銅鐸の謎・かなしみとときめきの文化人類学16


銅鐸は、音を鳴らす鐘のようなものだったらしい。
どんな音がするのだろう?
中に小さな木の棒がぶら下げてあって、全体を揺らすとその棒が銅鐸の内側の部分と当たって音が出るらしい。
それほど大げさな音ではないでしょう。
ひっそりとした残響のある音、それが次々に重なり合うように聞こえてくる。音のゆらめき、まあそんな感じなのでしょう。古代人は、はっきりとした主張のある音より、何か曖昧模糊とした余情余韻のある音のほうが好きだったらしい。たぶんそこに、「かなし」のゆらめきや混沌の情趣があった。
最初は2、30センチくらいの小さなものだったが、だんだん大きくなって、1メートルを超すものも作られるようになってきた。
それはなぜか土の中に埋めて保管されていた。宗教的な儀式のためのものだといわれているのだが、だったら倉庫か何かに大切に保管するでしょう。しかもそれは、必ず集落のはずれから出土されるのだとか。つまり、その時点でもう、集落の所有のものではなくなっているということです。
たとえば集落の土を清めるためなら、集落の中に埋めるはずです。
そうして、壊して埋めている場合もある。これも謎です。



宗教的な儀式のためのものだったという説は、どうもあやしい。
ともあれそれは、「かなし」の感慨を誘う音を奏でるものだった。
人の心は、生きてあることからはぐれてしまう。そのようにして人類は死という概念を発見し、死に対する意識とともに生きる存在になっていった。
どうしてもこの生の現実からはぐれていってしまう。それはつまり集団からはぐれてしまうということであり、それはもう原初の人類が二本の足で立ち上がったとき以来の普遍的な生態だった。
人の心も行動も、どうしてもしらずしらず集団からはぐれていってしまう。
縄文人が大きな集落をつくらなかったのも、大きくなってゆくとどうしても心がはぐれて集落の外に出て行ってしまうからだったのかもしれない。山の中では、それはとても危険なことです。危険な生き物と出会うし、怪我をしたり斜面から転がり落ちたりするし、道に迷って戻れなくなったりもする。女子供にとっては、ことにそうでしょう。
縄文集落の多くは、まわりに環濠を掘っていました。それは、むやみ外に出てしまわないようにするためでもあったのかもしれません。
出るなといっても、しらずしらずいつのまにか出て行ってしまう。それが、地球の隅々まで拡散していった人類の普遍的なメンタリティであり行動習性です。集団が大きくなってくると、どうしてはぐれてしまいやすくなる。
そして弥生人は、山の中の現実からはぐれて平地に下りてきた。
奈良盆地のまわりの山の中で暮らしていた人々がそ平地に下りてきたのも、山の中の人口が密集してきて、一つ一つの集落の規模が大きくなってきたということもあるのかもしれません。
奈良盆地はもともと湿地帯でほとんど集落はなかったのだから、奈良盆地の人々はみな集団からはぐれてその地にやってきた人々だった、ということになります。集団からはぐれてしまいやすい人々だった。
だから、奈良盆地の古い集落はみな、小高い狭い場所に肩を寄せ合うようにしてつくられています。そうしないとすぐにはぐれてしまうし、それでもはぐれてしまうから、あちこちに「市」という祭りの場所が生まれてきた。
銅鐸が集落のはずれに埋められていたということは、もしかしたら集落からはぐれてしまいそうな心を宥めるためのだったのかもしれない、という気がします。
集落からはぐれてしまいそうな心になった人がそこにやってきて土から掘り出し、そのゆらめくような音を聞きながらいっとき慰められ、またそれを土の中に戻して集落に帰ってゆく。銅鐸は、そのような役割を持った存在だったのかもしれない。



この想像は、突飛過ぎるでしょうか。
いまだに謎だ謎だといいながらそのほんらいの用途が明らかにされていないというのは、少なくとも宗教的な儀式のためのものではなかったということを意味しているのではないでしょうか。それだったら、それで説明がつく状況証拠がいくらでもあるはずです。これ以上かんたんでわかりやすい理由はないのだから、それで説明がつくのなら、とっくについている。
とにかくそれは音を奏でるもので、それを聞くためのものであったはずです。そしてそれが宗教的な呪術のためのものなら、もっと自己主張の強い音になっているはずだし、そこに集まったたくさんの人に聞こえるようにしたことでしょう。
その表面に動物や植物や家などのいろんな絵が描かれていて、その意味から類推してゆこうとする試みもあるようですが、表面をあれこれ装飾してゆこうとするのは、縄文以来の日本人の伝統です。
たぶん、とくに意味なんかない。眺めて楽しめればそれいい、というていどのことでしょう。楽しむためのものだったとしたら、なおさらそうでしょう。



問題は、なぜわざわざ壊して埋めていたのか、ということです。
縄文土偶も壊して埋めるものだったし、おそらく伝統的な習俗だったのでしょう。それは、死者を埋葬することと共通する意図があるということでしょうか。
ただ単純に、新しいものができたからそれと区別するため、というていどのことでしょうか。
しかし、かといって彼らは、それを残しておくということはしたくなかった。それは丁重に葬ってやらないといけない。それほどに愛着が深いものだった。
愛着が深いものだからこそ壊して埋めてしまう。それがもう使われることのない死んでしまった存在であることの証として壊した。そのへんが、現代人とは発想が違うところでしょう。愛着が深いからこそ所有しない、という発想。そして死に対する親密さ。それもまた「かなし」の感慨だったのでしょう。
愛着があるからこそ、「別れ」をしないといけない。いつまでも所有していると、所有に慣れて愛着が薄れてくる。それはもう、人間に対しても物に対しても同じでしょう。
それは古くなって必要ではなくなったが、それまで長いあいだ慰めてきてもらった恩義があり愛着がある。所有して飾っておくなんて、かえって失礼だ。音を奏でて人の心を慰めてこそ銅鐸であり、それができなくなったらもう葬ってやるしかない。
壊してしまうなんてもったいないというのは所有欲を持った現代人の発想で、壊してしまわないと「別れ」にはならない、それに対する愛着を人々の胸にとどめておくことはできない、というのが彼らの発想だった。
おそらく、愛着を胸にとどめておくために壊したのだと思います。



縄文人の男と女が一緒に暮らさないで出会いと別れを繰り返す関係になっていたのも、相手に対する「愛着」の感慨を大切にしていたからでしょう。その「かなし」の感慨は、「所有」することよりももっと大切だった。
銅鐸は、弥生人の「かなし」の感慨のよりどころだった。だからこそ、壊して埋めるということをせずにいられなかった。
「別れる」という体験は、相手に対する愛着を胸にとどめておく体験です。古代人にとってそれは、大切な体験だった。彼らの「かなし」の感慨はそれほどに深く豊かだったし、その感慨から離れては生きられなかった。
人の心は、どうしてもはぐれてしまう。それはもう直立二足歩行の開始以来の人類の伝統であり、はぐれてしまう心だからこそ、人と人は他愛なくときめき合うのだし、そこから人間的な知性や感性が育ってきた。
弥生時代奈良盆地がなぜ日本列島でもっと大きな都市集落になっていったかといえば、日本列島でもっとも人と人が他愛なくときめきあっている場所だったからであって、王朝が生まれて政治的にどうこうしたとか、そういう話じゃないのですよ。そこのところで、今どきの歴史家なんか、みんなアホじゃないかと思ってしまう。
弥生時代奈良盆地の人々は、誰もが「かなし」の感慨を深く携えて生きていた。
原始時代の人類は、はぐれてしまう心で地球の隅々まで拡散していった。そしてそのあと、はぐれてしまう心を宥めながら、無際限に大きな集団をつくっていった。
はぐれてしまう心を宥めるという文化を持っていないと、大きな集団になってゆくことはできないのです。そして奈良盆地の人々は、ほかのどの地域の人々よりも深くはぐれてしまう心を持っていたからこそどこよりも他愛なくときめき合っていったのであり、そうやって膨れ上がってゆく集団の中でけんめいにはぐれてしまう心を宥めてゆく文化を紡いでいったのであり、銅鐸の文化もおそらくその一つだったのでしょう。



弥生時代は、九州を中心とした「銅剣・銅鉾」の文化圏と畿内を中心とした「銅鐸」の文化圏とに分かれていた、などとよくいわれるが、何はとあれ銅鐸文化は、奈良盆地を中心にして広がっていったのでしょう。
奈良盆地の人々こそ、銅鐸に対する愛着がもっとも深かったのでしょう。
その音は、「かなし」の感慨を誘い、そして癒していった。人は、「かなし」の感慨を携えていないと生きられないし、「かなし」の感慨を携えていると生きてあることからも集団からもはぐれてしまう。その二律背反を生きさせてくれる形見として、銅鐸が機能していた。
時代は、縄文時代という小集団の社会から、弥生時代という大集団の社会に移っていった。その過渡期の変遷に対するとまどいとくるおしさに耐えるための形見のひとつだった。
古墳時代になってくると、人々の生活圏が「村」という単位から奈良盆地全体の「国」というさらに大きな単位に変わってきて、そこで銅鐸文化は終わっている。
たぶん銅鐸は、宗教儀式となんか関係がなかったし、そのころは宗教(呪術)そのものがなかった。もし宗教儀式であったのなら、少なくとも仏教伝来のときまで続いていたはずです。宗教においては長く続いたものほど権威が高まってくるのだから、そうかんたんになくならないでしょう。
まあ、銅鐸の消滅とともに、ひとまず奈良盆地の都市集落としてのかたちが完成したのでしょう。
そして奈良盆地全体の連携で、つぎつぎに巨大前方後円墳を造っていった。
集団の単位が村から国という単位に移っていこうとしているときは、そりゃあ誰の心も村からはぐれてしまいがちになるでしょう。もともと集団からはぐれて奈良盆地にやってきた人々だったのだし、そのなやましさとくるおしさはひとしおのものがあったはずです。
そしてそういう心は、けっして衣食住の問題では癒されない。どうしても娯楽が必要です。
日本列島の娯楽は、集団のはずれから生まれてきた。そこでこそ、人の心は華やぐ。奈良盆地の山のふもとに「市」というお祭り広場が生まれたことも、その後の歴史で村はずれに鎮守の森ができていったことも、集団からはぐれてしまった心が華やいでゆく場として生まれ育ってきた。
銅鐸だって、ささやかながらもおそらくそのコンセプトともに愛着されていったのだろうと思えます。
過渡期には、どうしてもそういう娯楽が必要だったのです。衣食住のことはさておいてでも、そちらのほうがもっと大切だったのです。
人は、どうしようもなくこの生や集団という現実からはぐれてしまう心を抱えてしまっている。それは、われわれ現代人の問題でもあるはずです。
まあ女はみな、はぐれてしまった迷子の心を持っていますよ。男の心はその気配に引き寄せられてゆく。迷子であることそれ自体を生きることこそ、人間の普遍的で自然な生態であろうと思えます。
そういう存在の仕方を許してくれないのが共同体の制度であるのだが。
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