映えを共有しながら「祭り」が盛り上がってゆくところにこそ、日本的な集団性の文化の真骨頂がある。日本人の「国家=公共」に対する意識は薄い。というか、そんな現実の世界は「憂き世」だと思い定め、それを超えた「異次元の世界」に思いを馳せてゆく。そうやって「見知らぬ人」に他愛なくときめいてゆく。

「袖すり合うも他生の縁」ということわざがあるように、そうやって「無主・無縁の見知らぬ人どうしが他愛なくときめき合う祭りの賑わい」を基礎とした集団性の文化が育ってきた。日本人の国家意識や公共意識や政治意識は薄いが、それを超えた次元の集団性の文化を持っている。

だから、選挙だって「祭りの賑わい」にならなければ盛り上がらない。われわれが選挙に行くのは、国家のためでも自分のためでもない。この世界のどこかで困っている見知らぬ誰かに手を差しのべたいからだ。自分が選挙に行かなければその人がもっと困ることになってしまう。そういう「異次元の世界」に対する想像力こそ、この国の文化の伝統であり、困っている人を助けることができないのなら国なんか滅んでしまってもかまわない。もともと国家意識など薄い民族であり、国家制度とは別の民衆だけの集団性、すなわち人と人がときめき合う助け合う人類普遍の集団性を守って歴史を歩んできたのだ。

 

 

国家など滅びてもかまわないというか国家や政治のことなんか知ったことではないというその政治意識の薄さにこそ、人と人が他愛なくときめき合い助け合う人類普遍の集団性の真実が息づいている。

この国の民衆の集団性は、もともと文明国家の発生より先に生成していたものであり、国家制度を模倣して生まれてきたのではない。西洋では両者のあいだに「契約」が結ばれていて、両者の集団性も融合している部分も多く、だから民衆の政治意識や公共心も高い。しかしもともと異民族の外圧がなかった日本列島においては、そうした「契約」がないまま一方的に国家制度がつくられていったわけで、だから民衆は、国家に支配されつつもみずからの原始的な集団性もまた守ってくることができた。そうしてその他愛なくときめき合い助け合う原始的な集団性にこそ、人類の民主主義の未来がある。なぜならそれこそが、二本の足で立っている猿である人類の普遍的本質的な人間性にほかならないからだ。人類の歴史は、そこからはじまり、そこに還ってゆく。そのようにして、数千年の文明国家の歴史の果てに「民主主義」という概念が生まれてきた。

人類はまだ真の「民主主義」を実現していない。しかし歴史はそこに向かって動いている。そして「そこ」は、果てしなく遠い未来であると同時に、「今ここ」の「遠いあこがれ」としてだれの心の中にも息づいている。すなわち日本列島の「伝統」においては「今ここ」とはあの青い空の向こうの「異次元の世界」のことであり、われわれはそういう「遠いあこがれ」を共有しながら歴史を歩んできたのだ。いや、それはもう人類普遍の「歴史の無意識」として、世界中の人の心に共有されているのかもしれない。

原初の人類は二本の足で立ち上がったときに、猿よりも弱い猿になってしまったことの「絶望」とともに「青い空」を見上げた。人類の歴史はそこからはじまっているわけで、その「絶望」の果てに抱いた「遠いあこがれ」を基礎にして爆発的な進化発展を遂げてきた。人類が「万物の霊長」になったことはそうした「逆説」の上に成り立っているわけで、人類の集団性のダイナミズムだって、そうした「逆説」として起きていることにちがいない。

国家=政治のことなど知ったことではないという心模様が集まって、国家=政治の運営がもっとも活性化する。それが、この国の民衆社会の伝統である「他愛なくときめき合い助け合う原始共産制」の上に成り立った集団性なのだ。

原始共産制」とは、「青い空の向こうの異次元の世界に対する遠いあこがれを共有しつつ他愛なくときめき合ってゆく集団性」のこと。それは、人類史の起源であると同時に究極の集団性でもある。もっとも原始的な集団こそ、もっとも高度で未来的な集団のかたちにほかならない。

民主主義の理想は、原始共産制にある。人は、だれもが他愛なくときめき合い助け合う社会を夢見ている。それさえあれば生きてゆけるし、それがなければ生きてゆけない。

 

 

選挙に行こう。そして新しい時代を迎えよう。選挙は「政治」ではない、新しい時代を迎える「お祭り」なのだ。

この世界にはたくさんの「お祭り」があるが、すべてに通じるその本質は「新しい時代を迎える」ということにある。人間とはそのように、この生のいたたまれなさから逃れて「異次元の世界」に超出してゆこうとしている存在であり、その衝動の切実さと豊かさが人類史の進化発展をもたらした。そうやって「イノベーション」が起きてくる。

村の鎮守の杜の秋祭りや田植え祭だろうと、皇室の新嘗祭大嘗祭だろうと、正月や盆祭りだろうと、ミニスカートの流行だろうと、すべては「新しい時代を迎えるお祭り」であり「異次元の世界への超出」にほかならない。

正月が来たからといって何が変わるわけでもない、といって「冷笑系」を気取ってみせてもしょうがない。正月になれば、人の気分も新しくなる。「平成」から「令和」になって、もしかしたら人々の気分も少しずつ変わりはじめているのかもしれない。

これまでは「べつにこのままでいい」という気分で現政権の腐敗を許してきたわけだが、令和になって山本太郎とれいわ新選組も登場してきたことだし、ようやく「新しい時代を迎えよう」という気分が芽生えつつあるのかもしれない。

桜を見る会疑惑」がマスコミに取り上げられてこんなにも大きな話題になるとは、国会で質問した当の田村智子議員も予想していなかったらしい。政権側は今、必死にマスコミを抑え込みにかかっているが、いったん民衆の中に芽生えた現政権に対する幻滅は、少しずつ少しずつ、しかし確実に広がりはじめているのかもしれない。

正月が来れば、だれもが「新しい時代を迎えよう」という気分になる。そして日本人は、桜の花が咲くのを指折り数えて待っている。であれば、桜疑惑もそのときまで引き延ばされるかもしれない。桜が咲けば、いやでも疑惑を思い出すだろうし、来年も再来年も忘れないにちがいない。

安倍晋三とその取り巻きたちによって桜の花の純潔が汚された……その記憶は、多くの民衆の心の中に残された。

桜を見る会」では、開園前に安倍晋三の地元支援者たちだけを呼び入れて盛大に飲み食いさせ、一般の招待客が入っていったときにはほとんど食い物が残っていなかったのだとか。このすさまじい「ハイエナ」ぶりは、いったい何だろう。これが日本列島の美しい伝統なのだろうか。地元下関の支援者たちだけではない、そもそも総理大臣とその周辺の権力者たちが「ハイエナ」以上の貪欲さでこの国のあらゆる利権をしゃぶりつくそうとしている。

しかし今ようやく、そのことに気づいてうんざりしはじめている民衆が増えてきたのだろうか。桜を見る会疑惑報道や伊藤詩織事件勝訴に象徴されるように、司法やマスコミに対する政権からの締め付けも少しずつかげりがあらわれてきている。

民衆の気分は時代の気分であり、その「新しい時代」を待ち望む「気分」から山本太郎現象が生まれてきたのだろうし、政治家や資本家やマスコミも最終的にはそれを無視することはできなくなるにちがいない。だから彼らは情報操作をしようとするのだし、民衆の気分が「べつにここのままでいい」というような無気力であれば状況は何も変わらない。

新しい時代は、民衆の中の「新しい時代の到来を夢見る気分」から生まれてくる。政治家や資本家等の既得権益者がそれを夢見るはずがないし、多くの民衆がそこに巻き込まれる時代もある。それが、戦争ばかりしていたあの帝国主義の時代であり、現在のバブル以降の「失われた20年(あるいは30年)」だったのかもしれない。

 

 

政治なんかに興味はない。

でも、選挙は政治ではなく、人と人が他愛なくときめき合い助け合う場を生み出すための「祭り」なのだ。だから、われわれにも選挙に行く理由はある。

政治のことをやまとことばで「まつりごと」という。古代および古代以前の人々は、「政治」のことをどのようなものだと考えていたのだろうか。彼らは、「まつり=まつる」という言葉にどんな意味を込めていたのだろうか。

古代には、大和朝廷の支配に従わない九州や東北の辺境の者たちのことを「まつろわぬもの」と呼んでいた。だから「まつる」とは「支配する」ことだと歴史家によって解釈されることが多い。そしてその延長として古代の「祭り」は「呪術によって支配する場」だと考えられていたりする。

しかし「まつる=まつらふ」という言葉のほんらいの語義は、「支配する」ということにあるのではない。それは、大和朝廷という人を支配する文明国家が生まれる前から存在していた言葉であり、人も自然(神羅万象)も支配しないでそれらと「調和」してゆくのが日本文化の伝統であるのなら、もともと「支配」という概念などなかったし、「呪術」という「支配のための道具」も存在しなかったことを意味する。大和朝廷成立以前の日本列島は「原始共産制」の社会だったのであり、そういう集団運営の作法のことを「まつる=まつらふ」といった。

ここでいう「原始共産制」とは、「支配」など存在しない「だれもが他愛なくときめき合い助け合ってゆく直接民主主義的な集団運営」のことであり、そういう無主・無縁の「混沌」の中で賑わってゆく催しの場を「祭り」といった。

「まつり」という言葉のほんらいの語義は「支配」ではなく「調和」ということにある。

「まつらふ=まつり合う」とは誰もが他愛なくときめき合い助け合うことを意味していたわけで、そういう無主・無縁の混沌の中でだれもが他愛なくときめき合い助け合ってゆく「原始共産制」の集団運営のことを「まつる=まつらふ」という。大和朝廷成立以前の社会ではその「混沌」こそが「調和」だったわけで、大和朝廷もたてまえ上ひとまずそのニュアンスを踏襲して政治のことを「まつりごと」といった。

着物やズボンやスカートの裾を折り返して縫うことを「まつる」という。それは「整える=調和」という意味だ。

「語り合う」ことを昔は「語らふ」といったように、「まつらふ」は「まつり合う」であり、みんなで集団の関係を「整え合う」ことを「まつりごと」という。ひとりもしくは少数が全体を「支配」すること「まつりごと」といったのではない。

「まつる」という言葉の語源は、「支配する」という意味だったのではない。

「まつろわぬもの」とは「ときめき合い助け合う<祭り>に参加してこないもの」ということ、そういう意味で今の政権も右翼たちも「まつろわぬもの」たち、すなわち「反社会的勢力」なのだ。

 

 

だれもが他愛なくときめき合い助け合ってゆく集団運営の作法のことを「原始共産制」という、それのどこがいけないのか。現在の共産党員がどんな思想を持っているのか、僕はよくわからないが、少なくとも「共産制」という集団のかたちを全否定することはできない。むしろそれこそが人類の理想であり、理想であるがゆえに今すぐ実現するのは困難だという現実の状況があるだけのことだろう。

ともあれ、古代以前の日本列島の人々にとっての「まつりごと」とはだれもが他愛なくときめき合い助け合う「原始共産制」で集団を運営することだったのであり、「支配」を意味していたのではない。そしてその集団性を担保するよりどころとして「起源としての天皇」が「祭り」の場で祀り上げられていった。そうやってみんなで「祭り」のカリスマアイドルを選んで盛り上がってゆくことを「祀り上げる」という。

この国ではもともと人が「かみ」だったのであり、だから今でも家庭の主婦(=山の神)も旅館の女主人(=女将)も「かみ」というのだし、起源としての天皇という「かみ」もおそらく女だったのだ。

選挙が「祭り」にならなければ、投票率は上がらない。今どきはつまらない政治家ばかりなのだもの、盛り上がるはずがない。

現在において、民衆がみんなで祀り上げる「カリスマ=かみ」となりうる政治家なんかどこにもいない……そういう状況から、ようやく山本太郎が登場してきた。

山本太郎が何をしてくれるかではない。山本太郎をみんなで祀り上げることによって、みんなが他愛なくときめき合い助け合う空気が醸成されてくる……そうやってみんなで社会をつくるということ、古代以前の民衆は、そうやってみんなで天皇という「かみ」を祀り上げてゆくことによって、だれもが他愛なくときめき合い助け合う社会をつくっていった。天皇は、何もしてくれないし、民衆を支配しているのでもない、ただもう純粋に民衆の存在を祝福しているだけだ。それが原始時代以来続いてきた人間社会ほんらいのリーダーの姿であり、だからこそ、みんなで天皇を祀り上げてゆくことによってだれもが他愛なくときめき合い助け合う関係の社会が生まれてくる。

山本太郎だって、ただもう純粋にひたむきに民衆を祝福しているだけであり、天皇制のこの国にはそういう存在をリーダーに祀り上げようとするメンタリティの伝統があるわけで、それはまた「原始共産制」を基礎とし究極の理想ともしている人類の集団性の伝統でもある。

人間性の本質においては、何かをしてくれる「支配者」をリーダーとして祀り上げるのではなく、何もしてくれないがひたすら魅力的で「そこにいてくれるだけでいい」と思える対象をリーダーとして祀り上げてゆく。そこがボス支配のサル社会の集団性とは違うところであり、そうやって人類は無限に大きな集団をつくることができるようになった。

 

 

政治に興味なんかなくてもいい。みんなでお神輿を担いで「わっしょい、わっしょい」とやるのは楽しい。そうやってみんなが山本太郎のように他愛なくときめき合い助け合う存在になれれば、その「祭りの賑わい」とともに投票率が上がってゆく。

山本太郎の人気と政策とその活動の基礎には、だれとでも他愛なくときめき合い助け合うことができるその純粋無垢なキャラクターが隠れている。彼はそういう生まれたばかりの子供のような魂の持ち主であるらしいのだが、それはまただれの心の底にも息づいているものでもある。だれもが赤ん坊である時代を体験している。そういう「なつかしさ」を呼び覚ましてくれる存在として山本太郎が登場してきたのだし、それはまた天皇に対する「なつかしさ」でもある。

この国には天皇が存在するから、山本太郎のようにひたむきで純粋なキャラクターの政治家が登場してきたのだと思う。そういう意味で彼もまた「ジャパンクール」な存在であり、だから欧米のインテリからも注目されているのだろう。

ベルギーの若い映画監督は3年がかりで山本太郎の政治活動を記録した「ビヨンド・ザ・ウェイブス」という映画を撮ったし、前回の参議院選挙におけるれいわ新選組の活動を追いかけた原一男の『れいわ一揆』という記録映画はロッテルダム映画祭に招待されたし、彼は世界的にも珍しいタイプの政治家であるのかもしれない。いい意味で「子供っぽい」のだ。マッカーサーは「日本人は13歳から成長しない」といったそうだが、そういう少年のようなひたむきさと無鉄砲のままで政治の世界に挑んでいっている。おそらく天皇制が、そういう日本人とそういう政治家を生み出す。

13歳の少年少女は、自分を忘れて何かに熱中してゆく。「腹切り」や「特攻隊」だって、けっきょくそういうメンタリティであるのかもしれない。

天皇は、この国の「家長」でも「支配者」でもなく、みずからの命も人生も投げ捨てた「生贄」であり、山本太郎もまたそういう存在であろうとしているし、だから多くの民衆が賛同し拍手している。

良くも悪くも日本人は成熟しない。それが天皇制の風土であり、それが「ジャパンクール」だ、ともいえる。

また、民衆の国家意識や公共心が成熟しないから、ずる賢い政治家や官僚や資本家に好き勝手なことをされてしまうという現在の社会状況になっている。そのひどいモラルハザードに抗って山本太郎が立ち上がった。しかし、彼が何をしてくれるというのではない。彼はたんなる「神輿=生贄」であり、多くの民衆が担ぎ上げることによって、はじめて新しい時代に向けて動き出す。

「今のままでいい」と思ってしまったら「あの連中」の思うつぼであり、あなたが投票に行かなかったせいで、この世の生きられない人がもっと生きられなくなってしまう……山本太郎はそう訴えている。新しい時代を夢見る心を失ったら人間ではなくなってしまう、と。

 

 

今どきのエセ右翼たちは「日本人に生まれてよかった」などと大合唱しているが、日本人は日本人であろうとなんかしない。「新しい日本人」になることを夢見ている。そういう「13歳」が日本人なのだ。

日本人は成熟しない。公共心も国家意識も薄い。それが日本人というか日本列島の民衆の伝統なのだもの、しょうがないじゃないか。政治に関心がなくて何が悪い?「大人なんか、みんな腐っている」と思って何が悪いのか?

また、死にたがる思春期の少年少女や生活や人生に疲れ果てた大人たちに対して、リベラルな知識人たちがよく「自分には生きる価値がある」という「セルフリスペクト」を持ちなさい、などというが、僕は「自分なんか生きる値打ちもない人間のクズだ」と思っている。それが日本人なのだもの、そう思って何が悪い?「セルフリスペクト」とやらを持つことができるほど成熟できないのが日本人なのだ。だから自殺率が高いのだろうが、しかしだからこそ自分のことなど忘れて他愛なく世界や他者の輝きにときめいてゆくこともできるわけで、その「他愛なさ」で人と人がときめき合い助け合ってきたのが日本列島の民衆の歴史にほかならない。

「自分なんか生きる値打ちもない」と思っていても、だれかが自分に対して「生きていてくれ」と願ってくれているし、自分だってだれかに対して「生きていてくれ」と願わずにいられない。その関係性こそが、人を生かしている。

だれもが「自分には生きる値打ちがある」と思っている世の中なら、だれも他者に「生きていてくれ」と願う必要なんかないではないか。

自分の生が正当であるのなら、自分の生の邪魔になる相手は排除しなければならなくなる。そうやってネトウヨは、差別やヘイトスピーチを繰り返している。

いや、人類そのものの歴史がその「向こう見ずな他愛なさ」によって進化発展してきたともいえるわけで、それが「ジャパンクール」として世界中の若者の共感を呼んでいるのではないだろうか。

原初の人類は、二本の足で立ち上がることによって成熟することをやめた。そして成熟するのをやめたことによって、新しい世界を夢見つつさまざまなイノベーションを起こしながら進化発展してきた。

「このままでいい」とか「日本人に生まれてよかった」とか「セルフリスペクト」ということなど、人類の伝統でも日本人の伝統でもない。

「セルフリスペクト」なんて、アホなネトウヨたちの「日本人に生まれてよかった」という大合唱と同じではないか。

 

 

人間とは「人間とは何か?」と問い続ける存在であり、日本人とは「日本人とは何か?」と問い続ける存在であり、したがってわれわれ日本人は永遠に「日本人」になることができない。つまり「日本人として成熟することなんかできない」ということで、それが「日本人」なのだ。なんといっても、死ぬまで「13歳」であるわけで。

日本人の人生は、13歳で終わっている……それは、死ぬまで夢見る13歳のままだということであり、死ぬまで日本人になり切れないのが日本人だ、ということでもある。

人間とは死ぬまで人間になり切れない存在であり、そうやって死ぬまで「人間とは何か?」と問い続けてゆく。

13・14・15歳、すなわち思春期は、人生でもっとも勢いよくペニスが勃起する年ごろであり、そこで人生が終わったからといって、けっして不幸なことだともいえない。

13・14・15歳の少女は、「(セックスを)やらせてあげてもいい」という気分を本能的に持っている。それは、体形や体質が急激に変わりはじめていることに対するとまどいやおそれからくるものであり、セックスをやらせてあげることはそこからの解放であると同時に、ひとつの自傷行為でもある。彼女らにとってそれはひとつの「死」であり、だからこそ「やらせてあげてもいい」と思ってしまう。まあ日本人の女は死ぬまでそういう気分で生きてゆくわけで、だから主婦も平気で不倫をするし、女子大生だってフーゾクで働くことを厭わない。いつまでたっても13・14・15歳の「処女」の気分を引きずっているからこそ、そういうことをしてしまう。日本人の女は、死ぬまで「女」になれないで、死ぬまで「女とは何か?」と問い続けてゆく。

問うこと、すなわちその解答はひとつの「異次元の新しい世界」であり、それが日本人の「好奇心=探求心=進取の気性」の伝統になっている。

 

 

10

「13歳」こそこの世でもっとも人間的で哲学的な存在である。人間なんてそのあとはもう、俗っぽく汚れてゆくだけだろう。「人間とは何か?」ということがわかったつもりになって、その根源的な問いをどんどん失ってゆく。

「人間とは何か?」とか「日本人とは何か?」とか「男とは何か?」とか「女とは何か?」と問わずにいられない、その「愚かさ」や「未熟さ」を否定するべきではない。そこにこそ人間性の真実がある。

政治に無関心であることも、自分なんか人間のクズだという嘆きも、人間存在の本質・自然に照らせば否定することはできない。人はそこから生きはじめ、この世界や他者の存在の不思議に驚き、その輝きに他愛なくときめいてゆく。

「13歳」の日本人は、政治よりも「色ごと」に興味がある。「色ごと」とは、世界や他者の輝きに他愛なくときめてゆくこと。そして「色ごと」のよろこび(=快楽)は、死と背中合わせのところで汲み上げられる。だから「13歳」は死に急ぐし、「自分には生きる価値がある」などとは思っていない。しかしわれわれ大人はそのことを否定するべきではない。なぜならその「絶望=嘆き」から、この生のもっと豊かな輝きが現れてくるからだ。

「13歳」の輝きは、人類普遍の輝きである。古代以前の奈良盆地では、その輝きにみんなしてときめきながら「起源としての天皇=処女の巫女」を祀り上げていった。

人類は、文明国家の発生とともに人間性の真実としての「他愛なさ=愚かさ=未熟さ」をしだいに失ってきた。失いつつ、しかしつねに失うまいと四苦八苦してきた。だから現在においても、その「他愛なさ=愚かさ=未熟さ」=「処女性」が「ジャパンクール」として世界中から評価されている。

「処女性」は、男であろうと女であろうと「人間性の真実」としてだれの中にもある。

政治に無関心であってもかまわない。それでもわれわれが投票に行く理由はある。そのイベントが「人間性の真実」を守り取り戻そうとする民衆社会ほんらいの「祭り」になれば、投票率はきっと上がる。

山本太郎の街宣にあんなにもたくさんの人が集まってくるのは、まぎれもなく人類集団の普遍的な生態としての「祭りの賑わい」であり、おそらくそこで人々は、他愛なくときめき合い助け合おうとする「人間性の真実」を取り戻そうとしているのだ。

 

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キンドル」から電子書籍を出版しました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』

初音ミクの日本文化論』

それぞれ上巻・下巻と前編・後編の計4冊で、一冊の分量が原稿用紙250枚から300枚くらいです。

このブログで書いたものをかなり大幅に加筆修正した結果、倍くらいの量になってしまいました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』は、直立二足歩行の起源から人類拡散そしてネアンデルタール人の登場までの歴史を通して現在的な「人間とは何か」という問題について考えたもので、このモチーフならまだまだ書きたいことはたくさんあるのだけれど、いちおう基礎的なことだけは提出できたかなと思っています。

初音ミクの日本文化論』は、現在の「かわいい」の文化のルーツとしての日本文化の伝統について考えてみました。

値段は、

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』上巻……99円

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』下巻……250円

初音ミクの日本文化論』前編……250円

初音ミクの日本文化論』後編……250円

です。