弥生時代の集団性・ネアンデルタール人と日本人・63


ネアンデルタール人の社会は、乱婚社会だった。女たちは、父親のわからない子を次々に産んでいった。
これは、日本列島の縄文社会も同じで、おそらく弥生時代もほとんどそのままのなりゆきだったのだろう。
日本列島の家族制度は、大和朝廷による戸籍制度の施行からはじまっている。
それに対してアフリカのサバンナでは、200万年前からすでに一夫多妻制の家族形態になっていた可能性がある。サバンナでは、家族的小集団でサバンナの中の小さな森から森へと移動してゆく暮らしをしなければならない。そこには、大集団が定住できるような大きな森はない。そして、大きな集団で移動していたらすぐに肉食獣に見つかって襲われてしまう。必然的に小集団になるほかなかった。そうして、小集団どうしで女を交換しながら血の停滞を回避していた。まあ、女子供を率いて移動生活をしてゆける能力を持った男のもとに女が集まっていった。また、多くの女を集めている男のもとには女子供を率いる能力のない男も当然いただろうが、許容範囲の数を超えることはなかったにちがいない。
アフリカのサバンナでは、一夫多妻制が原則の家族的小集団で歴史を歩んできた。そしてそのような集団は、決まった行動範囲の外にはけっして出てゆこうとはしない。出ていけばその集団を維持するのが困難になる。
そのようにしてサバンナの歴史は停滞していった。それはつまり男と女の関係が停滞していったということであり、そこでは、女が性的快感を持たないように子供のうちにクリトリスを切り取っておくという割礼の習俗も一部にあったらしい。
べつに一夫多妻制が不自然だということもないが、そこでは原始的な混沌をすでに失っていたわけで、それが問題なのだ。
また一夫多妻制は、氷河期明けのエジプト・メソポタミア地方でも早くから定着していた。
人間のように男が年中発情し女も誰でもやらせるという娼婦性持った存在が一夫多妻制になると、人間らしいダイナミックな男と女の関係性はどうしても停滞してゆく。しかしそれと引き換えに社会の秩序は安定する。エジプト・メソポタミア地方は、このようにしていち早く共同体(国家)文明を築いていった。
国家をつくったエジプト・メソポタミアとつくれなかったサバンナとの違いは、外部の異民族を意識していたかいなかったかの違いにある。前者は外部を攻撃排除してゆくことによって内部の安定秩序をつくり、後者は外部との関係を断つことによって内部の安定秩序をつくっていった。
外部を攻撃排除して内部の安定結束をつくってゆくエジプト・メソポタミアでは、そのよりどころとして、超(メタ)外部としての神や死後の世界を設定してゆく。死後の世界のよりどころとして、霊魂という概念が生まれてきた。
彼らの観念性は目の前にない外部を「ある」と認識設定してゆくことにあり、それによって内部は停滞し安定していった。彼らの意識はつねに、目の前の現実ではない外部に向いている。
彼らには、彼らがイメージする世界の秩序がある。それが、目の前の現実ではない外部としての神や霊魂を意識してゆくことである。誰もがそんなものばかりに意識を向けていたから社会の秩序は安定し、それに反比例して男と女の関係も人と人の関係も停滞していった。



一方日本列島では、神や霊魂を知らないまま、目の前に存在する現実だけをこの世界のすべてだと意識してゆく歴史を歩んできた。
目の前に見える山の姿をありがたいとも美しいとも思うことは、あの山の向こうは何もない、と思うことでもある。
そして目の前の現実だけを世界のすべてだと思うことは、世界の秩序を構成する能力がなく、この世界を混沌のまま生きてゆくことである。乱婚社会は、そういう心の上に成り立っている。男と女なんて、おたがい相手はべつの生き物のように見えるし、そう見えるから関係が活性化する。活性化するとはつまり、混沌とした関係になってしまうということだ。
生物の雌雄の関係はどんな異性とでもくっつくことができる仕組みになっていたから発展進化してきた。生き物は、雌雄の関係になった瞬間から世界は混沌としたものになった、ということだろうか。
ネアンデルタール人であれ縄文人であれ、乱婚社会であったということは、目の前の現実世界を混沌のままに生きて神も霊魂も知らなかったということを意味する。
エジプト・メソポタミア人は、世界の秩序を志向することによって神や霊魂という概念を見い出していった。人類史はもう、そういう方向に動いてゆく宿命にあったのかもしれないが、少なくともネアンデルタール人縄文人の社会に神や霊魂という概念はなかったし、日本列島の伝統的な美意識や世界観・生命観が神や霊魂を知らない。
人間は神や霊魂を知らない意識も持っていないと生きられない。そういう意識を持っていないと、男と女の関係も人と人の関係も活性化しない。
人は、神も霊魂も知らない意識で死んでゆく。
人と人が寄り添い合ってゆくという人間的な豊かな関係性は、目の前の現実世界の混沌を生きること、すなわち神も霊魂も知らない意識の上に成り立っている。
われわれは、この社会の決定された家族制度に身を置きながらも、成長すれば家族の外に出てゆく。それは、秩序から抜け出して混沌の中に漕ぎ出すという行為である。
人は、神や霊魂という概念でこの生やこの世界の秩序を決定してしまうことはどうしてもできない。どんなに神や霊魂を信じた気になっても、どうしても神や霊魂を知らない意識が残ってしまう。



仏教伝来前夜のころ、すなわち弥生時代から古墳時代にかけての日本人は、どのような集団性になっていたのだろうか。
そのころもっとも人口密度が高かったのは、大和朝廷が生まれてきた奈良盆地だった。
なぜ人口密度が高くなっていったのかといえば、もっとも魅力的な山の景観があって、まわりからどんどん人が集まってきたからだろう。
弥生時代は、山の中で暮らしていた人々がどんどん平地に下りてきた時代だった。縄文時代の平地はほとんど湿地帯だったが、地球気候の乾燥寒冷化によって干上がってゆき人が住めるようになってきた。
弥生時代になって人々が山から下りきたのは、平地の方が生産性が高かったからではない。そこには、木の実も狩りの獲物もなかった。しかし、山を眺める景観は、山の中よりもはるかに素晴らしかった。その景観に誘われて彼らは山から下りてきたのだ。
縄文時代奈良盆地ほとんどが湿原で、ほんのわずかの集落しかなかった。人々は、まわりの山の斜面か山の中の集落をつくって暮らしていた。それでも、たくさんの集落があり、それなりに集落どうしの交流もあったのかもしれない。そういう下地があったから、平地の奈良盆地で大きな集落になってゆくことができたのだろう。
弥生時代奈良盆地は、もっともたくさんの人が集まってくる場所であると同時に、人々の心がもっとも豊かな集団性をそなえている場所でもあった。
大陸なら山の向こうの異民族との戦争にそなえて共同体をつくってゆくことができたが、弥生時代奈良盆地で戦闘が起きていたという考古学の遺跡などほとんどない。すでに戦争の時代に突入し王朝も存在したという説もあるが、まあそういうことにした方が面白いからだろう。
まず王朝があって民衆をかき集めてくるのではない、最初に民衆だけの大きな集団が形成されてゆき、余剰の生産物が蓄積されていったところから王朝が生まれてくる。それはもう世界中の歴史の法則で、日本列島がそうなってきたのは古墳時代に入ってからのことだった。



弥生時代奈良盆地は、有数の穀倉地帯というほどでもなかった。後期になってようやく干拓工事がはじまってきたものの、まだまだほとんどが湿地帯だった。
奈良盆地の地名として「なら」という言葉と「やまと」という言葉とどちらが古いのだろうか。
いずれにせよ「なら」という言葉のほうがプリミティブなニュアンスがある。
「やまと」の「やま」は「山」からきているというのが大方の意見である。しかし古代以前の地名は、おそらくその土地に対する愛着の感慨を込めて呼び習わされていたはずで、土地の景観の説明が地名になってきたのはあとの時代になってからだろう。
「なら」という言葉=音声の響きのほうが、愛着の感慨が感じられる。
では、どんな感慨だろうか。
「な」は「慣れる」「懐く」の「な」、「なあ」と呼びかける、「愛着」の感慨からこぼれ出る音声。
「ら」は「キラキラ」の「ら」、「ららら」の「ら」、明るく楽しく集まっている感じ。だから「われら」などという。「集合」の語義。
「なら」とは、親密な感慨が胸にあふれてくること。
「さようなら」は「さようであるなら」という言葉からきているといわれているが、「さようであるなら、きっと……であるにちがいない」というように、この「なら」は前の文脈と後の文脈を「接着」しているわけで、つまり「愛着」というニュアンスの言葉なのだ。
「さようなら」というとき、この「なら」には、「別れがたい感慨」を込められている。
人に対してもまわりの景色にも、たくさんの親密な感慨が胸にあふれてくるから「なら」といった。
平らな土地だから「ならす」の「なら」だという説もある。まあ、あとの時代になればそうした説明的な意味も加わって「平城(なら)」と記述したりするようにもなってきただろうが、奈良盆地は最初から一面の平原だったのではなく、ほとんどが湿地帯だったのだ。
奈良盆地干拓がひとまず終わったのは、飛鳥時代になってからである。したがって、水が干上がって平らな土地があらわれてくるときの感動=愛着を込めて「なら」というのならわかる。
「なら」の「な」は親密の感慨の表出、「ら」は集合の語義、けっきょく人がたくさん集まってきてときめき合っている場所、というようなニュアンスだったのかもしれない。
つまりそこは、日本列島の集団性が最初に花開いていった土地だったのであり、その集団性とは何はともあれ人と人がときめき寄り添い合ってゆくことだったのであって、あれこれの歴史の文書に記されてあるような強力なリーダーがあらわれて王朝をつくっていったということでは断じてない。
そうではないから「なら」という地名が生まれてきたのだ。
弥生時代に多くの人が奈良盆地に集まってきて大きな集団になっていったということ、それ自体がひとつのお祭りのような現象だった。「なら」という地名が生まれてきたことは、そういうことを意味している。



奈良盆地は、縄文時代からまわりの山にたくさんの人が住んでいたということも幸いしたのだろうか。そういう人たちが、平地の水が干上がってくるにつれてどんどんそこに下りてきた。
まあ、山の中に住んでいたときから、そこがどんなに素晴らしい景観の場所であるかということをすでに知っていた。
どこが素晴らしいのか?まわりをたおやかな姿をした山並みに囲まれていることであり、そういう場所に人が集まってきて祭りをすれば一層盛り上がる。弥生時代奈良盆地は、まず祭りの場所としてはじまった。穀倉地帯になったのは、後期から古墳時代にかけてのことである。
古事記ヤマトタケルの「青垣山籠れる大和し美(うるわ)し」という歌には、奈良盆地の人々のまわりの山々に対する深い愛着が色濃くにじんでいる。
山に囲まれていれば、山の向こうは何もないという認識とともに「世界はここで完結している」という感慨に浸されてゆく。日本列島の歴史で大きな集団が生まれてきたのは、すべて山に囲まれた盆地からだった。
山を眺めてそういう感慨に浸されてゆくのは、縄文以来の伝統だった。
人々の「今ここでこの世界は完結している」という思いが寄り集まってお祭りが生まれてくる。原初の人類はこのことによって地球の隅々まで拡散していったわけで、これはもう人類史の普遍的な現象である。
奈良盆地に人が集まってきたということ自体がひとつの祭りであったわけで、べつにそこは生産性が豊かな土地だったのでもなんでもない。むしろ、湿地だらけの不毛の土地だったといった方が正確である。たくさんの人が住める土地でもなんでもなかったが、人々はそこからけんめいに干拓しながら穀倉地帯にしていった。穀倉地帯だったから人が集まってきたのではない、人が集まってきたからその自然ななりゆきで穀倉地帯になっていっただけだ。
おそらく、弥生時代奈良盆地に最初に生まれたのは、集落でも畑でもなく、まわりの山々から人が集まってきて歌い踊るお祭り広場だった。
三輪山のふもとの海石榴市(つばいち)の周辺は、現在、纏向遺跡として発掘作業が進められ、弥生時代後期の邪馬台国の遺跡だともいわれているわけだが、不思議と住居跡が見つかっていない。まあそのころにはその周辺のあちこちに住居集落はあったのだろうが、とにかくそこは、文字通り「市(いち)=バザール」でありお祭り広場だったのだ。
べつに、王朝跡でもなんでもない。歴史家も、無理やり「王朝」などという権力を空想して何がうれしいのか。王朝が存在しないと歴史が成り立たないのか。王朝が存在することが高度な文化の証しなのか。冗談じゃない。人々がお祭り広場を持つことだって、権力機関をつくることに負けない立派な文化なのだ。
この「海石榴(つば)」というやまとことばは、「唾」の「つば」でもあるわけで、口の中で発生してどんどんふくれてくるもの、すなわちそうやってどこからともなく人が集まってくる場所であることを意味している。
弥生時代の初期は、人々はいぜんとして山の中で暮らしていたという段階があった。いったん干上がった土地でも、雨が降ればたちまち川が氾濫して水浸しになってしまうところだった。まあそういうところだったから土地は肥えていて、畑や田んぼをつくるには適していたのだろう。
最初はお祭り広場ができて、そのあとに耕作地がつくられ、それから恒常的に水没しない場所を見つけて人々が住み着いていった。
そして恒常的に水没しない場所はいわば浮島のようになっている狭く小高いところで、人々は身を寄せ合うように住居をくっつけかたまっていた。てんでばらばらに住むというわけにはいかなかった。
まあ弥生時代の日本列島の盆地に大きな集落が生まれていったのはおおむねどこもこのようないきさつだったのだろうが、奈良盆地は、とくにそうした傾向が顕著でダイナミックだった。で、人と人が寄り添いときめき合っているという意味の「なら」という言葉が生まれてきた。



「祭り」こそ、奈良盆地の集団性の原動力だった。支配者がまとめていたのではない。その部分においては、卑弥呼がどうのなんて、どうでもいい話なのだ。
その地で「なら」という言葉が生まれてきたということは、みんながときめき寄り添い合う「祭り」の集団性が機能していたということを意味するのであって、そこに卑弥呼だかなんだかの王朝があって人々を支配していたというようなことではない。
みんなが祀り上げる祭りのシンボル的な人間がプリミティブな天皇として存在していたということは考えられるが、たぶんそれは祭りの際の踊りの名手である坐女のような存在で、政治的な支配者でもなんでもなかった。
奈良盆地の集団は、支配者がいてそこで自己完結してしまうようなかたちではなかったから、どこよりもダイナミックに膨れ上がってゆくことができたのだ。古墳時代には、奈良盆地干拓だけではすまなくなって河内平野までその工事を広げていった。そのとき日本列島がそれぞれの土地に支配者が君臨しているような構造になっていたら、奈良盆地の王朝と河内平野の王朝との戦争が勃発していたことだろう。そんな考古学の証拠があるなら、教えていただきたいものだ。そんな文献の記述など、すべて後世の権力者がでっち上げたものにすぎない。
ここで仮に纏向遺跡がお祭り広場だったとするなら、祭りの主役である坐女たちが山に里をつくって暮らすという習俗がなぜできていったのだろうか。そこがやがて娼婦の里にもなっていったのは、おそらく歴史的な事実のはずである。
それはたぶん、ほとんどの人はまだ山の中で暮らしていて、彼女らを踊りに専念して暮らさせるにはそれが便利だったからだろう。生活必需品をすぐに届けてやることができるし、夜中に忍んでいってセックスの相手をしてもらうこともできる。
平地はあくまでもお祭り広場と耕作地であることがメインだった。
しかし、平地での四方を山に囲まれた景観こそが最高のものだったのだから、お祭り広場はそこでなければならないし、やがては誰もがそこに住み着いてゆくようになるのも歴史的な必然だった。
奈良盆地の平地にほとんどの人が住み着くことができるようになったのは、おそらく古墳時代になってからのことだろう。纏向遺跡がいくら立派だからといって、ただちにそのまわりに見渡す限りの田園風景が広がっていたとはいえない。弥生時代は、まだまだ湿地帯だらけだった。まだまだ余剰の米を生産する能力はなかった。したがって、王朝という権力機関も存在しなかった。
干拓が本格化するのは、古墳時代になってからだ。古墳をつくるという土木工事とともに干拓が進んでいった。古墳をつくることは干拓工事でもあったのだが、このことは次回に書くことにする。



とにかく弥生時代の集団性は「祭り」の上に成り立っていたのであって、支配者の権力によってではない。
縄文時代には10戸か20戸ていどの小集落しかつくれなかった人々がなぜ数万人の大集落をつくれるようになっていったかということにしても、大陸から人がやってきてそのような集団を組織していったというようなことではなく、縄文時代との必然的な連続性と段階があったということを考える必要がある。
とにかく奈良盆地は、大陸との関係が生まれやすい出雲や吉備や北九州と違って、内陸部の、いかにも縄文的な人々の集団だったのだ。それでも、出雲や吉備や北九州を凌駕していったのである。
まあ歴史家はそんなことをできるはずがないと考えて、奈良盆地大和朝廷は出雲や吉備や北九州の連立政権であると主張しているのだが、その論理で纏向遺跡の先進性や規模の大きさを説明することは大いに無理がある。その話でつじつまを合わせるためには、それと同規模の遺跡がもっと前の時代のものとして出雲や吉備や北九州からあらわれてこなければならない。
弥生時代後期の纏向遺跡は、王朝跡でもなんでもなく、その時代の人々のお祭り広場だった。その人と人がダイナミックにときめき寄り添い合ってゆく祭りの混沌のエネルギーこそが、奈良盆地を大規模集落にしてゆく原動力になった。
べつに、権力者が指図し、つくっていったのではない。
彼らは、神も霊魂も死後の世界も生まれ変わりも知らなかった。「今ここ」の目の前の現実がこの生やこの世界のすべてだった。四方をたおやかな姿をした山に囲まれた場所に立っていると、深くそういう感慨に浸されてゆく。その「今ここ」しか知らない混沌とした心でときめき寄り添い合っていったからこそ、どこよりも大きな集団になり、どこよりも豊かな連携で次々に大きな前方後円墳をつくりながら干拓していったのだ。
そのときもしも彼らが神や霊魂や死後の世界や生まれ変わりというこの生やこの世界の秩序を信じていたなら、アフリカのサバンナの民のように小さな集団のままそれぞれ自己完結して分立していっただけだろう。彼らの社会では、アニミズムという自己完結できる世界観や生命観を持たなかったし、一夫一婦制とか一夫多妻制という秩序も持たなかった。その乱婚状態の祭りを基礎にして集団の規模がどんどん大きくなっていった。そうしてその混沌・混乱をそのままにしながら収拾してゆく存在として、「きみ」という天皇の前身となる祭りのシンボルを祀り上げていた。
日本列島の古代の集団性を考えるとどうしても「天皇」という問題が浮かび上がってくるし、それは、神も霊魂も知らない自己完結できない心の問題であり、そこに起源としての神道の問題がある。
天皇は、この世界の秩序の頂点に存在するのではない、この世界の混沌の中心にひっそりとしかし鮮やかに存在するのだ。
混沌を生きるから「みそぎ」という作法が生まれてくる。天皇は、その「みそぎ」をもっとも鮮やかに体現している存在として日本列島の住民に祭り上げられてきた。天皇がいてくれれば、神も霊魂も知らない混沌を生きることができる。
まあ、「神道以前の神道」という問題は、神や霊魂の問題ではない。それが神や霊魂というこの生やこの世界の秩序の問題だったら、弥生時代から古墳時代にかけての奈良盆地に大きな都市集落が出現してきたということの説明はつかない。
そこには、秩序をもたらす支配者などというものは存在しなかった。
何度でもいう。原始性という混沌の中から、神だの霊魂だのというこの生やこの世界に秩序を与える概念が生まれてくるはずがない。原始人は、その混沌がいやだったのではなく、その混沌を生きる醍醐味を知っていただけだ。その混沌は、人間性の基礎であると同時に究極のかたちでもある。
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