民主主義の牙城

首里城が燃えたのは、ショックだった。沖縄の受難の歴史を象徴するような出来事に思えた。たぶん沖縄は、モナコのように独立するのがいちばんいいのだろう。もしもモナコ美しい国としてヨーロッパじゅうから愛されているとしたら、沖縄だってアジアじゅうから宝石のように美しい島国として愛されるべき資格がある。その愛が足りないのは沖縄を本土防衛のための捨て石の要塞のように考えているこの国の右翼たちで、そんな連中がこの国でのさばっているかぎり沖縄の受難はまだまだ続くにちがいない。

たぶんこの国は、右翼を淘汰してしまうことはできないだろう。すべての右翼が醜悪だというわけではないし、たとえ醜悪であっても許してしまう国民性=風土がある。許してもかまわない。しかしわれわれ日本人は、あの醜悪な右翼たちを置き去りにしてしまわねばならない。置き去りにされたら彼らだって、やがてはわれわれについて来ようとする。この国のほとんどの右翼なんか、べつに深い思考や信念があるのではなく、ただ権威とか権力というものしがみつきたいだけなのだ。

差別やヘイトスピーチをしないことがトレンドの世の中になれば、あの醜悪な右翼たちもだんだんいなくなってゆく。まあ彼らは、総理大臣が味方しているから付け上がっているだけなのだ。

明治以降のこの国では天皇が権威や権力の象徴だったから彼らはそれにしがみついているのだが、日本列島の長い歴史においては、べつに権威でも権力でもなかったし、権威・権力の象徴として生まれてきたのではない。まあ大和朝廷発生以降の権力社会においては天皇のそばにいて天皇を支配しつつ権威や権力の象徴のようにでっち上げてきたが、少なくとも民衆社会においては、あくまでも「遠いあこがれ」として祀り上げてきただけだ。

民衆にとっての天皇は、権威でも権力でもない。「人間性の真実」すなわち「魂の純潔」に対する「遠いあこがれ」の形見なのだ。だからまあ、ふだんは天皇のことなど忘れているが、心の底にはいつも「遠いあこがれ」の対象として天皇が棲みついている。それが、日本人としての歴史の無意識なのだ。

天皇にしがみついて天皇を支配しているなんて、駄々っ子が母親にしがみついて母親を支配しているのとそっくりそのまま同じではないか。

愛とは、「遠いあこがれ」なのだ。今どきの右翼にはそれがないし、それがあれば、天皇に対して「男系男子」だの「万世一系」だのと、自分たちの勝手な思い込みを押し付けることはできない。

彼らは支配することが大好きな人種で、天皇の権威を借りて好き勝手にいろんなことを押し付け支配しにかかってくる。彼らが愛しているのは「支配すること」であって、「天皇」その人ではない。天皇その人を愛しているのなら、天皇はいかにあるべきか、ということなどいえるはずがない。彼らは、天皇に対しても、そのえげつない支配欲を遠慮会釈なく向けている。その「つつしみ」のなさはいったい何なのか。それでも日本人か、といいたくなる。お願いだから、これ以上われわれの天皇をおもちゃにしないでくれ。

 

 

というわけで彼ら右翼にとっての沖縄は、支配するべき対象でしかない。本土が大切で天皇が大切だというなら、本土以外の地域も天皇以外の存在も、どうでもいいものになってしまう。そして沖縄は本土を守るための要塞=捨て石だし、すべての民衆は天皇を守るための道具にすぎない。天皇自身はそんなことなど何も望んでいないのに、右翼たちは天皇に対して民衆を支配するための権威・権力であれとたくさんのことを要求してゆく。けっきょく彼らの愛しているのは「権威・権力」であって、天皇ではない。

しかし民衆は、天皇の存在そのものの輝きにときめいているのであって、根源的には天皇の権威や権力など求めていない。

「愛する」とは「遠いあこがれ」のことだ。

たとえば被災地を訪れた天皇に対して被災者の民衆は、ひれ伏して顔も上げられないということなどない、ただもう他愛なくときめきながら天皇がかけてくれた言葉に甘えてゆく。権威だからときめくのではない、輝いているからときめくのだ。純粋な存在そのもの輝き。人が赤ん坊の愛らしさにときめくのは、べつに権威だからではないだろう。お母さんにときめく赤ん坊は、権威などというものを意識しているわけではないだろう。そういう純粋で他愛ないときめき、すなわち「遠いあこがれ」の形見として日本列島の民衆は天皇を生み出し、長い歴史の中で祀り上げてきた。

 

 

「遠いあこがれ」は、人類普遍の愛のかたちなのだ。原始的な集団においては、そのようにしてリーダー的な存在が選ばれていった。権力を握ったものが君臨していたのではない。権力者など存在しなかった。権力者が生まれてきたのは、集落が都市化して文明国家になってからのことだ。

だれかが、「原初、女は太陽であった」といったが、人類の歴史は、まず女を集団のリーダーに祀り上げた。ネアンデルタール人以来、原始代はほとんどの集落が乱婚関係で、父親がだれかということなどわからなかった。したがって「家族」などという単位はなく、「母子関係」があっただけだ。だったら、すべての男の上に母親がいるということで、とうぜん母親である女が祀り上げられることになる。また、権力者が存在しない原始的な集落のいとなみは人と人のときめき合う関係が基礎になっており、その関係を活性化させる能力は女のほうが豊かにそなえている。母子関係はもちろんのこと、男と女のセックスの関係だって、女が「やらせてあげる」という気になってくれないことには成り立たない。いろんな意味で原始時代は、女が上位の社会だった。

人類学者は、原始社会の構造について語るとき、つねに狩りや採集や農業等の「食料生産」のことを中心的な問題にしてしまっているが、そうじゃない、原始集落運営の中心的な問題は男と女の「セックス」にあったのだ。だから「女は太陽」であり、世界中どこでも母系社会だった。

ことに日本列島は、大陸以上に「女が太陽」の母系社会の時代が長く続いた。縄文時代弥生時代もずっとそうで、1500年前の大和朝廷成立の時代まで続いた。したがって起源としての天皇大和朝廷成立以前に存在していたとすれば、とうぜん女だったことになる。

今でも女のことを「おかみ」とか「やまのかみ」というのは、天皇の起源・本質に由来する歴史の無意識であり、少なくとも民衆社会は本質においてそういう構造になっている。まあ、だから「人妻の不倫」が流行るのだ。

日本列島の民衆社会における集団性の伝統は、「原始的」な人と人が他愛なくときめき合い助け合うことにある。そしてそれは女の本能であり、その構造を天皇制が担保してきたのだし、そこにこそ普遍的な「民主主義」の基礎と究極のかたちもある。

 

 

沖縄と本土の人間の民族的遺伝子的なルーツはほぼ同じである、といわれている。

だから同じ国でもかまわないということになるわけだが、大きく海で隔てられた縄文時代以降の歴史と文化はかなり違うところがある。

まず地政学的に見て、沖縄は縄文時代から積極的に海に出ていったが、本土はほとんど鎖国的な歴史を歩んできた。だから沖縄は早くから中国大陸の国家共同体の文化の洗礼を受けてきたし、それに対して本土の民衆が国家共同体を意識し始めたのは明治以降のことにすぎない。

琉球王朝ができたのが15世紀ころで大和朝廷が生まれたのは5~6世紀ころだが、民衆の共同体意識の芽生えは、逆に沖縄のほうがずっと早い。だから今でも民衆の政治意識・共同体意識は沖縄のほうが高い。そうやって現在の沖縄は、この国の民主主義の最先端を歩む地域になっている。

万葉集の「詠み人知らず」の民衆の歌なんか個人的な恋や旅や暮らしのことばかりだが、沖縄の古い「おもろさうし(草子)」という歌集には「共同体」を意識したものがたくさんあり、それでも国家共同体へと発展するのが遅れたのは、小さな島ばかりでなかなか「都市集落」を形成できなかったからだろう。そうして15世紀になって、ようやく「首里」という都市集落と「琉球王朝」という国家共同体が生まれてきた。おそらくそれは大和朝廷よりずっと本格的な国家共同体にちがいなく、何しろ彼らは、地政学的に本土・朝鮮・中国をはじめとして東アジア全体と外交交渉をしていかなければならなかったのだから。

沖縄の民衆は、日本列島の民衆よりもずっと早くから「異民族」を意識しており、それが国家共同体の意識になっていった。

大和朝廷が生まれてきたときの奈良盆地および本土の民衆には国家共同体の意識などなく、その意識が芽生えるまでには、さらに1000年以上のちの明治時代まで待たねばならなかった。というか本土の民衆は、今でも良くも悪くもその意識が薄い。それに対して沖縄の民衆は琉球王朝が生まれる前からすでに「共同体意識」を持っていて、それが「おもろさうし」によくあらわれている。

 

 

「おもろ」は祭りのときにみんなで掛け合いをしながら歌われるもので、関西弁では「おもしろい」のことを「おもろい」というが、「おもろ」とは「祭りの高揚感」をあらわす言葉だったのだろうか。本土の言葉と沖縄の言葉は今でこそずいぶん違うが、ルーツは同じ「やまとことば」なのだ。

「おもろ」の歌詞は、海の向こうの神の国とか、そういう宗教的な色合いが濃く、一方本土の万葉集の「詠み人知らず」の歌は、あくまで個人的な「心のあや」を歌い上げたものばかりで、共同体的な宗教色はほとんどない。

しかしそれでも民族的なルーツは同じなのだから沖縄も同じ日本国でもいいのだが、歴史的にはちゃんと「琉球国」として歩んできたのだし、「国柄」としての文化土壌は、けっして同じではない。

琉球国は初めから他の国(異民族)との関係を意識した文明国家として生まれてきたが、大和朝廷の起源にそんな意識はなく、すでに存在する原始的な都市集落に寄生した権力組織として生まれてきたにすぎない。だから本土の民衆は、いまだに「政府」というようなものに対する愛着が薄い。

とくに現在の政府は、自分たちの既得権益ばかりに固執して、一国を背負った政府の体をなしていない。権力亡者ばかりが集まったこんな政府を、どのように愛せというのか。この国の「政府」は大和朝廷の発生以来ずっとそんな連中によって運営されてきたのであり、民の安寧を祈る仕事は天皇が引き受けてきたというか、権力者がそういうコンセプト=スローガン=目的はぜんぶ天皇に押し付けてきたのだ。というか、もともと民衆に望まれて生まれてきた「政府」ではないから、そのようにしないと民衆支配がうまくできないし、そのようにすれば民衆を守らなくても確実に民衆を支配することができるという仕組みになっている。

平成天皇生前退位の意向を政府関係者に漏らしたとき、政府をはじめとする右翼たちはこぞって反対した。しかし天皇がテレビでそれを国民に語りかけたとき、国民の圧倒的多数がたちまちそれを支持し、右翼たちも反対を言えなくなってしまった。これによって、天皇の「権力=影響力」は権力社会のそれよりも絶大だ、ということを図らずも証明してしまった。そこが天皇制のやっかいなところで、天皇が右翼権力者の支配下にあるかぎり民衆への圧政は続くし、民衆のもとに取り戻せば、天皇の存在こそが民主主義のよりどころになる。まあ「象徴天皇制」としてスタートした敗戦後はそういうチャンスだったのだが、どういうわけか民主主義を標榜する左翼知識人たちがこぞって天皇制を否定し、天皇の戦争責任を糾弾し続けてきてしまった。

55年体制」などといって、進駐軍が去った後もずっと右翼の自民党政権が続いてきたのは、左翼たちが天皇制を否定したために民衆の大きな支持を得られなかったからだ。

天皇の仕事が「民の安寧を祈る」ことにあるのだとすれば、それは、天皇は民主主義を支持しているということなのだ。

右翼の連力者たちの頭の中にあるのは民衆を支配することだけで「民の安寧」なんか知ったことではないし、それはもう「天皇のために死ね」と命令し続けてきた明治以来の戦争の歴史が証明していることではないか。

大和朝廷の発生以来、権力者たちは、「民の安寧を祈る」ことなんか。ぜんぶ天皇に押し付けてきた。彼らには民衆を守ろうとする心意気なんかないし、民衆もまた「われわれを守ってくれ」と要求するほどの愛着と関心を権力社会に対して持っていない。

良かれ悪しかれこの国の民衆は天皇との関係を生きているのであって、権力社会との関係を生きているのではない。戦後左翼は、そういう天皇と民衆の親密な関係を甘く見すぎた。

 

 

いっぽう琉球国の政府はつねに民の安寧のための仕事をしてきたし、沖縄には「政府=共同体」に対する愛着の歴史風土がある。だから本土のあいまいな政治状況に染まることなく、独自の民主主義の精神風土をつくりあげている。

沖縄の人々にとっての首里城は「共同体」の象徴であり、そこに王がいるかどうかということはあまり問題ではない。それに対して本土の民衆にとっての皇居はあくまで天皇の住居にすぎないのであり、この国の共同性を担保する象徴だという意識は薄い。象徴は天皇であって、皇居ではない。本土の民衆は、「国家共同体」というイメージがほとんどない。それはまあ、大和朝廷の始まりのときからそうだったのだが、とくに明治以降の醜悪な右翼政権によって醜悪な国家観を押し付けられてきたというトラウマもある。

最近の小中学校では戦前のような道徳教育がさかんになってきているらしいが、はたしてすべての子供たちを洗脳してしまうことができるだろうか。国家に忠誠を誓わなければだれも許さない、という帝国主義的「国民国家」システム。それは、権力者は何をやっても許される、というシステムでもある。彼らはそれを実現するために天皇を利用しようとしているわけだが、だからといって左翼のように天皇制を否定すればその流れに抵抗することができるかといえば、そうはいかないことが戦後左翼の衰退によって証明されている。良くも悪くもこの国における天皇の影響力は絶大であり、それはもうこの国の伝統なのだから、今さら天皇制を廃止することなんかできない。われわれにできることは、権力者に支配され利用されている天皇を民衆のもとに取り戻すということだけではないだろうか。

戦後左翼は天皇を「既得権益者」として憎んだり軽蔑したりしているが、それは民衆の心に寄り添っていないということである。天皇は「既得権益者」ではない。天皇を神と崇める右翼によって、「人間である」という「既得権益」を奪われている人なのだ。

天皇を神と崇めるなんてたんなる個人的な宗教趣味であり、そうやって右翼は私利私欲に走る人間ばかりになってゆく。

起源としての天皇は、みんなが他愛なくときめき合い助け合う集団性の形見の存在だった。そういう原始的であると同時に究極でもある集団性を、ひとつの「共同体意識」としてわれわれは止揚してゆくことができるだろうか。つまり、天皇を民主主義のよりどころにすることができるか、ということだ。

何にしても本土の人間は、上から下まで良くも悪くも「共同体意識」が薄すぎる。だから権力者は勝手なことばかりするし、民衆はそれを許してしまう。

いっぽう沖縄の人々は共同体意識が進んでいるからこそ、琉球王の代わりに天皇を共同体のよりどころとして仰ぐこともできるし、首里城とともに琉球民としてのアイデンティティも失っていない。「沖縄=琉球」という共同体は今なお確かに存在する。

沖縄はこの国の民主主義の先進地域であり、沖縄の民主主義が滅びることは、この国の民主主義が滅びることだ。

 

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『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』

初音ミクの日本文化論』

それぞれ上巻・下巻と前編・後編の計4冊で、一冊の分量が原稿用紙250枚から300枚くらいです。

このブログで書いたものをかなり大幅に加筆修正した結果、倍くらいの量になってしまいました。

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