2014-09-01から1ヶ月間の記事一覧

アフリカ・ネアンデルタール人論2

1 人類は、その歴史のはじめから拡散してゆくような生態とメンタリティを持っていた。 拡散しようとしたのではない。二本の足で立ち上がることは、拡散してしまうような存在になることだった。 つまり、拡散しようとしたのではないということは、知能の発達…

人類拡散・ネアンデルタール人論1

またネアンデルタール人のことを書いてゆこうと思います。 いまさら書いても以前に書いたことの蒸し返しがほとんどなのだけれど、新しく書き加えることができる部分もあるかもしれません。 このレポートは、基本的に人類学の評論とか解説のようなものではあ…

かなしみとときめきの文化人類学23(終わり)

1 人間がどうしてきらきら光るものが好きかというと、どうやらそこに「死の華やぎ」を見ているらしい。それを古代の日本人は「かなし」といった。人の心は、その喪失感とともに華やいでゆく。 日本人にとっての死は、きらきら輝きながら自然の中に溶けて消…

無常の華やぎ・かなしみとときめきの文化人類学22

1 日本列島の中世を語るキーワードは、なんといっても「無常」という言葉でしょうか。 方丈記の鴨長明は、「無常とは常ではないこと、すべてのものは変化してゆく、行く川の流れはたえずして、しかももとの水にあらず」といった。 一方平家物語では「すべて…

踊念仏・かなしみとときめきの文化人類学21

1 きらめくものに対する愛着、すなわち心が華やいでゆく体験とともに人類史が流れてきた。 中世の「無常」という言葉の流行もまた、じつはそういう体験でもあった。 人の心は、死に誘惑されるようにして、きらきら光るものに魅せられてゆく。 「無常」は、…

中世のはじまり・かなしみとときめきの文化人類学20

1 日本列島の中世は、いったいいつからをいうのか? 昔は鎌倉時代のはじまりからだということになっていたのだが、最近では平安末期の武士の勃興あたりからをいうようになってきた。 では、武士が中世のはじまりをつくったのか。 歴史家はいつだって権力者…

あの世はあるか?・かなしみとときめきの文化人類学19

1 梅原猛は『日本人の「あの世」観』という本を書いています。 まあ、人類は原始時代からずっと「あの世=死後の世界」という世界観・生命観のアニミズムで歴史を歩んできた、という前提で考えているのですね。 こういう「はじめにアニミズムありき」の思考…

輝きながら消えてゆく・かなしみとときめきの文化人類学18

1 どんよりと鬱陶しさがたまって停滞している「穢れ」の反対は、「きらきら輝いている」状態だともいえる。それを「きれい」という。穢れが消えている状態を「きれい」という。 英語では輝いていることを「シャイン」とか「ブリリアント」などといったりす…

穢れについて・かなしみとときめきの文化人類学17

1 言葉は、時代を経るにつれてひとつの意味に固定されてゆく。なぜなら、そうしないと「伝達」の用を成さないからです。 古代以前は現在よりも語彙は少なかったが、ひとつの言葉がたくさんのニュアンスを持っていた。それは、現在ほど意味の伝達の機能にこ…

銅鐸の謎・かなしみとときめきの文化人類学16

1 銅鐸は、音を鳴らす鐘のようなものだったらしい。 どんな音がするのだろう? 中に小さな木の棒がぶら下げてあって、全体を揺らすとその棒が銅鐸の内側の部分と当たって音が出るらしい。 それほど大げさな音ではないでしょう。 ひっそりとした残響のある音…

米作りの歴史・かなしみとときめきの文化人類学15

1 稲作という集団農業が本格化したことが弥生時代のはじまりではない。 山で暮らしていた人々が平地に下りてきた、ということがはじまりです。 稲作によって人口が増えたのではなく、人口が増えたから稲作が本格化していったのです。 弥生時代初期の奈良盆…

もう死んでもいい・かなしみとときめきの文化人類学14

1 人間が焚き火に親密な感慨を抱いたり、きらきら光るものが好きになったりするのは、それによって無意識のところで「もう死んでもいい」という気分になっているからでしょう。 まあ一般的には、世界が輝いて見える体験は生の充実のように解釈されているの…

別れの作法・かなしみとときめきの文化人類学13

1 人が生きてあれば、「別れる」という体験はどうしてもついてまわる。別れは悲しいし、そんな体験はしたくないのだが、どうしてもついてまわる。 僕は、縄文人の男と女がなぜ一緒に暮らすことをしないで出会いと別れを繰り返す関係を選択していたのかとい…

人生なんかどうでもいい・かなしみとときめきの文化人類学12

1 人類史のはじめのころ、複数の集団からはぐれてしまったものどうしが、集団の外のある場所で出会い、ときめき合い、そこで新しい集団がつくられていった。 そこに生きのびるための新しい情報があったというわけでも、そこが住みよい土地であったのでもあ…

はぐれてしまう・かなしみとときめきの文化人類学11

1 集団の外の空間で見知らぬ人と出会うということは「非日常」の体験であり、村のはずれの鎮守の森の祭りはそういう体験の場であったはずです。 これは、原初の人類が地球の隅々まで拡散してゆく契機となった体験でもある。 心が「非日常」に世界に入ってゆ…