「男系男子」というグロテスク

現在のこのブログで書き続けているシリーズの主題は、天皇制の起源と本質を問うことにある。

元号が平成から令和に代わったことだし、戦後もすでに70年以上経過して、そろそろもう明治以来捏造されてきた天皇観にケリをつけてもいいのではないだろうか。

いや、大和朝廷の発生以来権力者によって捏造されてきた天皇観、というべきだろうか。

起源としての天皇は、大和朝廷の発生以前の奈良盆地の民衆から祀り上げられるようにして生まれてきた。

われわれにとっての天皇とはどのような存在であるのか。ここでは、そういうわれわれ民衆の歴史の無意識について考えたいのだ。

右翼であれ左翼であれ、現在の天皇についての論議のほとんどは、古事記日本書紀等の古代の大和朝廷が捏造した天皇像を基礎にして語られている。

古事記」や「日本書紀」にどんな史実が含まれているか、ではない。その歴史文書によって権力者は何を捏造しているのかということを問うのが歴史家の仕事であり、それは、さもそこに史実が隠されてあるかのように見せかけながら史実を捻じ曲げているのだ。

「神武東征」の話には史実が隠されているのか?さも隠されてあるかのように装っているが、隠されている史実など何もない。むしろ逆に、そのとき大和朝廷の権力者たちは、起源としての天皇奈良盆地の土着の民衆に祀り上げられながら生まれてきたという史実をなかったことにしようとしているのだ。

まあ「歴史修正主義」はこの国の権力社会の伝統であり、だから現政権も、平気で公式文書を改竄したり隠蔽したり破棄したりしてしまう。大和朝廷がもったいぶって記した「古事記」や「日本書紀」によってどれだけの史実が葬り去られてきたことか。

天皇の起源と本質についての真実は、政治権力とは別の次元の、われわれ民衆の心(=歴史の無意識)の中に宿っている。

人は心の底に何かを祀り上げずにいられない「遠いあこがれ」を持っている。その対象をここで「神」というのだとしたら、はたしてそれは「男の神」か、それとも「女神」か。天皇の起源と本質を問うことは、まあそういう問題なのだ。

 

 

天皇とは何か」という問題を、今どきの右翼から教えられることなど何もない。三島由紀夫であれ江藤淳であれ西部邁であれ、僕は信用していない。ましてや百田尚樹とか櫻井よしことかの「ネトウヨ」と呼ばれている連中のいっていることなど論外で、けっきょく彼らは、「古事記」や「日本書紀」の記述がそうであるように、天皇を政治的な権力とか権威の問題として語っているにすぎない。

天皇という存在の本質は、人々が他愛なくときめき合い助け合う関係性=集団性の形見であることにある。そういう「愛」の問題であって、「政治支配」とか「権力」とか「権威」などという問題ではない。

天皇制の伝統は、この国ならではのというか人類普遍のというか、「愛=色ごと」の文化の伝統でもある。だから外国人も天皇に関心を抱くわけで、たんなるこの国限定の社会制度の問題であるのなら、そういう普遍的な関心にはならない。

人と人が他愛なくときめき合い助け合う社会の実現は、人類普遍の夢ではないか。そういう「魂の純潔に対する遠いあこがれ」は、世界中のだれの心の中にも息づいている。

天皇は、明治以来の大日本帝国が主張したような、「国家」の権力や制度の正当性を担保するする「権威」であるのではない。「愛」すなわち人類普遍の「魂の純潔に対する遠いあこがれ」の形見なのだ。

もしかしたら「天皇とは何か」という問題をいちばんよくわかっていないのは、外国人ではなく、この国の右翼たちかもしれない。まあその起源と本質は政治的な事項ではないわけで、右翼であれ左翼であれ、「政治オタク」にわかる話ではないのだ。

われわれ民衆が天皇に対して抱く「遠いあこがれ」や「なつかしさ」は、起源としての天皇が政治権力とは別次元の存在だったことを示唆しているし、日本列島の民衆がなぜ政治に関心が薄いかということのあらわれにもなっている。

政治に対する関心が薄くて、なぜいけないのか?それは、われわれの「民度の低さ」をあらわしているのか?われわれ民衆にとって大切なのは、政治的な正義・正論ではなく、「愛=色ごと」であり、この国はそういう文化を洗練させて歴史を歩んできた。それは「関係性」の文化あるいは「人情のあや」の文化であり、人がこの世に存在することの「実存」の問題でもあるわけで、そういう問題は政治の問題よりも程度が低いだろうか。好むと好まざるとにかかわらずこの国の天皇は、本質的には政治とは無縁のそういう文化のよりどころとして生まれ存在し続けてきたのであり、それを大和朝廷以来の権力社会が無理やり政治的存在に仕立て上げてきたにすぎない。

われ和民衆は、権力社会から天皇を取り戻すことができるだろうか。

 

 

先日の大嘗祭の儀式は、ほんとに愚劣で醜悪だった。

平安絵巻だか何だか知らないが、そんな衣装でひな壇に立たされた天皇の姿も、これ見よがしの十二単みたいな衣装でその下に侍っている女官たちの姿も、嘘っぽいというか、違和感満載で、さらにその前で万歳三唱をする総理大臣にいたってはグロテスクそのものだった。天皇を政治利用しようとする意欲満々ということだろうか。権力者の意図だけで進行して、天皇家の意思などまるで感じられない儀式だった。べつにそれが起源以来天皇家に伝えられてきた作法だというわけでもあるまい。平安絵巻にするということ自体が嘘っぽいのだ。天皇は、あの式次第に納得し満足していたのだろうか?

もともと天皇はまわりから祀り上げられながら生きているというか任務を遂行している存在であるのだが、その「まわり」が権力者ではなく民衆に代わったのが戦後の象徴天皇制だったのではないか。権力者がむやみにしゃしゃり出てくることを禁止しているのが象徴天皇制ではないのか。

べつに天皇制が平安時代からはじまっているわけでも、その時代に天皇がいちばん政治的に活躍していたわけでもない。天皇が政治に活躍していた時代など一度もないし、平安時代天皇藤原氏という権力者に完全に牛耳られていた。だから「源氏物語」の光源氏のように「色ごと」に専念する天皇もいたのだろうし、和歌などの「遊芸・学問」に熱中していった天皇もいた。言い換えれば、そこにおいて活躍するのが天皇のほんらいの姿だともいえる。なんといっても起源としての天皇は、歌や踊りの美しさが際立った「処女=巫女」だったのであり、そういう意味では大和朝廷成立以前の時代こそ天皇がもっとも活躍していた時代だったのかもしれない。そしてそういう時代を取り戻そうとするかのように今、民衆のあいだから「愛子天皇待望論」が沸き上がっている。

現在の右翼政権は、野党勢力の弱体化の上に胡坐をかいてすっかり頭に乗り、あくまで「男系男子」を強行しようとしているわけだが、果たして民衆はそれを押し返してしまうことができるだろうか。

「愛子天皇」こそ、この国ほんらいの天皇制のかたちなのだ。まあ人類700万年の歴史の99・9パーセントは「女系」社会だったのであり、この国では1500年前の大和朝廷成立とともにようやく「男系」がいわれるようになってきただけのこと。

「男系男子」なんて権力者たちの権力欲から生まれてきたたんなる妄想であり、この国の集団性の文化の伝統は人と人が他愛なくときめき合い助け合うという原始的な無主・無縁の「共産制」をどこまでも洗練させてきたことにあり、その先にこそ人類の理想としての究極の集団性がある。

天皇は民衆社会における原始共産制的な集団性の形見であり、それは「政治」ではない。天皇は、政治的な存在ではない。政治の理想は「政治ではない」ことにあり、そこにこそ共産制の本質がある。「共産制」とは「政治ではない政治」なのだ。だれもが他愛なくときめき合い助け合っているだけで政治なんかしていないのに、気がついたらそれが「政治=集団の運営」になっている……そこにこそ共産制の起源があると同時に人類史の究極の理想にもなっている。そういう原始的な集団性こそ」がこの国の民衆社会の伝統であり、その集団性を担保する形見として古代以前の奈良盆地において天皇が生まれてきた。

 

 

天皇制」と「共産制」はその本質において何ら矛盾しない。そこにおいてこそ人類の集団性の起源であると同時に究極でもあるかたちが体現されている。つまり、「他愛なくときめき合い助け合う」という普遍的な人類の集団性の本質にかなっている、ということだ。

日本列島の民衆は、左翼的な共産主義者であると同時に、右翼的な天皇主義者でもある。また、どちらでもあると同時にどちらでもない、ともいえる。なぜなら世の政治オタクの左翼のような共産主義国家などイメージしていないし、同様に政治オタクの右翼のような権威主義的権力主義的な天皇観も持っていないからだ。

資本主義と共産主義はどこが違うのか?

現在の資本主義社会では、貨幣の機能の本質を「交換」という関係性で説明している。それに対して原始共産制の社会における貨幣(=きらきら光る貝殻や石粒)は、あくまで一方的な「贈与=ギフト」の形見であり、そもそも「交換」という関係性そのものがなかった。なぜならみんなが一方的に贈与し合い献身し合っているのであれば、「交換」する必要がなかったからだ。したがって人類が本格的な「交換」の貨幣経済の時代に入ってゆくためには長い過渡期の時間を要したし、現在においても家族をはじめとして一方的な「贈与=ギフト」の関係は残っている。というか、そこにこそ人間性の基礎=本質や尊厳があると信じられてもいる。

たとえば「借金」には「利子」がつく。それは、そのお金が「贈与」の形見であって「交換」されたものではないということの「アリバイ」になっているのだ。

「交換」というのは、あくまで社会制度上の観念的な関係であって、人間性の本質としてあるのではない。ほかの生きものだって、親子等のあいだで一方的な「贈与」や「献身」の関係性は持っているが、「交換」などということはしない。

したがって「共産制」は生きものとしての本質にかなっているし、人類の理想でもある。まあ現在のようなグローバル資本主義の世の中にあって今すぐ実現可能な社会形態ではないだろうが、「間違っている」と否定することはできない。むしろわが世の春を謳歌している資本主義の、その「交換」という関係性こそ人間性の本質から逸脱しており、やがて淘汰されてゆくだろうと推測することもできる。

 

 

起源としての天皇は、人と人の「贈与」と「献身」の関係を担保する形見として「原始共産制」の集団から生まれてきたわけで、今でもそこにおいての輝きが民衆から慕われ祀り上げられる由縁になっている。

戦後の「象徴天皇」という規定は、起源としての天皇の輝きを取り戻そうとすることでもあったわけで、歴史上まったく新しい天皇像というのではない。平成天皇は、まさにその「献身性」によって輝き、多くの民衆から慕われ祀り上げられていた。

この国の天皇の輝きは「生贄」としての輝きであり、そこにこそ世界中から関心を寄せられる普遍性がある。

まあローマ教皇だって「生贄」のような存在なのだろうが、天皇の場合は宗教色が薄い分だけより普遍的だともいえる。天皇の存在の本質は、「宗教的」であるのではなく「原始的」なのだ。

原始時代は母系社会だったし、起源としての天皇は「女神」だったわけで、「女神」を祀り上げるのは普遍的な人間性だ。

天皇が「男系男子」であらねばならない必然性など何もない。たぶんそれは、権力者の勝手な都合なのだ。

権力者が自分の娘を天皇の嫁にして天皇を操る。そうやって平安時代藤原氏は好き勝手に権勢をふるってきた。もしも天皇が女で自分の息子を婿にあてがっても、息子は自分よりも上の立場の権力者になって自分に背くかもしれないし、背かなくても権力の二重構造になってしまう。「父殺し」は人類史の普遍であり、天皇はあくまで自分に背かない無色透明な存在としての「権力を持たない権力者」であらねばならない……それが彼らの「男系男子」にこだわる理由なのだ。

民衆にとっては、天皇が女であったほうがより深く直接的に祀り上げてゆくことができる。しかしそれは権力者にとってはとても都合の悪いことで、彼らにとっての天皇は内裏の奥に隠れていてもらわなければ困る。だから平成天皇が何度も被災地に訪れて民衆と直接言葉を交わすのを、いつも苦々しげな顔をしてあれこれ難癖をつけていた。平成天皇のカリスマ性は、女性性でもあった。だから彼らは気に入らなかったのだろう。

男の神は「支配」の象徴であり、そうやって権力支配の正当性を保証している。それに対して女神は、人と人が「他愛なくときめき合い助け合う無主・無縁の関係」の形見=象徴であり、そうやって民衆の心に寄り添ってゆく。

まあ平成天皇には美智子皇后という女神といつも行動を共にしていたわけだが、女性性を嫌う右翼権力者は、本能的に皇后が目立つのをとても嫌う。だから彼女は皇太子妃時代からさんざん陰湿な嫌がらせをされてきたし、それは現在の雅子皇后も同じだ。

彼らが「男系男子」にこだわるのは、天皇のためではない。権力支配の社会構造を正当化したいためだ。いったい「男系男子」ということが続いたからといって、どんな意味や価値があるというのか。人類700万年の歴史の99・9パーセントの期間は父親がだれかということなどわからない「母系社会」だったのであり、人類の集団が集団運営のためのよりどころとしての存在(=神)を祀り上げずにいられないメンタリティを普遍的に持っているとしても、根源においてその対象となるのは、文明国家における権力支配を正当化してくれる「男の神」ではなく、だれもが他愛なくときめき合い助け合う集団の賑わいをもたらしてくれる「女神」であり、そういう普遍性の上に立って古代以前の奈良盆地で起源としての天皇が生まれてきた。

果たして現在のこの国で、「男系男子」の歴史的な正当性と必然性を正確に説明できる右翼がいるのだろうか?権力欲に凝り固まった自分たちの気分を満足させたいためだけの動機で、そんな妄想を掻き立て騒ぎ立てているだけだろう。なんとまあ、醜悪な景色であることか。

 

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『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』

初音ミクの日本文化論』

それぞれ上巻・下巻と前編・後編の計4冊で、一冊の分量が原稿用紙250枚から300枚くらいです。

このブログで書いたものをかなり大幅に加筆修正した結果、倍くらいの量になってしまいました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』は、直立二足歩行の起源から人類拡散そしてネアンデルタール人の登場までの歴史を通して現在的な「人間とは何か」という問題について考えたもので、このモチーフならまだまだ書きたいことはたくさんあるのだけれど、いちおう基礎的なことだけは提出できたかなと思っています。

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