「異人殺し」と現代の「いじめ」の関係

「異人殺し」を現代の世相に引き寄せて考えれば、「いじめ」の問題になってくるのだろうと思えます。
「いじめ」は、人間社会で不可避的に起きてくるものだ、というような論調はよく聞きます。小松和彦氏が「民俗社会の人々における異人にたいする恐怖心と排除の思想」というのも、ようするにそういう「いじめ論」です。あるいは、そういう「いじめの衝動」が起きてくる心性を、いまや滅びつつある民俗社会のがわに追いやることによって、それとは異質な現代の市民意識が無傷であるかのように取り繕おうとしているのかもしれない。
いずれにせよ、「いじめ」とは「異人に対する恐怖心と排除の思想」によって起きてくる現象である・・・・・・ひとまずそういうふうにいえるのかもしれません。
で、小松氏は、その意識の水源が歴史的な「民俗社会」にあるという。
そして僕は、いや違う、それは、共同体の支配者が抱く強迫観念であり、現代の市民意識そのものでもあるのだ、といいたいわけです。
「異人にたいする恐怖心と排除の思想」は、民俗社会固有の心性とは別のものなのだ、と僕は思う。民俗社会の根底にあるのは「まれびと信仰」という他者意識なのだ、と。
小松氏がいうように、「異人に対する恐怖心と排除の思想」が、いまや滅びつつある民俗社会の根底にあるのなら、それに取って代わった近代市民意識に覆われた現代社会で「いじめ」が頻発してくるはずがないのです。
市民意識は平等の思想なのだから「いじめ」はしない、なんて、そんな単純なものではない。平等を止揚してゆこうとするから、差異を持った「異人にたいする恐怖心と排除の思想」が生まれてくるのだ。
権力者もわれわれ市民も同じ人間だと思うから、市民のがわにも、権力者のような「異人に対する恐怖心と排除の思想」が生まれてくる。
それに対して民俗社会の人々は、権力者を違う人種(異人)と認識し、その差異を受け入れ嘆きながら生きていた。
受け入れていたのは、その心性の根底に、異人にたいする「まれびと信仰」を持っていたからです。
研究者の分析する「異人」の概念なんて、程度低くてステレオタイプで、笑っちゃいます。
日本列島の「農民」や「えた」や「非人」といわれる民俗社会の人びとが、権力者にいじめぬかれた歴史を歩んできたのは、いまさらいうまでもないことのはずです。その「いじめ」を受け入れてしまうのは「まれびと信仰」です。
「えた」や「非人」は民俗社会の一員です。権力者から見て「異人」であるだけです。そして農民の、権力を受け入れ権力に加担する意識において、同じ民俗社会の一員であるはずの「えた」や「非人」を差別する。権力に加担する意識において、「えた」や「非人」が「異人」となる。
「異人にたいする恐怖心と排除の思想」は、権力のがわから下りてくる意識です。そして「まれびと信仰」を持っている農民は、避けがたくそれを受け入れてしまう。また、「まれびと信仰」を持っているからこそ、権力による「いじめ」も受け入れてしまう。「えた」や「非人」にしても、「まれびと信仰」を持っているからこそ、農民による「差別=いじめ」を受け入れてしまう。民俗社会の歴史は、この循環構造として動いてきた。
一方、現代の市民は、権力者も同じ人間だという平等の意識で、権力者の「異人にたいする恐怖心と排除の思想」を先取りする。だから、かつての民俗社会よりもずっとあからさまに権力者と「異人にたいする恐怖心と排除の思想」を共有している。
現代の市民に、権力者を「まれびと=異人」として受け入れる意識はない。同じ人間としての仲間意識というか、なれなれしさがあるだけです。
現代社会がなれなれしい仲間意識に覆われているとすれば、かつての民俗社会は、遠い存在の「異人」に対するときめきを基調として他者との関係が成り立っていた。だから、権力者のあくどい「支配=いじめ」も受け入れるほかなかった。
現代人は、そうした権力者の横暴は許さない。しかし権力者と同じように「異人にたいする恐怖心と排除」という「いじめの衝動」も色濃くたぎらせている。
そうして、市民意識に邁進していったんは「まれびと信仰」を屠り去ったかのように見えた戦後社会だったが、ここに来てその伝統がよみがえりつつある。
現代の若者の多くは、団塊世代をはじめとする戦後生まれの大人たちより、ずっと他者を「祝福する」という「まれびと信仰」のタッチを持っている。だからこそ、悲しいことに「いじめ」を受け入れてしまうのだ。
よりあからさまになってきた「いじめの衝動=異人にたいする恐怖心と排除の衝動」と、それを受け入れる「まれびと信仰」の復活、その相乗効果によって、現代の「いじめ」の問題が暴走しているのではないでしょうか。
そういう歴史的な行きがかり上の問題がある。そしてそれが、過渡的な現象であるのか、それとも現代市民社会の避けがたい与件として長く定着してゆくのか、そこが問題です。
ともあれ、民俗社会の根底にある心性は「異人に対する恐怖心と排除の思想」にある、などとほざく研究者に何がわかるものか、そのていどの短絡的な分析だけで民俗社会の心性を語られたくはない、という気持はどうしてもあるわけで、もうしばらく「異人論」にこだわってみたいと思っています。