前方後円墳について考える・ネアンデルタール人と日本人・64


古墳時代の巨大前方後円墳の工事は、奈良盆地の人々が総出でなされたものらしい。
権力者が一部の奴婢をこき使ってつくったとか、それだけですむような規模を超えていたし、民衆を自由気ままにかりだせるような権力も存在しなかった。
あの大仏造営だって民衆の力を集めるのは大いに苦労したらしく、行基という民衆のリーダーであった在野の僧侶を呼んで責任者の地位につけるということをしなければならなかった。奈良時代でさえそんな状況であったのなら、律令制以前の権力には、さらに民衆を使役できる能力はなかったはずである。
古代における道路や橋や港やため池をつくるなどの土木工事はすべて民衆自身でやっていて、大和朝廷は何もしなかった。その事実から演繹するなら、巨大前方後円墳大和朝廷の命令でなされていたということはありえない。しかも、飛鳥時代には「薄葬令」という巨大古墳造営の禁止令を出しているのだ。つまり、そんなお祭り騒ぎばかりやっていないで生産活動に励め、ということだろうか。
おそらく巨大古墳造営に、大和朝廷はタッチしていない。民衆が勝手に干拓工事の一環としてそれを行い、天皇の墓として献上したのだろう。だからそれを「陵(みささぎ)」という。天皇にささげたのだ。そういう関係がなければ、「みささぎ」などというはずがない。
それはまあ、湿地帯の水を一か所に集めるための工事だったわけだが、民衆にとって土木工事は、ひとつのお祭りだった。だから、それを天皇の墓にしようという発想も生まれてきた。墓をつくることもまた、ひとつの祭りだった。
彼らは、それほどに死に対して親密な感慨があった。
そのころはまだ仏教伝来以前だから、死者を成仏させるというような思想はなかった。
もしも死者の霊ということを意識していたのなら、被葬者がちゃんとわかるような埋葬の仕方をするはずだが、じつは巨大前方後円墳さえも、ほとんどがじっさいに誰の墓かということがわかっていない。
あの仁徳天皇陵だって、明治に宮内庁が発掘調査をしたらしいが、仁徳天皇の墓であるという痕跡証拠はついに見つからなかった。だからいまでは「大仙陵」という呼び方が一般的になっている。
そのころささげられた側の天皇家だって、適当に複数の関係者の墓として使っていただけで、一度別の場所に埋葬した天皇の棺をわざわざそこに移すということはしなかったらしい。
それが権力を誇示するためのものなら、何がなんでも移しただろうし、何がなんでも被葬者がわかるようなかたちにしたはずである。
ささげる方もささげられる方も、誰の死体を埋めてあるかということはどうでもよかった。だから、民衆が勝手に実在しなかったはずのヤマトタケルの墓にしてしまっている例だってある。
それはつまり、死者の霊魂の実在なんて誰も信じていなかったということだ。仁徳天皇陵は、民衆が仁徳天皇を思い出すよすがになっていればそれでよかった。そこに仁徳天皇の死体がおさめられていようといまいと、どうでもよかった。彼らは、死者に対する思いは切実にあったが、死者の霊などというものは知らなかった。死者の霊を葬るために墓をつくったのではなく、死者への思いをささげるしるしとして墓をつくった。
彼らは、それが墓としての「姿」を持っていればそれでよかったのであり、墓の「中身=霊魂」などというものに対する意識はなかった。
ネアンデルタール人だろうと縄文人だろうと古墳時代奈良盆地の人々だろうと、死者の霊魂をどうこう操作しようとする意図などまるでなかった。ひたすら生き残ったものたちの思いをささげるしるしとして墓をつくったのだ。それが腐ってただの骨になってしまうことくらい、誰もが知っていた。しかし死者との別れをちゃんと果たさないことには、生き残ったものたちの気持ちは整理がつかなかった。それだけのことだし、それだけのことの方がじつは霊魂がどうのこうのといっているよりもずっと切実な葬送儀礼の契機になっているのだ。
霊魂があの世に旅立ってゆくためのものなら、それがすめばさっさと忘れてしまってもかまわない。よかったよかった、ですむ。しかし、そういうわけにはいかない。死者との別れのかなしみはいつまでも残る。何はともあれ、あれは仁徳天皇の墓だ、と1500年以上にわたって語り伝えてきたのだ。
死者に思いをささげるということ、それが根源的原始的な葬送儀礼の作法であり、民衆はそこに仁徳天皇の棺がおさめられているかどうかということなど気にもしなかったが、それでもそれはまぎれもなく仁徳天皇の「みささぎ」だった。
古墳時代の人々は、霊魂などというものを知らなかった。



纏向遺跡の「箸墓」もかなり巨大な前方後円墳だが、奈良盆地の民衆が総出でつくったという言い伝えもある。その被葬者は天皇家の姫である「モモソヒメ」だといわれているのだが、最近では卑弥呼の墓だという説も出てきている。しかし、ほんとうに卑弥呼が実在してその当時の人々がそういう気持ちをささげたのなら、ずっと語り伝えられてきているはずである。
モモソヒメは三輪山の神の妻だったといわれているのだが、それはまあ、勝手な作り話に決まっている。夫である神に去られて、自分の性器を箸で引き裂いて自害したのだとか。
ただの架空の女性である可能性がいちばん高いのかもしれない。
しかし、その当時としてはもっとも巨大であった墓がなぜただの架空の女性のものとして語り伝えられてきたのだろうか。
ひとつは、その当時の天皇のような立場の存在が女だったということが推測される。そしてたぶん、その中に人々のかなしみを深くさせるとても悲劇的な死に方をした女性がいたのだろう。で、いつの間にかそういう伝説がつくられていった。
モモソヒメは、権力者でもなんでもなかった。このことの意味を、歴史家はもっとよく考えていただきたい。巨大前方後円墳は、権力を誇示するためのものでもなんでもなかった。それは、民衆の死者に対する思いを表現するモニュメントだった。
ようするに、誰を埋葬したかという事実よりも、死者に対するかなしみを語り伝えてゆくことの方が大事だったのだ。つまり、死者の霊魂などという問題よりも死者に対するかなしみを共有してゆくことの方が集団の結束のよりどころになり得た、ということだ。
墓とは、死者との別れのかなしみをささげるもの。仏教伝来以前の日本列島では、そのようにして墓をつくっていた。死者の霊魂がどうのこうのという問題など存在しなかった。
したがってもし権力者がいたとしても、権力者自身に自分の霊魂の行く末をあれこれ思うというようなこともなかった。たとえ権力者であっても、死んでゆくものは、死後の世界がどうのというような想念はなく、あくまで「今ここ」の別れのかなしみに浸されながら死んでいった。これが、「死んだら黄泉の国に行く」という日本列島の伝統風土における「死んでゆく」という体験だった。



前方後円墳というくらいで、歴史家は、円形と正方形をくっつけた様式にこだわるわけだが、横から眺めた山としての姿に対して民衆はどのような感慨を抱いていたのだろうという問題もある。
100メートルも200メートルもあるようなあんなバカでかいものなら、それが四角か丸かということはあまり意識しない。民衆にとってそれはあくまで、そのそばに立って眺める景観の方が大事だったのではないのか。
古代エジプトの人々にとってはピラミッドの三角形がもっとも美しいかたちであったように、古代の日本人にとってそれがもっとも美しい山の姿だったのではないだろうか。
ピラミッドの三角形はいかにもこの世界の「秩序」を象徴しているようなかたちだが、横から見た前方後円墳の山としてのなだらかな輪郭は、なんだか「なりゆきのままに」という風情である。
とにかくその盛り上げた土は、高さを目指したのではない。全体の「姿」が大事だったのだ。まあ、まわりの水を引き入れるための周濠の広さ=長さが大事だったのだから狭いスペースに高く積み上げる意味がなかったし、かといってその掘った土をよそに捨てに行くのでは手間ひまがかかり過ぎる。
自然の山としては、天の香久山に似ているだろうか。古代の奈良盆地でもっとも神聖視されていた山である。天の香久山のような姿を再現しようとしたのかもしれない。ただのストレートな放物線ではない。途中に秩序を乱すフェイクがある。このフェイクが日本的な「なりゆき」の美意識で、このフェイクをつくるために円形と方形をくっつけたのだろう。
大和三山のうちで、もっとも端正で美しい放物線を描いているのは耳成山である。しかし古代の奈良盆地の人々は、もっともあいまいなかたちをしている天の香久山を、もっとも愛し、もっとも美しい山のかたちだと思った。
「天の香久山」という名称は、おそらくその姿に対する感動から生まれてきたのだろう。
「天」を「あま」と読むなら「充満しているもの」というニュアンスになり、「あめ」と読めば「出現するもの」というニュアンスになる。いずれにせよ古代人とっての天空とは、何かが出現したり充満したりしている対象であったらしい。
そして「かぐ=かく」とは、「隠す」の「かく」。すなわち別の場所におさめること。「か」は「離(か)る」の「か」。「く」は「組む」の「く」。「組む」とは「おさめる」こと。
というわけで「あまのかくやま」とは、「天に充満したり出現したりしているものをおさめている山」ということになる。
前方後円墳も、池の中におさめてある山である。
奈良盆地の人々が天空に出現したり充満していると思うものは、「神」ではなく「なりゆき」だった。天の香久山の美しさは、なりゆきの美しさである。
「神の秩序」というなら耳成山がいちばんそれらしく端正であり、その究極のかたちがピラミッドである。マヤ文明のピラミッドにしろ秦の始皇帝の陵にしろ、神の秩序を意識すればおおむねそういうかたちになってゆくのだが、前方後円墳の姿は、それとはそれらとはまったく正反対の「神が不在のなりゆき」をあらわしている。
奈良盆地の人々は、「なりゆき」の姿に美を見い出していった。天の香久山の姿の美しさは、なりゆきのままに流れているスロープにある。
奈良の山の美しさは、独立峰の美しさではない。たくさんの山がなだらかな曲線で連なっていることにある。その美しさを集約すると前方後円墳の姿になる。このフェイクをいれずにいられないセンスは、まわりの山々の眺めから影響されたということもあろうが、なにごともフェイクを入れて受け入れ認識してゆくという伝統的なメンタリティが根底にあるからだろう。歴史的な外来文化を受け入れる態度はまさにそうだし、人と出会って深くお辞儀をするという作法がひとつのフェイクである。そのまますぐに微笑み合ったり抱き合ったりしてゆくということはしない。
古代の男女の出会いは、まず歌を交わすということをしてからはじまった。これだってフェイクを入れるという作法であるにちがいない。むやみになれなれしくしない。どんなに親しい関係でも、いくぶんかのフェイクが入っていなければならない。まあ、人類の「あいさつ」という生態はひとつのフェイクだといえる。
二本の足で立って向き合うということ自体がひとつのフェイクであり、それはもう人類発生以来の伝統なのだ。
つくられた当初の前方後円墳に木などなく、石が敷き詰められてあるだけだった。それでもそれを山の姿として眺めることができたのもフェイクの美意識だったのかもしれない。それ自体、山のフェイクだったのだ。
フェイクしデフォルメしたものだったからこそ、そこに山であることの真実と本質を感じていった。その「姿」の真実と本質とは、この世界やこの生は「今ここ」で完結している、という感慨をもたらすことにあった。
この世界の森羅万象のなりゆきには、つねに「フェイク」が起きている。それが日本列島の古代人の世界観だったのであって、彼らは「神の秩序」などというものは発想しなかった。
前方後円墳のモデルは天の香久山にあった……のかもしれない。僕は、歴史の状況証拠を総合してそのように考える。そこには、古代人にとっての山の眺め=姿の真実と本質があった。
まあ、方形と円形を組み合わせることだって、ひとつのフェイクである。そのような空からの眺めなどついでにそうしただけだろう。歴史家は、「前方後円」などという名称に惑わされ過ぎている。いったいそこにどんな霊的な意味があったというのか。誰も説明できないではないか。
なりゆきでそういうかたちになっただけだろう。
彼らの発想の真意は、地上からの眺め=姿の美しさにこそあったのではないだろうか。



古代人にとっての山の眺めの真実と本質は、この生やこの世界は「今ここ」で完結しているという感慨をもたらすことにあり、それはその「姿=輪郭」にあるのであって、べつに木が生えていなければならないということもない。
また、彼らにスケールの大きさを目指す趣味があったとは思えない。それは、たんなるミニチュアの「山」だった。盆栽のようなものだ。そのとき人々は「大きいなあ」という感慨で眺めていたのではない。ただもうその、「今ここ」で完結している「姿」に対する感動があった。そういう「姿」を愛でたのだ。
それは、「小さなものを愛でる」ということではない、「今ここ」の目の前の世界の真実や本質を抽出してゆく、という心の動きなのだ。
前方後円墳は、日本的なフェイクを入れずにいられない美意識から生まれてきた。
古事記の神々の造形だって、フェイクだらけである。
日本人は、この世界の「秩序」を構築してゆく思考がうまくできない。この世界を、あくまで「なりゆき」の混沌として解釈しようとする。それが、神も霊魂も知らない民族の思考の流儀なのだ。
神や霊魂を物事の本質だとは思わない。物事の本質は「姿」にある、という美意識。
「姿」は、たんなる「かたち=輪郭」であり、中身としての肉体を問うていない。前方後円墳という木が生えていない山だって山として眺めることができたのだから、そこに仁徳天皇の棺がおさめられているかどうかということなどさらにどうでもよかった。古墳時代の人々には、その墓に宿っている霊魂がどうのという発想などまったくなかった。あくまでも自分たちが仁徳天皇をしのぶよすがとしてその墓を仰いでいた。
天皇の棺が入っていなくても、たとえ被葬者が架空の存在でも、それをその人物の墓だと思い定めてゆくことができるのも、ひとつのフェイクの美意識であり、その山として完結した「姿」があればそれでよかった。
仁徳天皇の棺をおさめてくれないと困る、というようなことは誰も抗議しなかったし、天皇家だってそんなつもりはさらさらなかった。それでもそれはまぎれもなく仁徳天皇の墓(みささぎ)として完結していたのであり、そういう古代のおおらかな天皇と民衆の関係があった。
それは「天皇の権力を誇示するため」のものだったのではない。
前方後円墳は、権力の問題ではない、日本的な美意識と死生観の問題なのだ。
あくまで日本的な古代のおおらかさは、古墳時代までだった。そのあとの仏教伝来と律令制によってしだいにそのおおらかさがむしばまれていった。しかし日本人は、それでもよかった。その混乱・混沌の「嘆き」を生きること自体が伝統的な風土だったのだから、それもまたこの世界の「なりゆき」だと受け入れていった。
「なりゆき」だと受け入れてゆくことが古代のおおらかさだったともいえる。
そのようにして神も霊魂も死後の世界も生まれ変わりも知らない人々が、そうした概念の上に成り立っている仏教という外来文化を受け入れていった。それができたのも、石を敷き詰めただけの前方後円墳を山の姿として眺めることのできる「フェイク」の美意識があったからかもしれない。
仏教はそれ以後、どんどん日本的にフェイクされデフォルメされていった。もともと神も霊魂も知らないのだから、フェイクしデフォルメしてゆかないことには受け入れようがなかった。
まあ縄文時代がすでに、もともと平原で大型草食獣の狩りをして暮らしていた人々が山の中に入って木の実などを食べて暮らしてゆくというフェイクだったのだから、それ以来の伝統であるといえる。大陸とつながっていたのが切り離されて絶海の孤島になったということも、ひとつのフェイクであり、この生もこの世界も「今ここ」で完結しているという世界観・生命観だったのかもしれない。
フェイクの美意識。
縄文時代土偶火焔土器にしろ、前方後円墳にしろ、古事記の奇想天外な神の造形にしろ、平安時代のひらがなにしろ、江戸時代の百鬼夜行や浮世絵の巨大ペニスにしろ、日本人はもうフェイクしデフォルメすることばかりして歴史を歩んできた。
それは、ものごとの真実と本質を抽出してこの生もこの世界も「今ここ」で完結している、と実感してゆく作法だった。つまり、「今ここ」に存在しない神や霊魂という概念を真実だの本質だのと認識してゆく心を持っていなかったから、そういう作法になっていったのだ。
氷河期が明けて日本列島が大陸から切り離されたときの縄文人は、あの水平線の向こうには神が住むユートピアがあるとは思わなかった。「何もない」と思った。この生もこの世界も目の前の「今ここ」で完結している、と思った。彼らは、神も霊魂も知らなかった。
とにかく前方後円墳は、仏教伝来以前の日本人の意識のかたちを問うための重要な考古学資料なのだろう。われわれが知りたいことは、そのとき日本人は神や霊魂という概念を持っていたかどうかということであり、現在の知られている範囲では持っていたと考えられる証拠にはなっていない。
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