2007-08-01から1ヶ月間の記事一覧

「いじめ」について、もう少し具体的に考えてみる

「異人論」を考えることは、「いじめ」について考えることなのでしょうか。ある人からそういう指摘を受け、ちょっとうろたえています。それは、とてもじゃないが僕の手に負える問題ではないのだが、いわれてみればたしかにそういう他者論を含んでいるような…

共同体の構造とまれびと信仰

僕は、民俗社会の人びとが美しい心の持ち主だなんて、ひとことも言ってないですよ。 体験的に言えば、そりゃあ、ときにいじましく卑怯でいやらしい人種かもしれない。しかし、だからといって、小松和彦氏の言うような「異人にたいする恐怖心と排除の思想」を…

「異人殺し」と現代の「いじめ」の関係

「異人殺し」を現代の世相に引き寄せて考えれば、「いじめ」の問題になってくるのだろうと思えます。 「いじめ」は、人間社会で不可避的に起きてくるものだ、というような論調はよく聞きます。小松和彦氏が「民俗社会の人々における異人にたいする恐怖心と排…

閑話休題・ポイ捨て雑感

戦後の「モク拾い」という商売は、いったいいつごろまであったのだろうか。道端に落ちている吸殻を拾い集め、それをぜんぶほぐして、また一本ずつの新しい煙草に再生して売る、という商売です。 戦後の一時期は、それほどに煙草が貴重品だった。 僕が5・6…

まれびとの原像・2

「人間は、神になろうとしなければ、人間にすらなれない」と言った西洋の哲学者がいます。 人間であることは、神になろうとすることらしい。 神(ゴッド)と人間をはっきり分けているキリスト教の国ですらそういう認識が生まれてくるのだから、神と人間の境…

「まれびと」の原像

「まれびと」という概念は、折口信夫によって提出されたのがはじめらしいが、その詳しい定義はよく知らない。ただ、僕には僕の「まれびと」のイメージがある。あるとき、その言葉で、たくさんのことが一挙に腑に落ちたような気がした。 「まれびと」は、はじ…

閑話休題・横綱の病気

近ごろ、横綱朝青龍の心身問題が話題になっている。 ねじめ正一という人は、「朝青龍がいつもモンゴルに帰りたがるのは、それほどに彼が孤立し、繊細で素直な傷つきやすい心をもっているからだ」というようなことを語っていました。 僕には、よくわからない論…

異人論という他者論

小松和彦氏のいう「異人にたいする恐怖心や排除の思想」は、民俗社会の心性というよりじつは「戦争の時代」を生んだ近代の市民意識そのものにほかならない。現代人は、まさにその観念によって戦争を繰り返しているのであり、アメリカのイラク侵攻はその典型…

「まれびと信仰」は、日本的なセックスアピールの問題でもある・2

近世になると、遊行者や巡礼の風俗も乱れて来る。ただの物見遊山のくせに遊行者や巡礼のふりをして民家に泊めてもらおうとする者や、宗教者じしんも信仰そっちのけで商売気をあらわにする者も出てきた。しかし、そうした不心得者が出てくるということは、民…

「まれびと信仰」は、日本的なセックスアピールの問題でもある。

近世の村人の中には、積極的に町との交易をはじめて貨幣を蓄積してゆく者も生まれてきた。そういう家が村人の妬みの対象になり、「異人殺し」の家という「しるしづけ」をされることになる。 本当にそんな事件があったかどうかなどわからない。ほとんどは、村…

閑話休題・エコロジーについて考える

エコロジーという思想は、いったいどこから生まれてきているのか。 僕じしんは、タバコのポイ捨てくらいいいじゃないかと思っているのだから、そんな思想を声高に叫ぶ人々と連帯したいわけでもないのだが、否定するつもりもありません。 やっぱり、平和とか…

異人殺しとまれびと信仰

小松氏によれば、村人の異人にたいする態度が、「排除」と「歓待」の両義性を持つのは、「その異人が人々に富をもたらしてくれるのか、災厄をもたらしに来たのか、見当がつかないからである」と言っています。 この人は、歴史や伝統というものをなんと考えて…

近世の村における「異人殺し」

近世になると、遊行者や巡礼の風俗も乱れて来る。ただの物見遊山のくせに遊行者や巡礼のふりをして民家に泊めてもらおうとする者や、宗教者じしんも信仰そっちのけで商売気をあらわにする者も出てきた。しかし、そうした不心得者が出てくるということは、民…

村人と漂泊する異人の関係

小松和彦氏の「異人殺しのフォークロア」という論文の締めくくりの一節です。 ・・・ それはひと言でいえば、民族社会内部のつじつま合わせのために語り出されるものであって、「異人」にたいする潜在的な民俗社会の人々の恐怖心と“排除”の思想によって支えられ…

「異人」のいる風景

戦後の日本は、ひどい時代だった。人々の意識は荒廃し、物はなく、戦争の傷跡は人の心にも体にも街の景色にも、いたるところに残っていた。 団塊世代はそんな状況の中で生まれ、そして育っていったのです。ろくな人間になるはずがない。 しかし、不思議なも…

団塊世代が見た「異人」の風景

僕は、伊勢の生まれです。 子供のころ、観光シーズンの駅や伊勢神宮の前の通りで、よく「傷痍軍人」を見かけました。戦争で手とか足を失い、白い服を着て乞食をしている人たちです。 東京や大阪の都会には、もっとたくさんいたのでしょうか。商売柄、都会の…

異人殺しの民俗学・3

「異人論」(ちくま学芸文庫)の著者である小松和彦氏にとって、外部から訪れる「まれびと」は、「恐怖心と排除の思想」の対象であらねばならない。それによって、鬼や妖怪の話もぜんぶ説明がつく。鬼は山の民、河童は川の民、そういう共同体の外部の人たち…

異人殺しの民俗学・2

昔々、旅の僧を泊めてやったある村人は、その僧が大金を持っていることを知り、殺して金を奪った。そしてその金を元手に村の長者にのし上がっていったが、殺された僧のたたりで、生まれてくる子供が不具者や精神異常になるということが続き、やがて没落して…

民俗学における「異人殺し」というテーマ

レッズの小野のアヤックス入りの話は、ただのうわさだったのでしょうかね。小野には、史上最低の監督であったジーコを見返してほしい。オランダリーグに、小野よりうまい選手なんか、一人もいないのだから。そういうことは、たぶんオランダ人が一番よく知っ…

「かちかち山」のカタルシス・3

僕は、正義の市民づらをした団塊世代が大嫌いです。団塊世代というより、戦後生まれの大人たち、というべきでしょうか。 人は、まっとうな市民であらねばならないのか。僕には、そんな能力はない。彼らは僕を責めるが、誰もがまっとうな市民であろうとするこ…

「かちかち山」のカタルシス・2

・・・ 昔々、三人の娘を持った爺がいて、つらい畑仕事に耐えかねて「この仕事を手伝ってくれる者がいたら、娘を嫁にくれてやるのに」とつぶやいた。するとそれを聞きつけた猿がやってきて、畑仕事をかたづけてやり、約束だから娘を嫁にくれと迫る。しょうがな…

異人論・「かちかち山」のカタルシス

「異人論(ちくま学芸文庫)小松和彦・著」、という本にたいする感想です。 動物や妖怪といった異人に結婚を迫られた娘が、その相手をうまく罠にかけて殺してしまう・・・・・・そのようなパターンの民話が数多くある。 そしてこれらの話こそ「民俗社会の人々にお…

若者論としてのザ・フー・14

ザ・フー論は、ひとまず今日で終わりです。ほんの少しだったとしても、ザ・フーのファンの誰かが読んでくれているという感触を持つことができたのは、すごくうれしかったです。 ・・・・・・・・・・・・ ビートルズは、「ラブ・ミー・ドゥ」とささやき「プリー…

若者論としてのザ・フー・13

こんなことばかり考えていたら誰とも連帯できない人間になってしまう、という気分は正直言っていつもあります。しかしもう、引き返せない。 世の中の善男善女に対してはもう、そんなふうにおめえらの薄汚い俗物根性を俺の前に突き出さないでくれよ、と思うば…

若者論としてのザ・フー・12

社会も大人も、存在の本質においてくだらない。若者のほうが、ずっと美しい。身体的にも精神的にも、それはもうどうしようもないことです。 近代合理主義は、大人たちの若者に対する嫉妬を正当化し、それを消去する装置として機能している。若者は愚かだなん…

若者論としてのザ・フー・11

ザ・フー論のための覚え書きとして、今日は、若者という「異人」について考えてみることにします。 生きることの意味や価値を追求することは、共同体の動きに参加してゆくための、ひとつの手続きです。そういう考えを持っていないと働くことなんかどんどん嫌…

若者論としてのザ・フー・10

人間は、社会を嘆かずにいられない生きものです。 共同体の意志などというものはないし、共同体のアイデンティティというものもまたない。共同体は、人々に嘆きを与える危なっかしい存在であらねばならない。 共同体が存在するのは、人々の望むところではな…